第19話

 ネイコがグランドピアノの前に座り、鍵盤を軽く叩いてみる。軽やかな旋律が流れ、小さなスタジオが音楽で満たされていく。あまり意識していなかったが、間近で聞くピアノの音はこんなにも美しいのか。

 ラターリオもレッスンの最中にシンセサイザーを使っていたが、ピアノはまた違った音が流れる。

 この音に合わせて歌うのか。


「多分スタジオに『ロビン』のピアノスコアがあると思うんだけど、サビだけは見ないでも弾けるから一度サビで合わせてみない?」

「あぁ」

「よし、やってみよ!」


 ネイコが軽く鍵盤で『ロビン』のサビを弾いてみる。ピアノのみの音であるが、紛れもない『ロビン』の曲だ。ピアノのメロディ故か、ジャズ風にアレンジしている故か、何処か落ち着きがあり、静かでもある。

 この曲に合わせて歌うのだなと、改めてロッシャは理解する。


「ロッシャ、合図するからタイミングに合わせて歌ってね」

「分かった」


 ネイコが再び鍵盤を叩く。2回、様々な音を合わせて叩いた。この2回目の後にロッシャが歌う形だ。


「いい?」

「あぁ」


 再びネイコが鍵盤を叩く。1回、2回……。

 今だ。


「――――あの日キミが見せた笑顔も涙も」

「……っと待った!」


 突如、ネイコが本来違う鍵盤を叩き、音を止めた。思わぬ行動に、ロッシャも歌うことを止めてしまう。

 おや、歌詞を間違えた? それともネイコが音を間違えた? 何が起こったのか分からず、頭が混乱してしまう。


「どうした?」

「ごめん急に止めて……。いやでも敢えて言わせて。ロッシャ、声がでかい」


 でかい?

 声が大きくて何が悪いのだろうかと首を傾げる。


「今回歌う場所はバーで、ジャズ風アレンジの歌を歌うわけ。つまり、はきはきした大きな声は不釣り合いなのよ。もっと優しく、囁くように歌ってほしいの。『ロビン』っぽさはなくなっちゃうけどさ……」

「……お、おう」


 ネイコの気迫に押され、ただただ頷くことしかできなかった。

 彼女の言いたいことは理解できる。場の空気に合わせた歌い方をしろということか。しかし困った。

 これに求められるのは、声のコントロールだ。それはまだロッシャの課題点でもある。前回、アディルやラターリオに褒められはしたものの、そのコントロール力が完成したわけではない。

 そして表現力も悩ましかった。『ロビン』は軽快でアップテンポのあるロック。その歌がジャズ風に変わるのだ。普段の『ロビン』の歌い方と異なることがロッシャを悩ませた。


「難しいな……」

「まぁ普段この歌をジャズ風に歌うことってないもんね。何なら変えてもいいよ? 『花の葬列』とかはバラードだから向いていると思うけど……」

「いや、『ロビン』がいい。好きなんだ、この歌」


 ラターリオの曲はほぼ全て聞いているが、その中で最も惹かれたのが『ロビン』だった。アップテンポで軽快で、心が弾むようなメロディがロッシャの心を掴んだのだ。また、悲恋ばかりを歌っていた彼が唯一友情を主題として歌ったことも要因の一つと言えよう。

 そして『ロビン』を聞いて、気付いた。

 ロッシャがこれから歌ってみたい歌の方向性というものが。


「俺、プロになるならアップテンポのロックを歌ってみてえんだよな。だから『ロビン』を歌ってみたいと言うか……」

「確かにロッシャはそっち向きっぽいね。ラターリオみたいな悲恋は合わなさそう」

「うーん、それはそれで歌ってみたい気はするけど、ラターリオみたいに儚く綺麗に歌えねえんだよな」


 儚く切ない恋を歌わせたら右に出るものはいないだろう。ラターリオはそれほどまでの実力を持っている。ロッシャでは到底追いつきそうにない。届きそうにない。


「まぁでも、ラターリオはラターリオじゃない。ロッシャはロッシャ。あなたの歌い方はあなたにしか出せないんだから」

「……」

「確かに『ロビン』の方が合っている気がしたな。さっきのサビのフレーズだけでも声がとっていてすっきりしていたしね。……まぁ今回はピアノアレンジに合わせて抑えてほしいけども!」


 ネイコの言葉が沁み込んでくる。

 ロッシャはロッシャ。この歌い方は自分にしか出せない。そういえば以前、レッスンの最中にラターリオも似たようなことを言っていたな。

 自分の持ち味を活かすこと。自分にしかない力を引き出すこと。真似をするのは最初だけ。次はその真似をもとに型を破っていけばいいと。

 ラターリオ以外の人から言われると、改めて身が引き締まる。


「分かった。もう一度頼む」

「うん、任せて」


 ネイコは大きく頷き、再び鍵盤を叩いた。

 そしてロッシャはそれに合わせて口を開いた。

 

