第23話
「ラターリオ、落ち着いたか?」
キッチンから淹れたてのコーヒーを持って、ロッシャが問いかける。芳醇な香りが漂い、部屋をゆっくりと包み込む。
「……あぁ、すまない」
ラターリオは未だに額に手を当てて項垂れてはいるものの、慟哭したり取り乱したりすることはなかった。散々喚き、叫んだのだ。もう彼にその力が残っていないと言うべきか。
向かいに座ったままのレアンは何も言わなかった。先程まではラターリオに対して怒り狂っていたというのに、今の彼は落ち着いている。
いや、落ち着いていると言うよりは、戸惑っているという表現が正しいか?
普段見ることのない叔父の姿に、冷静でいられるはずもない。
「レアン、お前もコーヒーでいいか? 砂糖が欲しいならあるぞ」
「……じゃあ、1つくれ」
「分かった」
ロッシャもレアンに対する警戒心は薄れていた。今の彼なら、ラターリオに何かをすることはないだろう。スティックシュガーとティースプーンを手に持ち、彼に手渡した。
自分の手際の良さに少し驚かされる。何度もここに足を運んでいるからだろう。何処に何があるのかも、ある程度は把握していた。
レアンにコーヒーを置いて、ようやくロッシャは席につく。ラターリオはカップに手を伸ばさないまま、小さく息を吐いた。
「すまない、ロッシャ。迷惑をかけてしまったね……」
「俺は迷惑だなんて思ってねえよ」
ラターリオが取り乱してしまうほどに、リーアンジェの日記は衝撃的なものだったのだろう。驚きはしたが、それを迷惑だとは微塵も思わない。
「……レアン、言いたいことは分かった。君が怒ってしまうのも無理はない。だが、これだけは言わせてほしい」
ようやく顔を上げたラターリオだが、その表情に力はなかった。まるで本当の抜け殻になってしまったかのように。
「僕とリーアンジェには、何もなかった」
「は?」
「何もなかったよ。彼女の日記にもそう書いてあっただろう?」
未だに納得していない様子のレアンだが、激昂することはなかった。何処か戸惑いの色を帯びている。
何もなかった。その言葉から推測するに、恐らく……。
「僕の知っていること、僕の思っていることは全部話すよ。君が納得してもしなくても、黙っていたことは全部……」
「……分かった」
レアンは小さく頷く。少し緊張しているらしく、表情が強張っている。無理もない。母親と叔父の、何かしらの秘密が明らかになる。彼には少し酷なことが起こってしまうかもしれない。
そしてこれは家族の問題だ。部外者であるロッシャが聞くべき内容ではない。
「じゃあラターリオ。俺は帰るよ。またレッスンが行けそうな時に連絡をくれ」
そう口にして立ち上がろうとしたが、
「待ってくれ、ロッシャ!」
「え?」
「君もいてくれ。聞いてほしいんだ」
ラターリオに引き止められ、ロッシャは困惑した。悲痛な声でそう訴えるということは、本心なのだろう。
だが、家族の話を赤の他人であるロッシャが聞くのはよくないのでは? ただでさえ多感な時期であろうレアンがいるというのに。
「君にも、少なからず関係してくることだから……」
「え、俺も?」
「構わないね、レアン? ロッシャは決して他人に口外するような軽薄な男じゃない。この話はロッシャにも少し関わってくるんだ。参加させてくれ」
驚くロッシャをよそに、ラターリオはレアンに懇願する。その眼差しは真剣そのもので、ロッシャにいてほしいのだという想いが感じられた。
コーヒーを一口飲んだレアンは、戸惑いながらも頷いた。
「あ、あぁ……」
本当はレアンを思って立ち去るべきだが、自分にも関係あるのであれば聞いておかなければならない。レアンに謝罪しつつ、ロッシャは椅子に座り直す。
張り詰めた空気が流れる。
ロッシャはちらりと本棚を見た。リーアンジェの写真立てはいつもどおり立っている。穏やかに微笑む彼女がこちらを見ているような気がした。
「何処から話せばいいのか、順序良く話せないけれど……まず、これだけは告白しておこうと思う」
ラターリオはそう言いつつ、コーヒーを口に含んだ。
「……僕は、リーアンジェに恋をしていた」
より一層、空気がぴきりとひび割れたような気がした。それはきっと、レアンの醸し出す空気だ。彼は何も言葉を発しなかったが、その心中は穏やかなものではないだろう。
だが、ロッシャはうろたえることも動揺することもなかった。寧ろ、あぁやはりという納得があった。
分かっていた。
確証とまではいかないが、恐らくそうだろうという予想はあったのだ。ラターリオはリーアンジェに恋をしているということを。
今まで、彼はリーアンジェに対する感情と想いをロッシャに語ってくれた。たった一部分、一欠片程度のものだったけれど、それでもその熱は確かに伝わった。
リーアンジェの写真しか置いていない部屋。ロッシャの事故を彼女の事故と重ねたこと。彼女について語った時に見せた寂寥の表情。そして彼が歌った数々の《悲恋》。
