第15話

 今思えば、ラターリオ以外の人に歌を聞かせるのは初めてだ。何気なく歌うのではなく、音楽スタジオという本格的な場所で歌うなんて予想できただろうか。

 録音室は小さな部屋だった。折りたたみのスツールが隅っこに一つあり、その上にヘッドホンが置かれている。そして部屋の中央にはスタンドマイクが。

 ヘッドホンで音楽が流れる、それに合わせて歌うという形か。ロッシャはすぐに理解した。

 録音室の壁の一部はガラス張りになっていて、ラターリオとアディルのいる部屋に繋がっていた。彼らはここでロッシャを見るのだろう。

 ヘッドホンを装着すると、耳元からアディルの声が。


「準備が整ったらマイクで合図してくれ。ジェスチャーでもいい」


 ちらりと横を見ると、アディルは機材の前に座ってこちらを見ている。ラターリオはその隣に立っていた。

 緊張が迸った。舞台の上で踊る時よりもずっと緊張する。うまく歌えるか不安がよぎるが、立ち止まってはいられない。

 舞台に上がるための第一の試練だと思おう。

 ラターリオから受けたレッスンを思い出し、いつもどおりに歌ってみせよう。


「いつでも大丈夫です」


 マイクの前に立ったロッシャは、アディルにそう告げた。

 と同時に耳元で流れてきた、新曲Aのイントロ。アコースティックギターから始まり、すぐにピアノの音色が混ざり合う。しばらく2つの音が重なって、直後にドラムが。

 このドラムが始まりの合図だった。

 歌え、

 歌え――――。


「水色の帳、裸足で駆けた春の終わり――――」


 未完成の歌詞だ。でもしっかりとメッセージを伝えた歌詞だ。正直、これが完成の歌詞でもいいかもしれない。

 いや、もっと煮詰めていけばいい歌になる。この歌の未来を切り開くのはロッシャだ。この歌とともに未来を歩むのはロッシャだ。

 ラターリオが未完成だというのならば、これを完成形に持ち込んでみせよう。

 頭に叩き込んだ歌詞を声に流し込み、マイクへと投げる。散々歌ってきたのだ。歌詞は殆ど覚えている。覚えていない歌詞は似たフレーズで代用した。今は完璧に歌詞を覚えて歌わなくていいというラターリオの教えだ。

 未来へ向けて進む明るいロックだ。ピアノの旋律が激しさを緩和し、伸びやかなメロディを紡ぎ出している。これを作曲したのはラターリオだ。やはり彼は天賦の才能を持っていると改めて気づかされる。

 彼の願い通り、この歌を未来へと向かわせよう。そう思えた。


 歌い終えたロッシャは録音室を出てアディル達と合流する。歌っている時は彼らの表情を見ることはなかったが、果たしてどんな顔で聞いていたのだろう。

 その表情を見ると、特に変わりはない様子だった。ラターリオはいつもどおり穏やかだし、アディルはいつもどおり頑なだし。

 それが何を意味しているのか、ロッシャには分からない。


「ロッシャ、お前もう少し楽しく歌え」

「え?」

「聞いて欲しい、聞いてもらわねばって気持ちが強すぎて、楽しさが伝わってないんだよな。自分が歌うんだから自分が一番楽しまねえと相手に伝わらねえだろ」


 彼の言うとおりだ。聞いてほしいという気持ちが先行していた。この歌を聞いてくれと心で叫んでいた。

 これが、楽しく歌っていないように映ったのか。


「踊ってた時、お前は楽しんでいたか? 舞台の上で笑っていたか?」


 その言葉にハッとなる。

 あぁそうだ。ロッシャは舞台の上で踊ることを楽しんでいた。笑っていた。観客の歓声を耳にしながら、熱狂の渦を作り出した。世界を生み出した。

 世界を生み出すというのは楽しむということか。根本的なことが抜けていた。

 先日のラターリオの歌を思い出す。彼はロッシャを慰めるという意味で歌っていたが、それでも彼は楽しんでいたのだ。

 その楽しみをロッシャに与えていたのだ。ようやくそれに気がついた。


「歌も同じだ。楽しみ、笑え。顔に出してまで笑う必要はねえ。心で笑ってりゃそれで伝わる。聞いてほしいと叫ばなくてもな」

「……はい」

「まぁでも、歌唱力は合格だな」


 マイナスな評価のみが出ると思ったが、思わぬ言葉が出た。まさか合格点をもらえる項目があるなんて。


「声が伸びやかではっきりしている。滑舌もいいから聞き取りやすい。声量のコントロールも見事なものだ。ラターリオ、お前の賜物か?」

「確かに声のコントロールはロッシャの課題だったからね。そこを中心にレッスンしていたよ。花が開いてよかった」


 ラターリオからも称賛の声が。その言葉を聞いているだけで気持ちが高揚する。

 あぁ無駄ではなかった。必死に取り組んだレッスンはしっかりと実を結んだ。課題は残っていても、ラターリオの指示通りに歌うことができた。

 それだけでも、前進した気持ちが高まる。


「まぁ、もう少し練習したらアルストロメリア公演には出せるだろう。オーディションの結果次第だがな」

「……アルストロメリア公演?」


 聞き慣れない言葉に首を傾げる。


「知らねえのか? いわゆる、歌手を目指す奴がデビューできるか査定する公演だ。オーディションに通れば舞台に上がれ、1曲だけ披露する。そこで事務所の目に止まればスカウトを受け、デビューできるってわけだ」


