第17話
――明日には期待していないというか、明日を迎えることを楽しみにしていないというか……。とにかく、引退してからのあいつは何処か抜け殻だった。
アディルの言葉。
――リーアンジェは、事故で死んだんだ。
ラターリオの言葉。
二人の声がぐるぐると頭の中で響き合っている。まるで音楽プレーヤーが壊れてしまったかのように。
一見、バラバラに感じるが、今までロッシャが見て聞いたものを合わせると、全てが一つに繋がっているような気がする。
以前よりも確信が強まった。
ラターリオの引退にはリーアンジェが絡んでいるのではないかと。
そもそも、彼の家には妙な点がいくつもあった。一人で暮らすには広すぎる家、必要最低限のものしか揃っていない家具、使われていない数室の部屋。
そして何より、
家の中にある写真はリーアンジェしかなかったのだ。
彼曰く、両親は数年前に亡くなったらしい。しかしリーアンジェの葬儀で両親が嘆いていたと言っていたから、亡くなったのはリーアンジェが死んだ後になる。
だが、家の中には家族写真がなかった。思い出として両親の写真を飾っていなかった。
不仲だったのかは分からないが、ラターリオは両親の写真を飾らず、リーアンジェのみ飾っていた。そしてロッシャが来る際にはその写真を伏せていた。
ロッシャに見られたことを怒っていないと言っていたが、きっと実際は複雑だったのかもしれない。
ラターリオの引退とリーアンジェの死。時間軸は合わないが、彼が話したリーアンジェのことを考えると、ほんの少しだけ小さな可能性が見えてきた。
もしかして、ラターリオは……。
「ロッシャー!」
自分を呼ぶ声が聞こえて、はっと我に返る。ずっとスマートフォンを見つめていたが、心は別のところにあった。
土曜日の正午過ぎ。ロッシャは中央部から少し南にある地下鉄の入り口前に立っていた。ここを待ち合わせ場所として指定されたからだ。
声のする方に振り返ると、こちらに向かって手を振る見慣れた姿が一人。
いや、二人……。
「ネイコ?」
ロッシャに向かって手を振っていたのはエデュート。だが見慣れた親友よりも、その隣にいる女性に目が移る。
毛先だけを赤く染めた黒い短髪の女性がにこやかに手を振っていた。
「ロッシャー。2ヶ月ぶり。元気してた?」
あぁやはりネイコだ。最後に会った時は綺麗な黒髪だったのに、いつのまにか毛先だけを赤色にしている。
「日本に戻ってなかったっけ? いつこっちに戻ってきたんだ?」
「5日前! やっぱりクレアレーネの空気はいいねー。右も左も上も下も芸術だからね」
相変わらず元気な様子で、ロッシャは思わず口元を緩めた。
だが、
「ネイコも一緒だって聞いてねえんだが?」
「実はちょっとロッシャの話をしたら行きたい行きたいって聞かなくて……」
困ったように笑うエデュートに、ロッシャは何も言えなくなった。そういえばこの男はネイコに甘かったなと。
だが、別にネイコがいて困ることはなかった。ただ食事をするだけだ。エデュートと二人だけで共有したい話があるわけでもない。
ひとまず何処か店を探そうかと、三人は街の中を歩き出した。
ネイコは日本からやってきた留学生だ。日本の文字で表すと「寧子」らしい。ピアノの才能があり、ジャズピアニストを目指している。この街に住んでいるだけあって、この国の言葉も英語も難なく話せている。時々言葉の間違いがあるが。
そしてエデュートの恋人でもあった。彼女がバーでピアノ演奏をしていた時に客として利用していたのがエデュートだったとか。交際を始めてもうすぐ1年になるらしい。
「そうそう、実はロッシャにこれを渡そうと思って」
と、ネイコは鞄から一つの袋を出した。とても小さく包まれていて、薄っぺらい。
「何だ?」
受け取り、その中を確認する。赤い布でできた薄い板のようなものがそこにあった。日本の言葉が書かれているが、日本語が読めないロッシャはそれが何か分からない。板には白い紐のようなものもついている。
「健康祈願。神社のお守りだよ。日本に戻ったついでに買ってきたの」
