第22話


「レアン?」


 思わずロッシャは聞き返した。全く知らない名前だが、ラターリオが名前を呼んだということは、知り合いなのだろう。


「僕の甥だ」

「甥?」


 一瞬、理解ができずに目を瞬かせた。確か甥は、兄弟の子供に当たる人のことを言う。と、いうことは。

 まさか、


「もしかして……」

「あぁ、リーアンジェの息子だよ。……まぁ、甥とはいえ、血は繋がっていないんだけど」


 そういえば、リーアンジェには子供がいたとラターリオは話していた。子供が小さい時に彼女は亡くなってしまったと。

 彼女の死から10年。甥も当然大きくなっているのだろう。


「どうしたんだろう。何かあったかな……」


 と不思議そうに首を傾げながら、ラターリオは玄関まで歩く。ドアは止まることなくけたたましく鳴っていた。

 あそこまで強く叩いてラターリオを呼ぶということは、何か大変なことが起こっているのではないか? そう思わずにはいられなかった。

 玄関まで歩み寄る。擦りガラスに人影が映っていた。恐らくあれがレアンだろう。何度モラタ―リオを呼ぶ声が聞こえる。

 尋常ではないとロッシャは感じたが、ラターリオはあくまで冷静さを保っていた。


「今開けるよ、レアン」


 そう言い、ドアの鍵を開ける。

 と同時に、勢いよく扉が開いた。視界に、金の髪をなびかせた少年が飛び込んでくる。その表情は、とても怒気に満ちていた。


「ラターリオ!」


 家の中に入るや否や、レアンはラターリオの胸倉を掴んだ。背が低い彼は、鋭い目つきでラターリオを見上げている。


「れ、レアン?」

「母さんの日記を読んだぞ、どういうことだよ!」

「日記? 何が……」


 戸惑うラターリオだが、レアンの勢いは止まらない。決してその胸倉を離そうとはしなかった。

 このままレアンがラターリオに暴力を振るう可能性だってある。

 ロッシャは慌てて間に入った。


「お前、何してんだ!」


 無理矢理レアンの手を引き離し、ラターリオの前に立つ。いきなりこのようなことをするなんてと、ロッシャも怒りがこみ上げる。


「誰だよお前は!」

「ロッシャだ。ラターリオの元でレッスン受けてんだよ!」

「知るかよそんなこと! どけよ!」


 レアンはロッシャに掴みかかる。その怒りは治まりようがなく、とにかくラターリオに手を伸ばしたくて必死なようだ。

 だが彼に近づけさせてはいけない。この興奮状態ではラターリオに何をするか分からない。まずは落ち着かせないと。

 ロッシャも同様にレアンに掴みかかり、ラターリオの盾となろうとした。

 だが、


「やめなさい!」


 響き渡る大きな声に、ロッシャもレアンも動きを止めた。はっと振り返ると、眉を顰めたラターリオがこちらを見ている。

 彼がここまで大きな声を出すなんて初めてだ。歌手だったこともあり、その威力はとても強かった。


「ロッシャ、自分の足のことを考えなさい。折角上手に歩けているのに、このせいで満足に動けなくなったらどうするんだ。馬鹿な真似はやめてくれ」

「……あ、あぁ」


 彼の気迫に押されたロッシャは、言われるがままに頷き、レアンから手を離した。


「レアン。君が何に怒っているのかは分からないが、僕は逃げも隠れもしないから落ち着いて話をしなさい。ロッシャは足に後遺症を持っている。これ以上の騒ぎを起こさないでくれ」

