第18話

 エデュートとネイコと別れた後、ロッシャは帰路につきながらラターリオに電話をかけ、ことのあらましを語った。

 が、ラターリオの返答は意外とあっさりしたものだった。


「うん、いいよ」


 てっきり渋い反応をするのかと思っただけに、ロッシャは拍子抜けだ。思わず道の真ん中で足を止めてしまった。


「え、いいのか!? アルストロメリア公演控えてても?」

「別に問題はないけど、なにか不都合なことでもあるかい?」


 逆にラターリオに問われてしまい、ロッシャは言葉を失った。予想していなかった反応故に、返事の仕方が分からなくなっていた。

 参加していいのだという安堵と、参加してもいいのかという不安がせめぎ合っている。


「ロッシャ、これは経験を得るチャンスだよ。君はまだ舞台に上がって歌ったことがないから、場馴れしておく必要がある。そして多くの人に、君の歌声を聞かせる必要がある」

「……なるほど」

「大丈夫。いつもどおり歌えばうまくいくさ。僕は信じているよ」


 ラターリオの言う通りだ。まだロッシャは人前で歌っていない。ラターリオとアディルだけが歌声と実力を知っている。

 だが彼らは音楽に精通したプロだ。ロッシャはそのプロの前でしか歌ったことがない。一般人の前で歌うことに緊張が走る。

 果たして一般の聴衆にこの歌声は受け入れられるのか。プロが認めても、聴衆が認めなかったら意味がない。

 しかし、だからといって立ち止まっているわけにはいかない。現場に慣れる必要性はとても重要だ。


「分かった。歌ってみるよ」

「ちなみにそれはいつだい?」

「来週の日曜日だったはず」


 確か日曜日の18時から始めると言っていた。3人ほどのアマチュア歌手が参加して、1曲ずつ歌うという。女性歌手と男性歌手、そして男女のペアと言った組み合わせで披露するらしい。

 ロッシャはその中の男性歌手としての参加を打診されていた。


「あー……日曜日か」

「都合悪いのか?」

「うん。用事があって……。君が多くの人々の前で歌っている姿を見てみたかったけど、しばらくお預けだね」


 そうか、ラターリオは来られないのか。用事があるのならば仕方がない。本当は彼に聞いてもらいたい気持ちもあったが。

 だが、彼がバーにいることを誰かが気づいたら騒ぎになってしまいそうだ。未だに彼が舞台に立つことを待っている人だっている。

 寧ろ来られなくて正解なのかもしれない。


「あぁそうだ。間違っても新曲Aは歌っては駄目だよ」

「歌わねえよ。ネイコ……一緒に組むピアニストはその曲のことを知らないし、それに、まだちゃんと完成できてないしな」


 先日、アディルと会った後のこと。近所のコーヒーショップに足を運んで二人で色々話をした。歌詞をどうするか。どんな楽器で表現してみるか。イヤホンを分け合いながら音楽を聞き、ああでもない、こうでもないと。

 楽しかった。

 リーアンジェのことで少し心が靄々としていたが、音楽の話をしている時は楽しかった。話が弾み、追加でコーヒーを注文したくらいだ。

 結局、納得の行く完成形にはならなかったが、歌詞の方向性だけは定まった。

 ロッシャが未来へ羽ばたくために、目一杯未来への希望と羨望を詰め込んでみようとなったのだ。

 できあがった歌詞は、原型を残しつつも変化した。元がラタ―リオの作詞とは思えないほどに。


「新曲Aは早く完成させたいね。オーディションも近いから」

「あぁ」

「とりあえず、今はバーでの舞台に集中しなさい。ピアニストと呼吸を合わせることが大事だよ」


 一言二言交わした後、ラターリオとの通話を終えた。

 穏やかな昼下がり、にぎやかな声があちこちに咲いている。


「……初舞台か」


 まさかこんな形で舞台に上がるとは思わなかった。事故といい、ラターリオの出会いといい、つくづく人生とは何が起こるか分からないものだ。


 ◇◆



「ロッシャー! 待ってた! とても待ってた!」


 高らかに声を弾ませたネイコが両手を広げてロッシャを歓迎した。その底抜けの明るさは彼女の長所だが、勢いが強すぎて圧倒されてしまう。


「無理って言われたらどうしようかと思ったー。本当に助かった!」

「あぁ、俺も役に立ててよかったよ」


 ラターリオから返事を受けてすぐにネイコに連絡をした。彼女は電話越しに大いに喜んでいた。そして早速都合が合った翌日に練習することになったのだ。

 ネイコと待ち合わせをしたのはとある音楽スタジオ。アディルと出会った場所ではない、また別の所。クレアレーネは音楽スタジオが多数存在しており、プロもアマチュアもこぞって利用していた。