 全く知らなかった。そんな公演があったなんて。あぁそもそも、クレアレーネの歌手がどういう手順で舞台に上がっていることかなんて聞いたことがなかった。

 ダンスは主に開催されるイベントに応募して、オーディションに受かれば参加できる。大きなイベントになると主催者側が出演者を選んで依頼をかけるのだが。

 歌と踊りではこうも違うのか。歌でのし上がろうとしている人がいる故の壁の高さなのかもしれない。


「今の時代は、動画サイトで自身の歌をアップして、それを全国の人に見てもらうのが主流だ。クレアレーネの歌手志望もやってるし、現役の歌手も舞台に上がらずに似たようなことをやっている。だが、クレアレーネは舞台の街だ。お前は舞台で勝負しろ」

「……は、はい」

「というかラターリオ、お前教えてなかったのか?」


 アディルの視線はラターリオに移る。確かにロッシャはラターリオからアルストロメリア公演なんて一切聞いていなかった。

 まさかその公演以外の方法で考えていたのだろうか。


「まだ教えなくていいかと思って言わなかったんだ。ロッシャにはまず、歌に真摯に取り組んでほしかったからね」


 ラターリオは穏やかな表情を崩さず、静かにそう答える。


「公演という目標を立ててしまったら、そこばかりに目が行ってしまうだろう? 僕は、ロッシャには歌全てを愛してほしいと思った。惹きつける力を持ったその歌声を存分に活かしたかった。公演の話をするのは、もう少し後でいいかなって……」

「……なるほどな。まぁ理屈は分かったよ」


 アディルは納得したのかしていないのか、少し分からないような表情でただただ頷いた。

 だがロッシャはその言葉の意味を理解した。公演で止まってほしくない。その向こうに行ってほしい。舞台に上がり続け、歌の世界を作り出してほしい。

 その願いが込められているように思えた。


「まぁ、次のアルストロメリア公演のオーディションは3ヶ月後だ。それまでにレッスンを重ねてみな」

「はい」

「あまり時間は割けないが、俺もお前を見てやる。お前の歌には可能性があるからな」

「あ、ありがとうございます!」


 思わぬ協力者を得た。まさかアディルもロッシャの歌を見てくれることになるなんて。自分は今、とても恵まれた状況にいるのではないかと思えてならない。

 ならば尚更、期待に応えなければならなかった。


「ありがとう、アディル。僕も嬉しいよ」

「お前の指導もなかなかのもんだな。いい逸材を見つけやがって」

「本当にそう思うよ。……ちょっと休憩いいかな」


 満足気に息を吐いたラターリオはそう話し、部屋を後にする。確かにここへ来て長い時間が経っていた。あまり気づいていなかった。


「あいつ、いつになったら煙草止めるんだ……」


 呆れたように髪を掻いたアディルだったが、すぐにロッシャへと視線を移した。


「まぁ座れ、ロッシャ。足が痛むだろ」

「あ、ありがとう……」


 促され、ロッシャはソファに腰掛ける。確かに足の疲れはあったが、痛むほどではない。しかしいつまでも立ち続けると支障が出てしまう。


「歩行用の杖は使わねえのか?」

「最近はリハビリがうまくいって、杖がなくてもそこまで支障はないから。……本当は常に持ち歩いておくべきなんだけど、どうしても煩わしくて」


 煩わしいという気持ちと、杖がなくても歩けるという反発心があった。心の何処かで走りたい、踊りたいという気持ちがまだ燻っているからだろう。


「……あそこまで活き活きしたラターリオを見たのは久しぶりだ」

「え?」


 唐突にラターリオの話となり、ロッシャは顔を上げる。


「あいつが引退してからも交流はあった。俺の楽曲制作を手伝ってくれたり、プロデュースしたミュージシャンの音楽指導をしたりしてくれてな。……だが、楽しそうではなかった。何処かあいつは、生きることを諦めているフシがあった」

「生きることを、諦めている……?」

「自殺志願じゃねえ。明日には期待していないというか、明日を迎えることを楽しみにしていないというか……。とにかく、引退してからのあいつは何処か抜け殻だった」


 抜け殻。

 それは世捨て人だと呼ばれていたラターリオの別の表現なのだろうか。引退してすぐに彼は生きる楽しみを失い、抜け殻のようになったのか。


「どうして、ラターリオは引退したんだ……? 歌う理由がなくなったとしか聞いていなくて」

「俺も同じだ。だがそれ以上はプライバシーに関わることだから詮索はしねえ。でも、結果的に今のラターリオは活き活きしている。お前のおかげだ」


 本当に自分のおかげなのか。あぁでも、親友であるアディルがそう言うのであればそうなのだろう。抜け殻だった頃のラターリオは知らないが、今の彼はアディルから見ても眩しいということ。

 それはいいことだ。

 だが。


「あいつのこと、頼むな。何かあったら俺に相談してくれ」

「……あ、あぁ」


 アディルもアディルでラターリオのことを心配していたのだろう。とても友達思いであることがひしひしと伝わった。

 しかしロッシャの疑念は消えない。

 ラターリオが引退した理由。歌う理由がなくなった原因。深入りしてはいけないのに、引っかかって引っかかって仕方がないのだ。 

 

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