第16話

 アディルとの時間を終えたロッシャはラターリオと共に音楽スタジオを出た。アディルはこの後別のミュージシャンと楽曲の打ち合わせがあるらしい。常にスケジュールは詰まっていると聞いた。

 そんな状態でロッシャの歌も見てくれるという。ありがたい話だ。

 ラターリオが音楽スタジオの近くにある自然公園の中を歩こうと提案した。ロッシャも立ち寄りたかったので、即座に受け入れた。

 緑が美しい木々が立ち並んでいる。石畳の遊歩道にはいくつか葉が落ちていた。等間隔にベンチが置かれており、あちこちに様々な人が座っている。

 ノートパソコンを開いている男だったり、母親と楽しく喋っている少女だったり、ぼんやりと空を眺めている老人だったり。

 いつも観光客でひしめき合っているクレアレーネの中心部とは世界が異なっていた。同じ場所とは思えないくらいだ。


「ごめんね、急にアディルと引き合わせて」


 他愛もない会話を続けていた中で、不意にラターリオが謝罪する。驚いた。今回の件で何処に謝罪要素があるというのか。

 確かに、事前に言われないまま突然アディルと出会い、彼の前で歌うことになったが、それに関する不満は微塵もない。


「謝らなくていいよ。寧ろ感謝してる。あんな凄い人の前で歌うって滅多なことではないから……」


 歌手を目指す誰もがアディルの審査を受けるわけではない。言ってしまえばラターリオがいたから繋げることができた。傍から見ればコネクションと思われるだろうが、舞台の世界は常に横繋がり。人脈を広げている人ほど仕事を繋げやすい。

 それはダンスの世界でも同じだった。誰とも馴れ合わず、孤高に踊り続けている者が頂点に君臨するのはまず無理だ。人と人の繋がりがあって初めて一歩踏み出せる。

 ロッシャは今回、確かな繋がりを得た。あとはそれが途切れないように、アディルやラターリオを失望させないように取り組まなければならない。


「アルストロメリア公演のことは黙っていたわけではないんだ。もう少ししてから伝えようと思っていたよ。まさかアディルがすぐに言っちゃうとは思わなくてね」

「気にしてねえよ。ラターリオが言ったとおり、俺はまず、歌を愛さないといけねえからな。……まだ実力が足りていないし、楽しく歌えてないから、もっと頑張らないと」


 アディルの言葉が身に沁みる。楽しく歌え。楽しく歌っているつもりだったが、聴衆には響いていなかった。独りよがりな歌い方では駄目だ。誰も彼もが聞き入り、心が揺れるような歌を歌わなければならない。

 歌唱力だけではどうしようもない。

 歌の世界とは想像以上に難しいものだ。


「ロッシャの長所は素直であることだ。僕やアディルの言葉をしっかりと受け止めて飲み込んでくれる。……でも、僕らの助言が正しいわけではないから、ロッシャの思うことは全部口にして良いんだよ?」

「んー、口にするにはまだ実力と経験が足りねえんだよな。だから今はラターリオ達の助言を聞いたほうが良いと言うか……」


 全くの素人が歌の世界に飛び込んだ。右も左も分かっていないからこそ、ラターリオやアディルがいないと先に進めなかった。

 今後、実力と経験をつけていけば、ラターリオと音楽の方向性で意見が分かれるかもしれない。だが、それはまだ先の話だろう。


「自分のスタイルを確立するのは、師匠の教えを十分に受けた後だな。それはダンスの世界でも同じだ」

「君は本当に優秀な子だね、ロッシャ」


 一陣の風が吹いた。少しばかり強く、ラターリオの長い髪がふわりと揺れる。春の陽気を抱いた暖かな風だった。

 近くで子供の元気な声が聞こえる。奥にある芝生で遊んでいるのだろう。同時に、遠くから車のクラクション。交通量が多いから、クラクションなんていつものことだが、穏やかな自然公園の空気を壊しているように思えた。


