第24話

 ロッシャとレアンは顔を見合わせる。驚きと戸惑いがあったが、徐々に納得の気持ちが湧き上がってきた。

 ラターリオの引退は、リーアンジェの結婚が理由だった。

 彼の引退には必ず彼女が関係しているだろうとロッシャは考えていたのだが、そうか、結婚だったのか。

 彼女への想いを歌っていたラターリオは、結婚を機にその足を止めてしまった。

 歌う未来を、止めてしまった。


「……以前、ラターリオは俺に言ったよな。もう歌う理由がなくなったって。それが、これかなのか?」

「あぁ。もう彼女は誰かのものになってしまった。そこに僕が入ってはいけない。彼女の幸せを願わなければいけないって思って、歌うことを止めた」


 リーアンジェはあっという間にいい人を見つけて結婚したと聞いている。それはきっと彼女にとって幸せな結婚だったのだろう。

 そして意図せず、ラターリオを舞台から降ろしてしまった。


「これは僕の一方的な想いだったから、彼女の幸せを邪魔しようなんて思わなかった。実際、セドレン……リーアンジェの夫はとても誠実で優しい人だった。レアンが生まれてより幸せになって、僕はそれでいいと思ったんだ」

「……」


 レアンは何か言いたげに口を開いたが、すぐに閉じてしまう。言葉がうまく出てこないのだろう。

 無理もない。ずっと隠されていた叔父の秘密がこうやって明らかになるのだ。冷静さを装っても、心はぐちゃぐちゃになっているに違いない。


「もうこれ以上歌ったって虚しくなるだけだから、僕は舞台から降りた。興行主からも劇場スタッフからも、事務所やアディル達からも散々引き止められたけどね。それでも僕は去ったよ」


 5年という歌手人生は、果たして彼にとって長かったのか、短かったのか。充実していたのか、虚しかったのか。

 歌うことで得られた名声は、きっと彼にとってガラクタにも等しいものだっただろう。要らないものだっただろう。

 彼はただ、愛しい女性への想いを歌い続けていただけなのだから。


「……前、父さんから聞いたことがある。ラターリオが引退した後、おじいさんとおばあさんが凄く怒ったって。あれは、本当なのか?」

「え?」


 レアンの問いに真っ先に驚いたのはロッシャだった。おじいさんとおばあさんと称する相手は、恐らくラターリオの両親。

 引退して怒った?

 息子が華やかな世界からあっという間に去ることを良しとしなかったのだろうか。


「本当だよ」


 ラターリオは即答する。少しばかり、眉を顰めていた。


「あの人達は、僕が歌うことで得たお金に縋っていた。何度も何度も催促に来たものだよ。その度にリーアンジェが止めてくれたりしたが、それでも僕は僅かな金銭は渡していた。渡すことで静かになるならそれでいいと思って」

「……」

「僕が引退して、歌の収入がなくなったと分かった瞬間に激怒していたな……。親不孝だなんだって喚かれてね。そこで改めて、僕は父にも義母にも愛されていないんだって分かって、もう故郷に帰らないと決めた。それでこの家を購入して、ひっそり暮らすことにしたのさ」


 言葉が出なかった。なんと返せばいいのか分からなかった。あまりにも壮絶な事実が明らかになって、戸惑うばかりだ。

 この家に両親の写真がないのはおかしいと思っていた。そういえば、両親の葬式にも出なかったとレアンは言っていたな。

 親子の縁を切っていたからだ。

 ラターリオの収入に頼り、そのお金で豪遊でもしていたのだろうか。息子が稼いだ金を、自分の稼ぎのように。


「……信じられねえ」


 本当に現実の話かと眩暈がした。彼らにとってラターリオは金を持ってくるだけの存在に見えたのか。

 ラターリオは親の愛情を受けていなかった。血の繋がらない義母はともかく、実の父親からでさえも。引退しただけで簡単に縁が切れてしまうなんて、あまりにも脆い。

 ロッシャの家族は、ロッシャが舞台で踊った報酬を当てにすることはなかった。それは自分が稼いだ金だからと、受け取りを拒んだくらいだ。事故に遭って踊れなくなっても、ロッシャを咎めることはなかった。

 これが普通だと思っていた。

 これが、何処にでもある話だと思っていた。


「引退してからはロッシャも知っての通り、アディルの手伝いをしたり、ボイストレーナーをしたりしながら暮らしてね。両親とは会わなかったけどリーアンジェとは不定期に会っていた。彼女への想いはなかなか捨てられなかったけど、幸せを願うことが僕の幸せだと思って接してきたんだ。……だけど」


 カップを掴もうとしたラターリオの手が震えた。


「……彼女は、死んでしまった」

「……っ」


 レアンが言葉を詰まらせる。母親が死んでしまった話は、昇華できない過去だ。いつまでも遺族の心を蝕んでいく。

 赤の他人である筈のロッシャも、胸がざわめく。


「もう彼女がいない現実が信じられなくてね、段々自堕落になっていったよ。仕事もやめて、適度に入ってくる印税だけで静かに暮らしていた」


 以前ラターリオがロッシャに言っていた、飲んで寝てばかりの生活を過ごしていたと。それがこれに当たるようだ。

 彼がそうなってしまったのはリーアンジェの死にあったのか。


「そんな時に僕はロッシャと出会ったんだ。リーアンジェと同じように事故に遭いながらも生還し、生きること、舞台に立つことを諦めない強い光があった。とても眩しく見えた。そんな彼の背中を押したくなった」

「……」


 言葉に詰まった。

 バーで出会ったラターリオは穏やかな雰囲気をまとったまま、ロッシャに歌ってみないかと声をかけた。当時は、ロッシャにとって彼が救いの光に見えた。

 実際は違った。あの頃の彼は既に抜け殻で、明日を見いだせていなかった。ロッシャと出会ったことで、明日に対する僅かな希望と光を見たということか。


「だけどね」


 半ば嬉々とした色を見せながら話していたラターリオだったが、ふと表情に陰りが。

 そして彼の手は一冊の本に伸びる。それは先程まで目を通していた、リーアンジェの日記だった。


「……そんな中で、この日記だ。どうして僕とリーアンジェは、こんな簡単に失敗してしまったのかな」


 今にも泣きたくなるような、寂しい笑みを浮かべる彼。慟哭してしまった内容がそこに記されているのだろう。

 一体何が記されていたのか。ここまで彼のリーアンジェの思いを聞いてしまったロッシャは、気になってならない。

 触れてもいいのだろうか。

 その日記に、目を通してもいいのだろうか。


「なぁ、それは俺が読んでいいのか?」


 彼女の遺品に、無関係のロッシャが読むのは本来ご法度だ。だが、ここまで秘密を共有してしまった以上、触れたくなってしまうのも事実。

 ラターリオとレアンの了承が必要だが。


「僕は構わない。君にも知ってもらいたい」

「俺もいいよ。そこまでラターリオがあんたを信頼してるなら……」


 2人はあっさりと了承した。レアンは渋ると思ったが、恐らくラターリオの告白に何かしら思うことがあったのだろう。気が付けば彼の表情に険しい色はなかった。


「ありがとう」


 軽く頭を下げたロッシャは、リーアンジェの日記を受け取る。

 そして1ページ目を開き、目を通した。

 彼女の、誰にも明かさなかった告白を……。

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