第14話

 一週間後。ロッシャはバスに揺られていた。平日の昼過ぎはそこまで人が混み合っておらず、席も空いていた。使っている路線は劇場街へ向かうものではないため、観光客の数もまばらだ。

 クレアレーネは交通量が非常に多い。観光客が多く、道路は常にバスとタクシーでひしめき合っている。地下鉄も走っており、そこも常に人が詰まっていた。クレアレーネの住民よりも観光客や通勤客のほうが圧倒的に多いという状況だ。

 いつも眠らない街だった。中心部が静かになってしまうことなんて今まであっただろうか。

 バスに揺られながら、ロッシャは初めてクレアレーネに来た時のことを思い出す。あまりにも壮大で、故郷のエッセと全く違った人の多さ、建物の密集さに驚きを隠せなかった。

 本当にこんなところで頑張れるのだろうかと、共に進学した仲間と不安になったこともあった。同じ国なのに、クレアレーネ独自の日常のルールもあって苦労することもあった。

 それでも3年間ダンスを学び、小さな舞台に上がりながらも勉強に励んだ。成績はあまり良い方ではなかったが、卒業できる程度の実績は残した。

 新しい友達もでき、共に進学した仲間とは切磋琢磨して過ごした。充実した学生生活だったといえる。

 エッセにない景色はロッシャに強い刺激を与えた。この街に生きたい。この街で息をしたい。輝かしい舞台の上で踊ってみたい。そう思えたのだ。

 バスが次の停留所のアナウンスをする。はっと顔を上げたロッシャは降車ボタンを押そうとしたが、一足先に誰かに押されてしまった。どうやら同じ場所で降りる乗客がいたらしい。

 初めて降りる場所だった。クレアレーネの中心部から少し北に位置したエリアだ。そこはクラブハウスやホールもそこそこあるが、主にショッピング街として賑わいを見せていた。有名ブランドの店やセレクトショップ、個人経営のブティックなど数々の店が揃っている。中にはオフィスが入ったビルも点在しており、観光客と通勤客がより集まっている場所と言えよう。

 2日前にラターリオから連絡があった。地図を送るからこの場所へ来てくれと。

 そこは音楽スタジオだった。インターネットで検索すると、有名なアーティストも頻繁に利用しているほどの人気のスタジオらしい。

 まさかここでレコーディングをするのか? まだ新曲Aも完成していないというのに。

 何故音楽スタジオへ? とラターリオに聞いたが、「会わせたい人がいる」と返されただけだった。一体誰と会わせようというのか。

 停留所に到着し、ロッシャはバスを降りる。自宅周辺とは異なる風が吹いていた。一歩違うエリアに踏み入るだけで、こんなにも空気が変わるのか。

 音楽スタジオは停留所から3分ほど。近くに自然公園があり、よく見るとたくさんの親子が遊んでいるのが見える。ショッピング街でもありビジネス街でもあるというのに、子供が楽しめるところがあるのか。

 用事が終わったら立ち寄ってみてもいいかもしれない。そう思えた。

 音楽スタジオはビルの4階にあった。1階には楽器店、2階にはCDショップがあった。どうやら音楽を中心としたテナントが入っているビルらしい。

 ラターリオのメッセージを見ると、どうやら既に到着しているらしい。随分早いな。ロッシャも予定時間より早く着いたというのに。

 待たせてしまっては悪いと、ロッシャは足早にエレベーターに乗り込んだ。



「やぁロッシャ。待っていたよ」


 スタジオの入口にはラターリオがいた。あまり周りに気づかれないようするための配慮なのか、薄いサングラスを装着している。

 それを着けていても気づく人は気づくのではないか? と思ってしまったが、心の中にしまっておいた。



「悪い、待たせたか?」

「大丈夫。僕は事前に彼と話をしておきたかったから……」


 恐らくロッシャに会わせたい人なのだろう。彼ということは男性か。だが、一体どんな男性なのか。

 スタジオの中に入り、奥へと案内される。既に受付は済ませていたのだろうか、受付のスタッフは軽く会釈するだけだ。

 初めて音楽スタジオへ来た。木の壁を模した壁紙が貼られた、ぬくもりを感じる空間だった。所々に観葉植物も置かれている。ライブハウスのようにコンクリート打ちっぱなしのような場所を想定していたが、予想が外れた。


「そういえば、僕の自宅以外で君と会うことってなかったね」

「バーで会った時以来か……」


 確かにいつもラターリオの自宅で会っていた。こうして外で落ち合うなんて初めてだ。

 彼は外でも何ら変わりはない。今はサングラスを着用しているが、服装も特別洒落たものを着ているわけではなかった。だが、凛とした佇まいと、すらりとした体躯はとても絵になっていた。


