第13話

 もうすぐ日付が変わる時間帯なのに、クレアレーネは眠らない。劇場や飲食店、住宅街でさえも明かりが消えていなかった。道にはまだ多くの人が行き交っていて、誰も彼も嬉しそうに表情を輝かせている。

 大方、様々な公演やコンサート、イベントを見てきた人達だろう。非日常を感じられる熱と光を浴びて、活き活きとするのだ。ロッシャもその顔の色をよく知っていた。

 ロッシャが踊った後の観客の顔はいつも晴れやかだった。

 少し疲労を感じながらも、それでもその疲れこそが心地良いと感じているような顔をしていた。

 熱と光を浴びた証拠だった。

 あれを眺めるのが大好きだった。

 しかし今は、その表情を見て微笑む余裕はなかった。少しばかりバイクの制限速度を超えて、ロッシャは目的地へと向かう。

 また落ち着いたら手伝ってくれよと声をかけてくれたタトカの言葉を思い出す。彼はとても優しい。彼にはとても感謝している。だから恩義に応えるためにも、今は距離を置かないといけない。

 このままでは壊れてしまいそうだから。

 このままでは、自分が自分でなくなってしまいそうだから。

 中心街からどんどん離れていく。途端に車の数が少なくなっていった。警察の目がないことを祈りながら、前方の車を追い越し、更に速度を上げた。

 今はこの猛スピードの中を突っ切っていきたい。あの風の向こうに、狂いそうになる感情を置き去りにしてしまいたかった。


 ラターリオの家の周辺はしんと静まり返っている。あちこちの家々は明かりが消えていた。もう眠ってしまったのか、この時間まで留守なのか定かではない。

 彼の家は明かりがついたままだ。こんな時間に押しかけるなんて非常識にもほどがあると思ったが、彼は快く受け入れてくれた。

 ベルを鳴らせば、扉が開く。


「こんばんは、ロッシャ」


 いつもの穏やかな表情でこちらを迎えた。レッスンに来た際の出迎え方と全く同じだった。

 困惑したり、戸惑ったり、何故来たのか尋ねてくることもなく。

 なんだか却って悪いことをした気分だと思いながらも、ロッシャは家の中へと足を踏み入れた。

 ロッシャはリビングに通され、ソファに座る。この部屋に案内されたのは初めてだ。いつもキッチンダイニングのテーブルに座っていたから。

 リビングはキッチンダイニングの隣にあった。ソファとローテーブル、テレビがあるだけのシンプルな部屋。余計な家具は置きたくないという彼らしさがここにも表れている。


「何か飲むかい? ビールもあるけど」

「バイクで来たからアルコールは遠慮しとく……」

「もう遅いし、泊まっても構わないよ? 寝るところは用意できるから……」


 そう話しながら、ラターリオが用意したのはホットチョコレートだ。じわりと甘い香りが漂い、ロッシャは思わず顔を上げる。

 ホットチョコレートなんて自分から飲むことは殆どない。あぁ、こんな甘い香りをしてるのか。

 一口飲めば、甘くて温かい味が広がった。心が包み込まれていくみたいだ。


「ダンスイベントの手伝いに行っていたんだったね」

「あぁ、レッスンをすっぽかして悪かったよ……」


 本当は今日、ラターリオのレッスンを受ける予定だった。だがイベントの手伝いを優先し、日程の変更を申し出たのだ。彼は怒ることもなく受け入れ、レッスンの日を変更してくれた。


「気にしていないよ。僕はいつでも都合がつくから。……それを謝りに来たわけではないだろう?」


 ラターリオは隣に座り、同じ物を口にした。小さなリビングで、甘い甘い香りが充満していく。

 外は静かだった。車の音は何一つ聞こえない。中心部の喧騒は何処へ行ったのやら。まるで別世界だ。


「……イベントを手伝ったから、当然、ダンスを見た」

「うん」

「リハーサルも本番も、みんな活き活きとしていて、踊ることを全力で楽しんでいた。俺はそれを見ることしかできなかった。……もう俺は、踊れねえんだって自覚したら、苦しくなって」