「とりあえず、目先の目標はアルストロメリア公演だ。でも僕のレッスンは公演の先、君がデビューした後のことを見越して進めていく。それでよろしくね」

「あぁ」


 アルストロメリア公演がどのようなものかは分からない。どれくらいの人が参加し、それくらいの音楽事務所のスカウトマンが集まってくるのか。オーディションに受かって舞台上で歌うことができても、声がかからなければデビューはできない。

 いくつもの壁を乗り越えないと、ロッシャが辿り着きたい場所には届かない。


「……っ」


 直後、左足に違和感。じわりと鈍い痛みが走っている。だが驚くことはなかった。あぁこれはと即座に理解する。

 思わず立ち止まり、太腿を抑えた。


「ラターリオ、ちょっと座らせてくれ」

「え、大丈夫かい?」

「大丈夫。座ったら楽になるから……」


 ロッシャは側にあったベンチに腰掛ける。左の太腿がずきずきと痛んでいるが、我慢できないほどではない。

 事故に遭ってから足が疲れやすく、痛みやすくなった。リハビリを続けているおかげでその頻度は減ったが、今日は色々と体力を使ったからか、疲弊しやすくなったようだ。


「ごめんねロッシャ、足のことを気にかけなくて……」

「大丈夫。ちょっと休んだらマシになるから」


 事故に遭って数ヶ月。この痛みにも慣れてきた。のたうち回るくらいの苦しみではないのがせめてもの救いか。


「何か飲み物でも買ってこようか。確か近くにコーヒーショップがあるから」

「ありがとう。でも折角なら、そこのコーヒーショップに入りたい。休んだらすぐ歩けるからよ」

「それでいいのかい?」

「あぁ。そこで新曲Aについてラターリオと考えたいと思って」


 まだ未完成である新曲A。タイトルさえも決まっていない。歌詞もまだ仮のもの。早くこれを完成させないと、アルストロメリア公演に間に合わない。

 アディルの前で歌ってから、歌に対する意欲が上がってきた。ラターリオと一緒にいる今こそ、しっかりと話し合い、向き合っていきたい。


「……そうだね。早く完成させないと」


 ロッシャの前に立ったままのラターリオは、風に靡いた髪を抑える。暖かくて穏やかな風だが、彼の表情は何処か寂しそう。

 足のことを気にしているのか。いや、それとはまた別の何かが含まれているような……。


「ラターリオ?」

「……ロッシャ。事故に遭った時、どう思った?」

「え?」


 思わぬ問いに、ロッシャは目を丸くする。

 まさか彼から事故のことを聞かれるとは思わなかった。いや、聞いてほしくないわけではない。話せる範囲なら話せるのだが。

 出会ってもうすぐ一ヶ月。彼に事故の詳細を語ったことはなかったな。


「ごめん、話したくないならいいんだ……」

「いや、そんなことはねえよ。話せる」


 こうして誰かに事故について語るのはあまりなかった。家族とエデュートに軽く話したくらいか。

 当時の記憶が蘇るが、もう心を傷つけ、頭を痛めてしまうようなものではない。あれはもう、過ぎたことなのだから。


「最初は、轢かれそうになった子供を助けたいという一心だったから、自分が轢かれたあとのことは考えなかったな……。撥ねられた時に痛みはあったけど、頭がぐちゃぐちゃになってて、何が起こったのかすぐに理解できなかった」