「健康祈願? お守り?」
「えーっと……こっちでいうとタリスマンみたいなものかな。健康でいられますようにっていう願いがこもってるよ」
なるほど、日本のタリスマンはこのような形か。よく見ると文字は刺繍でできている。とても器用なものだ。
「ありがとな」
彼女もエデュート同様、ロッシャの事故を悲しんだ一人だった。彼女なりに力になりたいと思ったのだろう。
その心遣いが何よりも嬉しかった。
「ちなみに私とエデュートは縁結びのお守り。これからも縁が続きますようにって」
「ネイコとは長く一緒にいたいからね」
にこやかに言葉を交わす二人。相変わらず仲睦まじいことだと感心しつつ、半ば呆れた。小さな喧嘩をすることはあるが、基本的には仲がいい。ネイコの存在がエデュートの力になっているとタトカは言っていたな。
誰かの存在が、誰かの力に。
ロッシャはふと、二人から別の影を重ねてしまった。
「バーで歌を?」
カジュアルレストランにて食事をしていたロッシャは、思わずその手を止めてしまった。向かいに座っているネイコの言葉に耳を疑った。
聞き間違いか? いやでも、確かに歌と言ったな。
「私さ、バーでピアノ演奏のバイトしてるんだけど、来週の日曜日、歌ってくれないかなぁって」
「ちょっと待て、話が飛びすぎて追いつかねえ」
そもそもネイコに歌のレッスンをしているなんて一言も話していない。このことを知っているのはエデュートだけ、なのだが……。
「お前……」
ちらりとエデュートを見ると、彼は申し訳なさそうに手を合わせる。やはりこの男はネイコに甘すぎる。
「あれ、もしかして歌の話って門外不出だった……?」
「別にそうじゃねえよ。ネイコに話してなかったからびっくりしただけで……」
ネイコに知られてしまったところで困ることはない。ただできればラターリオのことは知られたくないのだが、エデュートは何処まで話をしたのか。
ちらりとエデュートを見ると、彼は軽く首を振った。
「言い訳すると、ネイコが働いているバーでは、アマチュアの歌手や演奏家を呼んで小さなコンサートみたいなのがよく開かれてるんだ。で、今回のコンサートは歌い手の数が足りないみたいで、それでロッシャの話をしただけなんだ。歌の練習をしてるってネイコに話してさ……」
「なるほどな……」
それでも口が軽い気がするが、ラターリオの話をしていなければいいか。
なんだかんだ自分も親友に甘いなと自嘲した。
「……歌、なぁ」
バーやレストラン、ホテルなどでアマチュアの歌手を呼んで小さなコンサートを開くということはよくある話だ。プロと違って高いギャラを払う必要もないし、歌手側も知名度を上げることができるチャンスだからだ。だが数が多いゆえに、もっと条件のいいアマチュア歌手が見つかれば切り捨てられることもあるらしい。
やはりこの街で歌うというのは、簡単なことではない。
「アマチュアの人がカバー曲を歌うもので、ギャラもバイト代程度のものなんだけど……駄目かな?」
ネイコも言葉を重ねる。
彼女がロッシャに会いたかった理由はそれかと理解した。彼女との付き合いもあるし、力になってやりたい気もするが。
「駄目っていうか……」
アディルに太鼓判を押されたとはいえ、人前で歌を披露することはなかった。これを引き受けたらある意味初舞台になるのだろうが、果たしてうまくいくのか。
そして何より。
アルストロメリア公演を控えている中で、こういった場面で歌うことは問題ないのだろうか? 公演に出場できる条件をちゃんと把握していないことを思い出す。
ラターリオはいい顔をするか? まずここで決めず、彼の意見を聞かなければならなかった。
「返事は保留させてくれ。明日までには返す」
「ありがとう! よろしくね!」
ネイコはまるで話が決まったかのように笑顔を浮かべるが、まだ確定したわけではない。
とりあえず、食事を終えたらラターリオに電話をしなければ。すぐに出てくれればいいけれど。
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