第21話


「……凄い。『ロビン』ってジャズ風になるとこうなるんだね」


 スマートフォンを横に持ったラターリオは、そこに映っている映像を見つめていた。その表情は嬉々としていて、口元は笑んだままだ。

 ダイニングテーブルに腰掛け、ラターリオは映像を眺め、ロッシャはそれをぼんやりと見ていた。

 バーのコンサートから翌日、ロッシャはレッスンのためにラターリオの家を訪れていた。そしてレッスンの前に、昨日の映像を見せた。

 映像を撮っていたのはエデュートだ。マスターから特別に許可をもらったらしい。

 ずっと上に掲げながら撮影したらしく、映像は少し揺れているものの、しっかりネイコの伴奏とロッシャの歌を拾っていた。


「このピアノの子、とても上手だね。プロかな?」

「いや、アマチュアだよ。俺の友達の彼女で、日本から来たらしいんだけど」

「そうなんだ。この子のピアノとロッシャの歌、とても合っているね」


 練習していた時のことが昨日のように思い出される。最初はピアノと歌が合っていなかった。何度も何度も練習し、ロッシャもネイコも表現を変えてみたり、音の抑揚を変えてみたりしながら完成したものだ。

 あの練習は決して無駄ではなかった。確かな経験となって残り続けるだろう。


「ロッシャ。とても素敵に歌うようになったね。ジャズ風に歌うなんて教えていなかったのに、ちゃんと自分でコントロールできるようになってる」

「そうか? ラターリオに言われたら自信が持てるよ」


 コンサートに向けてネイコとの時間を作っており、ラターリオのレッスンは受けていなかった。だから彼からジャズの歌い方を教わることはなく、ただ電話で簡単なアドバイスを受けただけに留まっていた。

 それでも、称賛を受けた。

 まだ完璧とは言えなくても、近づけただけで大きな成長と言えよう。今まで受けたラターリオの教えを胸に抱き、発揮した。そして歌い上げることができた。

 あぁ昨日の熱はまだ収まりそうにない。


「僕の歌がこうして歌われているのは何度も見てきたけど、ロッシャに歌われるのは嬉しいものだね」

「良かった。俺も、あんたの歌を歌えて楽しかったよ」


 まだあの時の余韻は残っていた。景色もしっかりと脳裏に映っている。老婦人の言葉も、マスターの言葉も、エデュートの言葉も何もかも。

 歌うということがこんなにも楽しい。自分が作り上げた世界の中に誰かがいるということも喜ばしい。初めてダンスの舞台に立った時とはまた違った熱がこみ上げてくる。


「歌ってみてどうだい? 何か気付いたこととかあったかい?」


 一通り映像を見終わったラターリオはロッシャにスマートフォンを返しつつ、訊ねる。


「……気付いたこと」


 昨日のことを思い出す。多くの人がロッシャの歌に耳を傾けていた。誰もが席を立つことなく、静かに座って、酒を飲みながら。

 直接感想を言ってくれたのは老婦人と、後数人の紳士風の男性くらいか。それでも一つひとつの言葉はロッシャの中へと浸透していった。

 彼らは確かにロッシャの歌の世界に入り、心に響いていたのだ。


「アディルさんも言ってたけど、俺自身が楽しまないと相手に伝わらないってことかな。それと……たった1人でも、俺の歌で救われるのであれば、これ以上の喜びはないってこと」


 老婦人の笑顔を思い出す。心の底からロッシャの歌に感激していた様子だった。恐らく全ての客の中で一番、ロッシャの歌に救われた人なのだろう。

 世界中の全ての人に歌を好きになってもらうことはできない。でも、たった1人だけでも振り向き、満たされるのであれば喜ばしいこと。

 昨日の彼女との会話で改めて気付いた。


「……あぁそうだ。正解だよ、ロッシャ」


 ラターリオは小さく頷いた。


「確かにプロになれば、万人に響くような歌を歌う必要があるし、そういうものを求められるだろう。でも、実際はたった1人の心に響き、その人に光を与えることができれば、それだけでも歌う意味がある」