 ◇◆


 最初の練習から2日後。その日は少し曇り空で、夜になれば雨が降るだろうと言われていた。

 15時を回った頃、スタジオで練習していたロッシャとネイコのもとに、彼が飛び込んでくる。


「ネイコ、ロッシャ。お疲れ! 差し入れ持ってきた!」


 エデュートだ。今日は午後からオフとのことで、2人の様子を見に来たらしい。その手には袋があった。何か食べるものを持ってきたのだろう。

 彼の姿を見たネイコはふとピアノを叩く手を止める。


「あ、エデュート。ちょうどよかった」

「え?」

「折角だから聞いていってよ」


 驚くエデュートをよそに、ネイコはそう話す。差し入れが入った袋を持ったままのエデュートは、言われるがままに頷く。

 ネイコは改めて座り直し、ロッシャを見る。


「じゃあもう一回やっていい?」

「あぁ」


 彼女の問いかけに、ロッシャは頷いた。

 その直後に流れるピアノの旋律。流れるような、弾くような、独特なメロディが小さなスタジオの中に響き渡る。

 ジャズ風にアレンジされた『ロビン』。アップテンポのロックが、弾みのあるピアノソングへと様変わりする。

 ロッシャは目を閉じる。ここはスタジオ。いや、スタジオではない。

 バーだ。

 あと数日で、ロッシャはバーの舞台に立つ。多くの人が酒を手に、ロッシャの歌を聞くだろう。こちらの歌を肴にアルコールを飲んでいくだろう。

 あくまでロッシャの声とネイコのピアノはBGMだ。

 バーの空気を壊さないように静かに作り上げる、BGM。

 囁くように、語りかけるように、でも声に抑揚をつけ、楽しく歌おう。ヨーロッパコマドリと友達になった《僕》になって、友達との思い出を語って、歌って。

 バーの舞台で、

 友情を歌え。


「――――雨上がりの空、飛べないキミは」


 何度もネイコと練習をした。何度も自身の声と向き合い、何度もコントロールを続けた。ようやく見つけた、表現力。歌い方。

 これがジャズピアノに合わせた、ロッシャの歌。

 初舞台がいきなりのアレンジ曲というイレギュラーだけど、確かなロッシャの歌。

 バーの落ち着いた雰囲気の中で、ヨーロッパコマドリと《僕》は友達になる。飛べない友を介抱し、共に過ごし、彼が空の向こうへ消えていくのを見届けていく。

 その別れは寂しいものではない。

 次の春にまた会うと約束したから。

 そして必ず会えると信じていた。《僕》達は友達になったのだから。


「……」


 ネイコのピアノが最後のメロディを紡ぎ、音は止まった。いつの間にか景色はスタジオに戻り、ロッシャもふと我に返る。

 歌い終えた。

 ふと、ロッシャはエデュートの顔を見る。ずっと側で立ち尽くしていた親友の顔を。


「……凄い」


 彼がこぼしたのは、小さな称賛の声だった。


「凄い、凄いよロッシャ! こんなに歌うまかったの!?」


 思わず差し入れの袋を床に置き、ロッシャのもとへと駆け寄った。その表情は驚きと喜びが入り混じっていて少しぐしゃぐしゃだ。

 親友の言葉に、ロッシャは思わず笑みを浮かべる。初めて彼にこの歌を聞かせることができた。そして、彼は喜んでくれた。

 こんなに嬉しいことはない。


「ほんと凄いよロッシャー! 私も弾いてるの楽しかった!」


 ネイコも立ち上がり、ロッシャのもとへと歩む。ピアノを弾き終えた彼女は少し疲れているようだが、その表情は眩しい。


「……あぁ、ありがとう」


 完成した。

 ジャズ風にアレンジされた『ロビン』が、完成したのだ。ネイコのピアノとロッシャの歌が合わさり、一つのメロディが生まれた。

 何度も何度もネイコと練習をし、ようやく形となった。疲れと高揚感が一気に湧き出て止まらない。

 歌うことはこんなに楽しい。

 ラターリオのように、歌の世界を作ることができただろうか。まだ足りないだろうか。


「この調子で練習をすれば、当日は完璧だね!」


 ネイコの言葉を受け、ロッシャは静かに頷いた。完成はしたけれど、完全な完成とは言えない。まだまだ表現できるところがある筈だ。もっとコントロールができる筈だ。

 当日まで、自身の納得の行くものを歌おう。そして響かせよう。

 初舞台はもう目の前だ。


「……あんたに聞いてほしかったよ、ラターリオ」


 ネイコの演奏と自身の歌を、彼に届けたかった。あぁ予定が合わなかったことが悔やまれる。

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