 舞台の上で輝いていたダンサー達への憧憬の気持ち。あそこに行きたかったという悔しさ。

 踊れないという絶望。

 マグカップを握りしめながら、ロッシャはぐっと歯を食いしばる。


「ダンスへの未練が消えなくて、足がまともに動けないことが悔しくて。どうして俺はこんな目に遭わなきゃいけなかったんだ……」

「……」


 マグカップはとても熱いのだが、そんなことは気にしていられなかった。それよりも遥かに、踊りに関する未練が強くて、強くて。

 泣きたくなる気持ちをぐっと堪えて、叫びたくなる衝動をぐっと抑えて、ただただ言葉を並べた。


「歌うのが嫌なんじゃない。ただ、踏ん切りがつかなくて、他の人達を見ていると嫉妬で狂ってしまいそうになる。こんな自分が、嫌になる」


 今の調子でまたイベントを手伝えば、おかしくなってしまいそう。恩師であるタトカに当たってしまいそう。親友のエデュートを殴ってしまいそう。

 こんな自分に成り果ててしまいたくない。


「……あと一回だけでも踊りてえよ、俺は」


 叶わない願いを口にした。どうしようもないことくらい分かっているのに。

 あぁこのままでは、話を聞いてくれているラターリオにも当たってしまいそうだ。


「ロッシャ」


 それまで黙っていたラターリオは、テーブルの上にマグカップを置いた。


「トレーニングルームへ行こう」

「え?」


 突然の言葉にロッシャは顔を上げる。ラターリオの表情は少しばかり暗く、瞳が揺れている。恐らくロッシャの言葉を受けたからだろう。

 そんな顔、初めて見たとロッシャは思った。


「気休めにしかならないかもしれない。でも、来てくれ」

「……あ、あぁ」


 この時間にトレーニングルーム?

 まさか歌えというのか?

 音が漏れないように施工されているとは言え、夜中に大きな声で歌うのは少し憚られるような。

 だがロッシャは彼に従い、共に2階へと上がった。

 何度も足を運んだトレーニングルーム。夜に入るのは初めてだ。なんだか少し雰囲気が違って見える。

 ラターリオはまっすぐオーディオコンポのところへと歩み寄る。ロッシャはただただそれを眺めていた。

 本当にレッスンをするのか?