散らばった欠片を拾って繋げたら、脆いながらも線になったのだ。
「どういうことだよ、ラターリオ……。まさか、母さんと」
「待ってくれ、言っただろう? 僕と彼女は何もなかったんだ。僕の一方的な片思いに過ぎなかった」
「じゃあどうして……!」
椅子から立ち上がりそうになったレアンに、ロッシャが制する。
「レアン、まずはラターリオの話を全部聞いてやれ」
「……っ」
「殴りかかるのはそれからでもいいだろ」
実際、殴りかかろうとしたら全力で止めないといけないが、今は彼を下手に刺激させないほうがいい。
「ラターリオ、続けてくれ」
「……ありがとう、ロッシャ。じゃあ最初から順番に話させてもらうよ」
そう話すラターリオの表情は少しだけ色を取り戻した。だが、やはり抜け殻だ。空元気な懺悔、なのかもしれない。
「僕が15、リーアンジェが18の時に親同士が再婚した。僕もリーアンジェもずっと一人っ子だったから、姉弟になって喜んだよ。その時は、特に何の感情もなかった。僕に姉ができたという事実だけがそこにあった」
それはロッシャも聞いていた内容だ。ラターリオの父親とリーアンジェの母親が再婚したのだったな。
「当時の僕達は、ピッシェという北東部の街に住んでいたんだ。両親はどちらも働いて忙しくてね、僕とリーアンジェはいつも一緒にいたよ。親の代わりに家事をして、料理を作ってくれて、そして優しかった。きっかけは何だったかもう思い出せないけれど、僕はいつの間にか彼女に恋をしてしまった」
空っぽの微笑みが、ロッシャの心を抉っていく。それはきっと、レアンにも届いているのだろう。
「でも、血が繋がっていないとはいえ、流石にリーアンジェに想いを告げるなんてできなかった。少年時代の僕は結構内気でね、彼女への想いを歌にして逃げたんだ。……そこで生まれたのが『暁』だよ」
「『暁』……?」
思わぬ曲名にロッシャは目を見開いた。彼のデビュー曲で、母親も自分もよく聞いていたあの曲が、リーアンジェを思った始まりの曲だったのか。
「街の公園で一人で歌っていたり、クラスメイトと一緒に歌っていたりしたら、クレアレーネから来た人にスカウトされて、あっという間に僕はクレアレーネの舞台に立ったんだ」
「話が急すぎねえか?」
「あまりその辺は覚えてないんだよ。何せ20年以上前の話だし……」
ロッシャの言葉に、ラターリオは困惑したように笑った。
確かにそうだ。20年以上前のことなんてそう簡単に覚えているものではないか。
しかし、ラターリオがデビューしたきっかけは街でのスカウトか。舞台に上がることを夢見てクレアレーネに来たロッシャとは全く逆だ。
きっと本来のラターリオは、クレアレーネの舞台に上がることなんて考えていなかったのだろう。ただただ、彼女への想いを歌いたかっただけなのか。
「それから僕は、たくさん歌を作ったよ。でも僕には歌詞を作る能力がなくてね、いつもいつも、リーアンジェを想った歌ばかりがヒットしてしまったんだ。結果として僕は、悲恋を歌う歌手として扱われるようになった」
『暁』を筆頭に、『花の葬列』、『嘘の答え』、『星を奏でる』……。これらは全て悲恋や儚い恋をテーマにしたものだった。常に歌詞の中の《僕》は苦しみ、悲しみ、未来へと進めない。
残酷だが、それがよりリアルに感じた人が多く、あっという間に人気歌手に上り詰めた。
多くの人を魅了した歌は全て、リーアンジェを歌ったものだったのか。
「でも、そんなリーアンジェをイメージして歌ったものなら本人に気づかれてたんじゃ……」
「気づいてなかったよ。母さんすっげえ鈍感で抜けてるから。死ぬギリギリまで、何も知らないままだった」
レアンが淡々と答える。先程よりは冷静さを取り戻しているように見えた。
そういえばラターリオも言っていた。リーアンジェは何処か抜けているところがあったと。それ故に、ラターリオの歌が自身への想いの歌だと気づかなかったのか。
とはいえ、彼の今までの歌に出てくる《僕》の想い人は様々だ。既に死んでいる人だったり、10年近く付き合った恋人だったり、届かない高嶺の花だったり……。リーアンジェと直結するものは何もない。
気づかないほうが普通なのか?
だが、レアンの言葉を聞く限り、死ぬギリギリまでは知らないままだったという。ということは……。
「ロッシャの言うとおりだ。歌い続けたらいずれリーアンジェに気づかれてしまう。早くこんなことをやめなければと思ったよ。でも止められなかった。歌うことで、彼女への想いを叫ぶことができていたから。……僕は、とても愚かだった」
「……」
「でも、歌手としての時間は5年で終わったよ。僕は舞台を降りることにした。もう歌うことをやめようと決めたんだ」
ラターリオは小さく息を吐き、目線をずらした。
本棚の上で微笑むリーアンジェがいた。
「……彼女が、結婚したからね」
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