第20話

 「ブルーレイン」。今回ロッシャが歌うバーの名前だ。

 クレアレーネの中央部にあるラグジュアリーホテルの2階に入っており、その規模はとても広い。バーラウンジと称してもいいだろう。カウンターもあるが、メインは客席になっている。

 そして奥には簡易なステージがあり、そこでコンサートが行われる。

 コンサート当日の日曜日にロッシャは初めてブルーレインへ訪れたのだが、あまりの広さに驚いた。

 普段、カウンターと少数のテーブルしか置かれていない小さなバーでしか利用したことがなかった。こんな場所で歌うのか。一体どれくらいの人が集まるのだろう。考えれば考えるほど、緊張感が高まってしまう。

 あれから何度もネイコと曲を合わせ、様々なアレンジを施した。仕上がりは問題ない。後は緊張に打ち勝ち、失敗なく歌えれば……。


「楽しむことが大事だよ。頑張ろうね」


 ホテルのラウンジで待機していたロッシャにネイコがそう声をかける。バーには控室がないので、出番が来るまで、バーか別の場所で待っていなければならなかった。2人の出番は2番目。女性歌手が歌い終えた後に舞台に上がる手筈になっている。

 あぁ本当に舞台に上がるのだなとロッシャは今更理解する。実際はリハーサルのために一度ステージに上がっているが、あれは上がったとは言えないだろう。人前に立ち、歌うことでようやく《上がった》と言える。

 歌い始めてもうすぐ2ヶ月。ようやく舞台の上に立つことができた。事故に遭ってから半年が経過しようとしていた。

 半年間も舞台に上がっていなかったのだなと思い知らされた。


「……そうだな、楽しまねえとな」


 前日、ラターリオにも言われた。歌うことを楽しもう。自分が楽しくないと相手に伝わらないよ、と。

 それは以前、ロッシャの歌を聞いたアディルの言葉とも似ていた。結局のところ意味は同じだ。自分が楽しく歌うことが大切。自分が歌と向き合い、受け止め、それを曝け出すことが最も重要なのだと。

 大丈夫。歌える。

 これはアルストロメリア公演へと繋がる大切な一歩なのだ。


「そういえば、ロッシャのスーツってびっくりするくらい似合わないね」

「お前のドレスも大概だからな」


 なんて悪態をつきあい、2人は笑った。

 

 その後、バーのスタッフから呼び出しを受け、2人はバーの中へと戻る。既に女性歌手が歌い始めており、殆どの客は舞台の上に釘付けとなっていた。

 多くの人が客席に座り、酒の入ったグラスを手に眺めている。時折視線を食べ物に向けたり、スタッフに酒の注文をしたりすることもあるが、私語一つなく、歌とピアノのみが店内に流れていた。

 女性歌手はとても美しい声だった。まるで蜜に漬け込んだような甘い甘い声。ピアノの静かな旋律に沿って、小鳥が鳴くかのように歌い上げる。

 聞き入ってしまう。美しくもあり可憐でもあり、そして儚げもあり。

 こんな彼女でもプロとして活躍ができないのかと驚かされるばかりだ。


「俺、ちゃんと歌えるかな……」

「弱気にならないでよ。私は信じてるよ」


 頑張ろうねとネイコに背中を軽く叩かれる。あぁそうだ。弱気になってはいけない。ここで挫けたら先に進めない。

 女性歌手が歌い終えた。拍手が響く。彼女は一礼し、ピアノ担当とともに舞台を降りる。拍手はまだ鳴り止まなかった。

 あぁこれが舞台だ。こうして多くの人を音楽の世界に取り込んで、一緒に築き上げていく。

 自身も世界を作ろう。歌うことを楽しもう。


「じゃあ、頼んだよ。お二人さん」


 カウンターでグラスを拭いていたマスターが二人に声をかける。その言葉に深く頷きながら、ロッシャはネイコとともに舞台へと足を運んだ。

 たくさんの目がこちらを見ている。中年層が多いだろうか。バーの雰囲気から、ロッシャやネイコと同年代の人はあまり見られない。

 一応、奥の方にはエデュートとかつてのダンス仲間が数人来ているらしいが、薄暗がりの照明ではその姿を確認できなかった。

 客の大半がジャズに精通した人達ばかりだ。そんな彼らの前で自身の歌はどう響くのだろう。だが、相手の反応を見て歌ってはいけない。ちぐはぐで一貫性のない歌い方になってしまうから。