 気晴らしのつもりだろうか。

 しかし、今の状態で満足に歌えるとは思わなかった。きっと酷い声と歌い方になってしまいそう。


「……君の慰めにならないかもしれないけれど、僕にできるのはこれくらいだから」

「え?」

「座っていていいよ。聞いてくれ」


 言われるがままにそのまま床に腰掛けると、ラターリオはコンポのスイッチを押した。

 音楽が流れる。聞き覚えのある音だ。それは何度も何度もロッシャが耳にした、親しみのある曲。


「……暁」


 それに気づいたと同時に、ラターリオはこちらを向いて、口を開いた。


「――――透明な空は今日もまた、僕を置いてあの彼方へ」


 目を見開いた。

 思考が止まった。

 ラターリオが自ら、『暁』を歌った。歌詞を見ず、スピーカーから流れるインストゥルメンタルに合わせて。

 透き通った、清涼感のある声。

 でも何処か深みがあり、暖かく包み込むような声。

 その歌声は20年前の頃と何ら変わりがない。人々の心を包み、掴み、魅せていくような美しさがあった。


「……」


 ロッシャはそれを呆然と見ていた。

 20年前、引退と共に置いていった筈の歌を、今こうして彼が歌っている。小さな部屋はいつの間にか世界から切り離され、彼が作り上げる世界へと変貌した。

 愛していた人を忘れられなくて、忘れたくて、忘れたくなくて。悲しみと切なさの中で生き続ける《僕》の歌。

 今ロッシャは『暁』の世界にいる。

 ラターリオが築き上げた世界の中心にいる。

 ロッシャは自身の踊りを思い出す。踊れば踊るほど世界が築かれ、観客と一帯となって熱の渦に飛び込んでいった、あの光景を。

 歌も同じだ。

 歌もこうして、音と共に世界を作り上げていくのだ。踊りとはまた別の、心を掴み、魅せるような世界を。


「……すげえ」


 感嘆の声が漏れた。

 そしてロッシャの目の前がぱっと光り輝いたのだ。



「……なんだか独りよがりな慰め方でごめんね」


 歌い終えたラターリオは、少し気恥しそうに髪をかき揚げる。歌い終えても尚、彼が作った世界の余韻が残っていた。


「いや、そんなことは……。やっぱり、ラターリオってすげえんだなって」


 驚きを隠せなかった。引退したとしても国中の人々を魅了した伝説の歌手だ。その実力は折り紙つき。

 今でも舞台に立てるのではないかと思えるくらいの美しさがあった。


「綺麗な歌だった。やっぱり本物が歌うと違うんだな……」

「ありがとう。……と言っても、現役よりは酷いものだけどね」


 どこが酷いものか。20年前と変わらない、魅了させる歌だったというのに。現にロッシャは釘付けになっていたというのに。

 だがきっと、ラターリオにしか分からない何かがあるのだろう。


「ロッシャ。僕はね、君の踊った動画を見たんだ」

「え?」

「検索したら見つけてね。半年前のダンスイベントだったかな……。君がソロでハウスダンスを踊っているのを見たんだ。僕も君のことをしっかり知っておかないとと思って」


 驚いた。まさかラターリオがロッシャの踊りを見ていたなんて。確かにダンスイベントの主催者が自身のアカウントで定期的に動画を上げており、ロッシャもよく映っていのだが。


「とてもかっこよくて、魅せる踊りだった。一つ一つの動作が綺麗で、まるで人の動きとは思えないくらいに。人ってあそこまでぴたりと動きを止めて踊れるものだね。僕にはできないよ」

「……あ、ありがとう」


 面と向かって褒められると居心地が悪い。胸の奥が熱くなり、目が泳いでしまった。


「君がダンスに対して強い想いがあること、踊りたいという気持ちはとても伝わった。ダンスを愛しているんだってことも」

「……」

「……でも、君がここで足を止めてしまうのは、駄目だよ」


 ラターリオの言葉が、じわりと心に突き立てる。


「残酷な話かもしれないけれど、踊りたいという未練を断ち切らないといけない。でも歌うことを強要するわけではないんだ。君には未来へ進んでいって欲しい。若い君にはまだまだ可能性がある」


 足を止めてはいけない。

 未来へ進んでいって欲しい。

 彼の言葉がすっと心に入ってくる。それは最初に彼と出会った時と同じだと気づいた。

 バーで彼は言った。未来を生きる若者がこんなところで挫けてはいけない。舞台人は舞台から降りてはいけないと。

 ロッシャには光があるから、と。


「僕は君に歌を託そうとしているけど、君がもし別の道に行きたいのであれば僕は止めはしない。君の人生は、君で見つけるべきだから……」

「……いや」


 ロッシャは首を振り、ゆっくりと立ち上がる。

 いつのまにか心の中に棲み着いてた靄が何処かへと消えていた。


「俺は、歌う」

「ロッシャ……」

「あんたの歌を聞いて思った。俺も歌いたい。歌で自分の世界を作りたい。聞いてくれる人とともに、世界を築きたい」 


 あぁそうだ。改めて理解する。

 踊れないことは悲しいことだ。だが、ロッシャには歌がある。舞台に上がるチャンスがある。舞台の上で観客を巻き込んだ世界を作っていきたいのだ。

 未来への道が見えた。

 目標が定まった。


「俺、あんたみたいな歌手になれるだろうか」

「なれるよ。僕は君を信じている」


 ラターリオは笑みを浮かべ、何度も頷いた。彼の表情も明るくなる。ロッシャの決意を受けたからだろう。

 未練を断ち切る。すぐにはできないかもしれないが、少しずつ、少しずつ。

 歌うのだ。

 自らの歌の世界を作っていくのだ。


「ラターリオ、ありがとう。……俺、頑張ってみる」


 改めて決意した時、もう既に時刻は0時を上回っていた。


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