「……」

「ただ、子供が轢かれてないってことだけは分かって、ホッとしたと言うか……。その時は足が駄目になってしまうなんて思わなかったし」


 もう踊れない足になったと知るのは事故に遭った翌日。医師から淡々と告げられ、目の前が真っ暗になった。嘘だと喚いた。苦しくて悔しくて涙を滲ませた。

 そして、事故に遭う数分前に戻ってくれと強く強く願った。


「……まぁでも、生きてるだけで良かったんだ。踊れなくなっても、生きてるだけで」


 事故に遭ったと聞いて号泣した母親の声を思い出す。普段無口な父親も泣いていた。馬鹿だ馬鹿だと言いながらも生きていたことを喜んだ弟の姿も覚えている。

 生きていてよかった。改めてそう思える。踊れなくて、生きる意味が半分消え失せてしまっても、それでも命があるからそれでよかった。

 命があるから、まだ歩けるから、こうして別の道を歩むことができているのだと。


「そうだね。……君が生きてくれて、よかった」


 ラターリオの言葉は優しさの中に切なさがあった。何かを悲しむような、少しばかりの影が。


「ラターリオ?」


 それが気になってしまって、ついロッシャは問いかける。彼は小さく首を振ると、空を見上げた。

 真っ青な晴天だった。


「……リーアンジェは、事故で死んだんだ」

「え?」


 彼の口から出た、女性の名前。

 久々に聞いた、でも確かにロッシャの記憶の中に残っている彼女の名前。

 そして衝撃の事実に言葉を失ってしまった。リーアンジェが亡くなっているとは聞いていたが、事故だったなんて。


「10年前、夏が終わった頃かな。信号無視をした乗用車に撥ねられてしまって。……ほら、この街って結構交通の治安が悪いだろう?」

「あ、あぁ……」


 交通量が多く、渋滞が発生しやすいのがクレアレーネの特徴だ。故に交通速度を無視したり、無理な追い越しをする車の後は絶たない。取り締まりを強化しても一向に減らず、街の課題となっていた。

 ロッシャを撥ねた車は違反車両ではない善良な車だったのだが、リーアンジェを撥ねた車はそうではなかったのか。


「リーアンジェは事故で死んでしまったけど、君は事故で生還した。だからこそ、君は無事だった命を大切にして欲しい」

「もしかして、俺に声をかけた理由って、それもあるのか?」

「……そうだね。でも、それだけではない。君に光を感じたのは本当だよ。事故に遭い、怪我を負ってもしがみつく君に感銘を受けた。未来を生きようとする君に、歌を授けようと思った」


 そうだったのかと、ロッシャは驚きを隠せない。ラターリオの目には事故に遭ったロッシャが、リーアンジェと重なって見えていたのか。

 いやそれよりも、彼がリーアンジェについて語るなんて思わなかった。


「なぁ、リーアンジェってどんな人だったんだ?」


 ふと好奇心が疼き、訊ねた。彼女の写真を見る限り、とても優しくて穏やかな女性だったのだろう。

 あまりにも深入りしすぎかと思ったが、ラターリオは薄い笑みを浮かべて口を開く。


「優しい人だったよ。……僕の父とリーアンジェの母親が再婚して、僕達は姉弟にな

った。その時僕は15になったばかりで、リーアンジェが18歳だったかな。父も新しい母親も仕事が忙しくて、いつもリーアンジェが料理を振る舞ってくれたよ」

 確かに、あの写真を見る限りとても家庭的な人だと思った。そんな年若い頃から家事を担っていたのか。


「優しいけれど少し抜けているところがあって、ちょっとした言葉の言い間違いとかもよくあったな。でも本当に心穏やかな人で、あっという間にいい人を見つけて結婚した」

「そうだったのか……。じゃあ、事故に遭ったのって」

「うん、結婚した後だったよ。彼女の子供もまだ小さかったから、可哀想だった。両親もひどく嘆いていたし、僕も悲しくて暫く現実を受け止められなかったな」


 どのような状況だったのか想像に難くない。心穏やかで優しい人が亡くなった。ましてや親よりも先に。葬儀は悲しみに包まれていたのだろう。

 10年前。ロッシャがダンスに夢中になり始めた頃だ。故郷で仲間達と見様見真似で踊っていた時、リーアンジェは死んだのか。


「そうか……。俺も一度会ってみたかったな」

「うん、会わせてみたかったよ」


 ラターリオは微笑んでいるものの、やはり何処か影があった。彼女の死を思い出して心を痛めているのだろうか。これ以上話を掘り下げるのはよくない。

 ロッシャは会話を打ち切ろうとしたが、ふと心に何かが掠った。

 何かが靄々する。足の痛みはとうに落ち着いているのに、心がざわめいて止まりそうになかった。

 これは、何だ?

 答えが出てこない。

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