「……はじめまして。ロッシャ・イレーゼです。ピアニストはネイコ・カサマツ。実はこれが、俺にとって初めての舞台になります」


 舞台の上からマイクでそう語れば、小さな歓声が響く。初めて歌うアマチュアの歌手に対する反応は様々だ。舞台慣れしていない男の実力を懐疑的に見るかもしれない。

 それでも臆してはいけない。ダンスの時もそうだ。初めて舞台に上がったロッシャに向けられた目は様々だった。だが、実力でその目を変えてきた。

 歌も実力で変えてみせよう。


「少しでも楽しんで貰えるよう、歌わせていただきます。ラターリオ・アルテの『ロビン』」


 一瞬、空気が変わった気がした。ラターリオの名前に反応した人がいるのだろう。それもそうだ。20年前に活躍した彼だ。観客の中にかつてのファンがいても可笑しくはない。

 そのファンの心に多少は響けばいいなと思いながら、ロッシャはネイコとともに一礼する。

 そしてピアノが鳴った。

 何度も練習をした。何度も歌い方を考えた。ネイコもピアノの表現を試行錯誤し、2人でより良い形を作り出した。

 時々様子を見に来るエデュートの意見を聞いたり、ロッシャ自身はラターリオに『ロビン』への思い入れについて聞いてみたり。

 様々な人の協力によってできあがった歌だ。これは紛れもなく、未来へと繋がる光の歌だ。

 さぁ歌え。

 歌え。


「――――雨上がりの空、飛べないキミは」


 前席で見ている年老いた女性よ。奥でブランデーを受け取った壮年の男よ。カウンターに座って眺めている親友と仲間よ。グラスを拭きながら耳を傾けているマスターよ。

 メロディを紡ぐネイコよ。

 ここにはいない、ラターリオよ。

 届け、響け。これが作り上げた歌の世界だ。まだまだアマチュアの身だが、その目ははるか未来を見据えている。光の向こうへ手を伸ばそうとしている。

 その光への道を、『ロビン』を抱えて歩もうとしている。

 《僕》とヨーロッパコマドリが共に並び、友情を歌い、別れを惜しみ、そして再び相まみえることに期待を抱き。

 ともに光へ。

 ともに未来へ。

 さぁ誰も彼も、《僕》とヨーロッパコマドリの仲睦まじい世界の中で、友情を直に感じ取ってくれ。


「――――また次の春、桜とともに待つよ」


 友達になったヨーロッパコマドリと、桜咲く季節に会えますようにと願いを込めて、歌い終える。

 ネイコのピアノが優しい旋律を奏で、ゆっくりとフェードアウトするかのように音を止める。

 終わった。

 2人で紡いだ音楽が、終わった。

 歌い終えたロッシャの額からは汗が流れる。ゆっくりと下降し、こめかみと頬を通過していく。

 心が高鳴って止まらない。体温も上がってきた。

 その直後だ。

 拍手が鳴り響いた。


「……っ」


 その音に思わず目を見開いた。そして辺りを見渡す。誰も彼もが拍手を鳴らしているのだ。前列の女性も、奥の男性も、バーカウンターにいるマスターも。

 先程の女性歌手と同じような拍手がバーの空間の中で響き続けた。

 この瞬間理解した。

 自身の歌が、届いたのだと。

 ネイコとともに一礼をし、舞台から降りる。次は男女ペアの歌手が歌う番だ。彼らも近くでスタンバイしていた。


「お疲れさまです」

「いい歌でした」


 彼らからそう言葉をかけられる。少し照れくさくなったロッシャは小さく会釈し、頑張ってくださいとだけ返した。

 拍手はまだ鳴り止まなかった。


 ◇◆


「流石ロッシャは本番に強いなー。前に聞いた時よりもずっと良くなってた!」


 コンサートが終わり、いつもどおりのバーの時間が戻ってきた頃、ロッシャはエデュートとカウンターに座り、酒を酌み交わしていた。

 ネイコは他の客と談笑をしており、近くにはいない。エデュートが連れてきた仲間も別の場所で酒を飲んでいた。

 ネイコからも仲間からも称賛を受けた。ダンスを止めたお前がここで才能を開花させるなんてと、仲間の誰かが言っていたな。みんな驚きと喜びを交えた表情でロッシャを讃えた。