「……分かったよ」


 軽く舌打ちしたレアンだが、彼もまたラターリオの気迫に負け、大人しく従った。しかし納得はしていないのか、表情は険しいままだ。

 気を抜くとまた掴みかかってくるかもしれないと、ロッシャは警戒した。


「ひとまずこっちへ来なさい。そこで話をしよう」


 ラターリオはリビングダイニングに案内した。二人を隣同士に座らせて、ラターリオはその向かいに座る。

 空気はとても張り詰めていた。レアンは一向に険しい顔のままだし、ラターリオも眉を顰めている。

 一体何が起こっているのか、ロッシャには皆目見当がつかなかった。

 だが、家の中に入ってきたレアンの言葉を思い出す。彼は母さんの日記を読んだと言っていた。

 母さんということは、つまりリーアンジェだ。彼女が遺した日記を見たレアンはラターリオに激しい怒りを滲ませた。一体、その日記には何が記されていたのか。


「レアン、どうやってここへ来たんだ? 君の住んでいる街はクレアレーネから遠いだろう。それに今日は月曜日だ。学校は?」

「電車とバスだよ。あんたの家は父さんが覚えてたからな。学校は休んだ」


 あぁやはり学生だったか。見た限り、ロッシャよりも年下に見える。リーアンジェが亡くなった時点で小さかったと言っていたから、今は15~16くらいか?


「今度引っ越す予定だから、家の片付けをしていた。その時に母さんの日記を見つけたんだよ。そしたら、こんな……」


 レアンはぐっと歯を食いしばり、持っていた鞄の中に手を入れた。そしてすぐさま何かを掴んで取り出す。

 それは一冊の本だった。ハードカバーの厚い、白に金の飾りが付けられた綺麗な表紙だった。だが白は少しばかりくすんでいる。


「ラターリオ、どういうことだよ!」

「レアン、詳しい事情を話してくれないと僕も分からない。とにかく、彼女の日記を読ませてくれ」


 困惑するラターリオに、レアンは日記を投げ渡す。母親の遺品だというのに随分と荒い扱いだ。余程怒りが治まらないのだろう。

 日記を受け取ったラターリオはそれを1ページずつ捲っていく。まだ問題の箇所が見つかっていないのか、数ページだけでは反応はない。


「お前なぁ、一応叔父さんなんだからもう少し丁寧に接しろよ……」


 ロッシャは呆れた様子でレアンに言うものの、それで彼が素直に従うことはなく。


「母さんの葬式以来まともに顔を出さなかった奴なんて叔父でも何でもねえよ。祖父母が死んだ時なんか、葬式に来なかったし……」

「え? それってリーアンジェ側の?」

「そうだよ」


 つまりラターリオの両親でもある。彼は両親の葬式に出席することはなかったのか。

 部屋に両親の写真がないということは、やはり……。


「まぁそれでも、ラターリオは適度に俺と父さんに金を送って援助してくれたんだ。母さんがいなくなったから助けてくれてるんだと思ってた。だけど、母さんの日記を見て分かった。こいつは……!」


 また感情が高ぶったレアンは勢いよく椅子から立ち上がる。このままではいけないと、慌ててロッシャも止めるために立ち上がるが。


「……嘘だ」


 思わぬ声に、二人の動きが止まる。恐る恐る視線を向けると、日記を開いたままのラターリオが俯いていた。

 その表情は、窺えない。


「ラターリオ?」


 ロッシャが声をかけるが、ラターリオの返事はない。ただただある日記のページを開いたまま、手で顔を覆ってしまう。


「嘘だ、嘘だと言ってくれ! リーアンジェ!!」


 激しい慟哭。

 悲痛な叫び声。

 手で顔を覆い、口さえも隠れていても尚、彼の声は部屋中に響いた。轟いた。

 悲しみばかりが集約した、重く苦しい感情の塊が、小さな空間の中に広がっていく。巨大な手になって包み込んでくる。


「……」


 ロッシャは黙ってそれを見つめることしかできなかった。

 感情を露わにすることなく、常に穏やかな雰囲気をまとっていたラターリオがここまで感情を爆発させてしまうなんて。

 リーアンジェは、彼に何を伝えたのだ? その日記から、彼に何を……。

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