「……」

「例えば僕の歌でも、あぁ好きだなと留まる程度の人が殆どだ。僕の歌で救われた、勇気づけられたと言ってくれた人は全体の半分にも満たない。でもそれでいいんだ。名前も顔も知らない誰かに光を与える歌を歌うことこそが、歌う理由なんじゃないかな。僕はそう思っている」


 彼の言うとおりだ。世界にはたくさんの人がいる。ロッシャの歌を好まない人だって出てくるだろう。でも、そんな人に向けて好きになってもらう歌を歌う必要はないのだ。

 たった1人の、名前も顔も分からない、何処かにいる誰かに響けば、それでいい。そして楽しく歌い続ければ、それでいい。


「……もしかして、最初に俺に言った、歌う理由というのはそれか?」


 初めてのレッスンの時を思い出す。ラターリオはロッシャに、歌う理由を訊ねた。その時のロッシャは、「万人の人の心に響くため」と答えたのだが。

 ラターリオはそれ以外にもあると言った。それは歌が物になった時に話そうとも。


「あぁ。それに気付けたら、もっと歌う幅が広がるよ」


 なるほどと、ロッシャは頷く。今後のレッスンもそれを意識したものへと変わっていくのだろう。

 ふと気付いたロッシャはラターリオに問いかけた。


「なぁ、例えばだけどさ、今後アマチュアで歌い続けるのも、一つの道としては正解なのか?」

「そうだね。アマチュアが悪いわけではないし、一部のプロよりも人気のアマチュア歌手だっている。でも僕としては、君にはプロの道を歩んでほしいなと思う。何より君は、舞台に立つべきだから」


 アマチュアの歌手はクレアレーネの大きな舞台に立つことはできない。小さなクラブやバー、ライブハウスが持ち場となる。

 しかしロッシャはプロのダンサーとして今までやってきた。道は違えど、同じ位置に立つべきだ。ラターリオはそう言いたいのだろう。

 例えで持ちかけたとはいえ、ロッシャ自身もアマチュアで止まりたくはなかった。


「仮に今回のアルストロメリア公演でプロへの道に繋がらなくてもいい。何度だって挑戦できるからね。次の公演まではアマチュアで頑張ってみるのもいい。僕も勿論、君をサポートする」

「え、いいのか?」

「勿論だ。僕は君の可能性を信じているのだから」


 ラターリオの言葉に嘘は何ひとつもない。それは分かっている。けれども何故か、胸騒ぎがした。

 脳裏にアディルの顔が浮かび、同時に彼の声が聞こえた。


 ――明日には期待していないというか、明日を迎えることを楽しみにしていないというか……。とにかく、引退してからのあいつは何処か抜け殻だった。


 抜け殻。世捨て人。

 そう呼ばれていた彼は、今とても活き活きとしている。ロッシャに光を見ている。生きたいという力が、また湧いてきたのだろう。

 それでも何処か、空虚に見えてしまう。

 彼の器が、十分に満たされていないように思えてならない。

 それは、きっと……。


「なぁ、ラターリオ」

「ん?」

「……あんたの歌は」


 たった1人のために、誰かのために、歌ってきたのではないか? 

 そう、最後まで言葉を紡ぎたかったのだが。

 できなかった。

 ドンドンと、そう遠くないところから音が聞こえて、2人ははっと振り返る。その方向は玄関だ。

 何度も何度も、ドンドンとドアを叩く音が。ドアに辿り着く前に門を開けなければならないのだが、それさえも平然とくぐってきたのか。


「ラターリオ、いるんだろ!」


 声が聞こえる。

 ドアに隔てられ、遠い彼方から聞こえてくるような声が。それは少年のような、まだ成熟していない声だった。


「……レアン?」


 呆気にとられるロッシャをよそに、ラターリオはふと、名前を口にした。

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