「……あぁ、俺も無事に歌い終えてよかった。だけどまだ、現実みがねえんだよな」


 本当に歌い終えたのだろうか。本当に舞台の上で歌ったのだろうか。あの景色も人々の顔もみんな夢だったのではないかと思うくらいに、現実感がなかった。

 今飲んでいる酒の味さえも少し分からなくなるくらいに、夢心地の中にいた。


「最初にロッシャが俺に言ってくれたじゃない? 歌手として頑張るって。本当に頑張っているっていうのがこの目で見られたから、俺は嬉しいな」

「ありがとな、エデュート」

「……今思うと、20年前に引退した歌手の人と出会って、その人のもとでレッスンをしているってとても凄いことだよね。その人に会わなかったら、ロッシャはここにいなかったかもしれないよね」


 あぁそうだ。

 ラターリオに会わなければ舞台の上で歌うという選択肢はなかった。おとなしく故郷に戻り、静かに暮らしていたかもしれない。

 彼はロッシャに生きる道を授けた。

 この街で生き続ける未来を提示してくれた。

 そしてロッシャは、徐々にその想いに応えつつある。次の目標はアルストロメリア公演のオーディションに受かり、その舞台に立つことだ。

 成功すれば、さらなる道を開くことができよう。


「本当に、彼には感謝しかねえな。命の恩人だよ」


 ダンサーとしての道を絶たれたロッシャを救った、まさに命の恩人。ラターリオはロッシャに光を見たと言うが、ロッシャからすれば彼が光だ。

 眩しいほどの、強い強い……。


「もし」


 と、聞き覚えのない女性の声が聞こえ、ロッシャは振り返る。いつの間にかすぐ側に年老いた女性が立っていた。

 年老いたと言ってもまっすぐに背筋を伸ばしている、身なりの美しい女性だった。そして何処かで見覚えが。

 あぁ、そうだ。


「……前列に、いた?」

「えぇそう、見ていてくれて嬉しいわ」


 女性は喜び、ロッシャの手を取る。無数の皺が刻まれた手だが、とても暖かかった。


「私ね、ラターリオのファンだったの。今でも彼の音楽を聞いているわ。あなたが『ロビン』を歌うと聞いて、ちょっと驚いてしまったけどとても素敵だったわ!」

「え? あ、あぁ、ありがとうございます……」


 驚いた。直接客から言葉を貰うなんて。思わぬ事態に動揺し、うまく受け答えができなかった。


「あなたとラターリオは全く似ていないけれど、でも何処か似ている気がしたのね。彼には多くの人を彼の歌の世界に誘い込むような歌い方をしていたのだけど、あなたもそんな感じがしたわ」

「……」

「でね、あなたの歌い方が力強くてまっすぐでとても良かったの。『ロビン』をジャズアレンジで聴くなんて初めてだったから飛び跳ねてしまいそうになったわ。ねぇ、またここで歌う予定はあるかしら?」


 問われ、ロッシャは困惑する。今回はあくまで臨時で入っただけなので、ここでこれからも歌うという確約はない。でも、歌う予定はないと言い切ってしまっては女性が悲しんでしまう。

 どうしたものかと返答に困っていると、ふとカウンター越しから声が。


「えぇ、彼にはまた歌っていただきますとも」


 マスターの声だ。ロッシャは驚き振り返る。


「いい歌だった。またぜひネイコと組んで歌ってもらいたいね。報酬も弾むよ」

「……い、いいんですか?」

「あぁ勿論だ。君がアマチュアなのが勿体ないくらいだよ」


 マスターからの言葉に衝撃が止まらない。「良かったじゃん!」と喜ぶエデュートの声も届かないくらいに。

 響いた。

 しっかりと届いた。

 自身の歌が、作り上げた歌の世界が、全員とは言わずとも多くの人の心を確かに掴んだのだ。


「あら本当? とても嬉しいわ。その時はぜひ聞かせてもらうわね」

「……ありがとうございます」


 嬉々とした表情を見せる女性に、ロッシャもようやく笑みを浮かべることができた。初めての舞台がこんなにうまくいくなんて。

 歌っている時はとても楽しかった。不完全だが自身の世界を作り上げた。聴衆と一体となり、一緒に世界を構築した。

 舞台で踊ったあの時のように。

 あの熱のように。


 ――歌うことを楽しもう。自分が楽しくないと相手に伝わらないよ。


 ラターリオの言葉が反芻される。あぁまさにそのとおりだった。そして見事に相手に伝わったよ。

 夢心地から現実に戻るまで、まだ少しかかってしまいそうだ。

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