 彼女が用意したのは、グランドピアノが置いてあるスタジオだ。今回の舞台はピアノとのセッションであり、それ以外の楽器は使用しない。


「ネイコのピアノに合わせて歌うって初めてだな」

「私もよ。基本バーの中でジャズ弾いてくるらいしかしてないからね」


 ネイコもロッシャ同様、レッスンを受けながらプロを目指している。しかしピアノの道も険しく、すぐに道が拓けるわけではない。バーでジャズを弾いている彼女はそこそこの知名度はあるものの、舞台で披露するチャンスを掴めていないのだ。

 ピアノも歌同様、狭き門のようだ。


「それで、何を歌う? コンサートでは特に決められてないんだけど、ある程度の曲だったらピアノアレンジで弾けるよ」


 そういえば何を歌うか決めていなかったな。バー側から指定があるわけではないらしく、他の歌手とかぶらなければ何でもいいそうだ。ただ、過激な歌詞がある歌だけは駄目だという。

 ネイコが弾けるかどうかだが、ロッシャは考えていた。


「……ラターリオ・アルテの歌は弾けるか?」


 20年前の歌をネイコが知っているかどうかは分からない。もし彼女が1曲でも何か弾けるのであれば、それを歌いたい。


「うん、弾けるよ」


 あっさりとネイコは答えた。まるでさも当たり前かのように。


「え、弾けるのか?」

「ラターリオの歌って有名だよ。大体のピアニストは彼の歌を弾いて練習したりするもの」


 確かにラターリオの歌はピアノを使ったものが多い。ピアニストにとって弾きやすいものなのか。

 だからネイコもラターリオのことを知っていたのだな。こちらから話を振ったのだが、思わぬ返答で驚いた。


「ロッシャ、ラターリオのこと知ってるんだね。あまり興味ないと思ってた」

「……母親がファンだからな」


 嘘は言っていない。だが本当のことも言っていない。実はラターリオがロッシャの歌を指導してくれているなんて言える筈がなかった。

 だがネイコの反応を見るに、エデュートはロッシャとラターリオの話をしなかったようだ。


「ラターリオの歌は結構単調なリズムも多いし、アレンジしやすいの。『暁』でも『嘘の答え』でも『花の葬列』でも、なんでもいけるよ」


 ラターリオが発表したシングル曲だ。ネイコが口にした曲はロッシャも何度も聞いていた。

 だが、一番歌いたいのはそれらではない。


「……『ロビン』」

「ん?」

「『ロビン』、弾けるか?」


 それはラターリオが21歳の時に発表した曲だった。一人ぼっちの《僕》が小さなヨーロッパコマドリと出会い、友達になっていく。悲恋が多いラターリオの歌の中で、唯一友情を歌ったものだ。

 軽やかなテンポが特徴のロックで、ロッシャが最も惹かれたと言ってもいい曲だ。


「うん、前に弾いたことあるなー。久々だから練習中はちょっと失敗するかもだけど、1週間もあれば感覚を取り戻せるよ」


 ネイコは了承した。

 軽やかな曲調である『ロビン』がジャズピアノ風にどうアレンジされるのか想像つかないが、ネイコの腕に託そう。


「……ありがとう、ネイコ」

「私こそありがとう。本番に向けて頑張ろうね」


 小さなバーで行われる小さな舞台。ロッシャの曲ではない、ジャズピアノ風にアレンジされたカバー曲ではあるが、人前で歌うことに変わりはない。

 ラターリオは言っていた。これは経験を得るチャンスなのだと。人の前で歌うという空気に慣れておく必要があるのだと。

 果たして実際、どのような景色が待っているのかは分からない。だが、足を止めるわけにはいかない。ネイコとともに成功させるのだ。

 当日にラターリオがいないのは、少し寂しいなと思えた。

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