「ここだよ」


 ラターリオが案内したのは、奥の「スタジオ4」と書かれた部屋だった。重厚そうな紺色の扉を開ける。中には更に2つ扉があったが、その中の奥の扉に手を伸ばす。


「アディル、連れてきたよ」


 中は数々の機械が設置された部屋になっていた。ライブハウスの音響機器とよく似ている。あぁこの景色は知っている。録音するために必要な機材が置かれているのだと。

 奥のソファに一人の男性がスマートフォンを弄りながら座っていた。随分と体躯がいい、白髪交じりの髪が特徴の中年男性だった。

 こちらを見る目は鋭く、思わずロッシャは息を呑んだ。


「そいつがお前の秘蔵っ子って奴か」


 男は立ち上がり、歩み寄る。立ち上がると余計に背の高さが分かる。ロッシャよりも大きく、引き締まった体をしていた。スポーツでもやっているのだろうか。

 威嚇しているような声色に聞こえるが、そこまで恐怖感はなかった。寧ろこちらを探っているような……。


「少年、名前は?」

「ロッシャ・イレーゼ。一応成人してるんで、少年では……」

「俺からすればデビューする前の人間なんて子供も同然だ」


 結構な物言いだなとロッシャは戸惑ってしまう。そもそもこの男性は何者だ? ラターリオはアディルと呼んでいたが。

 アディル?


「え、もしかして……」


 聞き覚えのある名前に、ロッシャははっと顔を上げる。


「良かったねアディル。有名人みたいだよ」

「当たり前だ。音楽雑誌見てたら自然と覚えるだろうがよ」


 アディルと呼ばれた男は豪快に笑い、ラターリオの肩を叩く。どうやら二人は仲が良いらしいが、ロッシャはそんなことなど気にも留めなかった。


「改めて紹介するよ、ロッシャ。彼はアディル・キディアス。僕の親友で音楽プロデューサーだ。実は昔、僕が歌っていた時にバックでドラムを叩いていたんだよ」


 やはりアディル・キディアスだ。数々のロックバンドやシンガーソングライターの編曲やプロデュースを手掛ける人物としてロッシャも認識していた。作曲家でもあり、彼が提供した曲もいくつか存在する。

 まさかラターリオが歌っていた時のサポートメンバーだったとは。だからこうして親交があるのか。


「どうして、そんな凄い人を俺に紹介したんだ……?」

「勿論、君の技量をアディルに見てもらうためさ」


 驚きを隠せないロッシャに、ラターリオは淡々と言った。

 アディルに見てもらう? それは彼の前で歌って、評価されろということか。いや、確かにラターリオ以外の人に歌を評価される必要はあると分かっていた。しかし、いきなり壁が高すぎやしないか?

 有名な音楽プロデューサーは生半可な評価をしないだろう。まだレッスンして1ヶ月ほどのロッシャなんて、評価に値しないのではないか?


「僕はまだ早いかなぁって思ったんだけど、君の話をアディルにしたら連れてこいって聞かなくて……」

「早い段階から欠点を見つけられたら改善の余地もあるだろう。それにこれは、ラターリオのトレーナーとしての技量を見ることも兼ねてるからな」

「ははは、僕も査定対象か」


 流れるように会話を続ける二人だが、ロッシャはまだ混乱していた。まだ声のコントロールの仕方も完璧ではないし、自分自身で歌の世界を作り上げることもままならない。

 いや、でもアディルの言う通り、早い段階から欠点を見つけることができればそれは大きな前進となる。ここは思い切って辛口の評価を受けてみるのもありだろう。


「……しかし」


 ふとアディルがロッシャに視線を移す。探っているような目ではなく、ただ単に見つめているような目だった。


「ラターリオから聞いたが、元ダンサーだって?」

「え? あ、はい……」

「事情はラターリオから聞いている。体つきもしっかりしているから、踊れなくなっちまったのはとても勿体ねえな……」

「……確かに惜しいと思うけれど、でも俺は歌うと決めたんだ」


 ラターリオのように、歌で世界を作ってみたい。ダンスの時に感じた熱を歌で感じたい。足が動かなくても声がある。

 今のロッシャは少しずつ未来へと歩んでいた。


「いい目だな。ラターリオが推薦する理由も分かる」

「ロッシャはいい子だからね。年の離れた弟みたいな感じがして」

「自分の年齢を考えろラターリオ。どう見ても親子だろ」


 呆れたアディルの言葉に、ラターリオはただ微笑むだけだ。彼がここまで気を許して会話をしているのを初めて見た。あくまでロッシャとラターリオは師弟のような関係。アディルのような親友とは、こうやって会話をするのか。


「まぁ、いい目をしているが実力はこれから見させてもらう。隣に録音室がある。そこにマイクも置いてあるから、そこで歌え」

「……はい」

「歌はラターリオがお前のために用意したっていう新曲Aとやらでいこうか。未完成かもしれないが、お前の歌なんだったら未完成でも歌い上げてみせろ」


 言葉は荒っぽいが、確かな熱があった。ロッシャを見下したりもせず、とは言え過度な期待もしないように背中を押していた。

 ラターリオがロッシャに彼を紹介した理由も頷ける。


「いってらっしゃい、ロッシャ」


 ラターリオにも背中を押され、ロッシャは頷く。この部屋に入る前にあったもう一つの扉。あれが録音室になっているらしい。

 いざ行くかと、ロッシャは歩を進めた。

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