第10話
翌朝、ロッシャは大きなクラクションで目を覚ました。アパートメントの前にある大きな道路で車が鳴らしたらしい。交通量が多いところだから、けたたましい音が鳴るのは日常茶飯事だ。
枕元の時計を見ると10時を回っていた。随分と長い間眠っていたようだ。昨日は0時過ぎにはベッドに潜っていたなと思い返す。
事故に遭って数ヶ月。リハビリに通ったり、エデュートや他のダンス仲間と会ったりといった日々を送っていたが、最近はラターリオのレッスンばかりだ。ダンスの練習をしていた時よりは忙しくない筈なのに、思ったより疲れが溜まっていたらしい。
充実している、とはまだはっきりと言い難いが、絶望の淵から希望に向かって歩み始めているのは確かだ。
ロッシャは寝転んだままスマートフォンを手に取る。メッセージがいくつか来ているが、後で返そう。ニュースサイトを見て、天気を見て、SNSを眺める。特に真新しい情報はなさそうだ。
空腹だ。何か食べようか。しかしまだ起き上がりたくない気持ちがあり、じっとスマートフォンの画面を見つめてしまう。
ラターリオのレッスンは毎日ではない。ロッシャのリハビリの日程に合わせ、2~3日に1回のペースで行われている。
勿論レッスンがない日にもラターリオは課題を与えている。発声練習と滑舌の訓練、それと与えられた歌の練習など。安い賃貸のアパートメントなので、あまり大きな声は出せないが、周りに聞こえない程度の声量で練習を繰り返している。
ロッシャが歌う予定の新曲Aもしっかり流し、耳に入れている。歌詞は仮のものだが、メロディは変えないつもりでいるから覚えておいてほしいと彼は言っていた。つまりメロディラインは完成形なのだろう。
「……」
スマートフォンに移した新曲Aを流してみる。20年前のラターリオが歌っている。過去を振り切って、未来へと賭けよう。いつか見えてくる光を目指そう。直訳するとそんな歌だ。
やはり悲恋ではない。いつもいつも、切なくて儚い想いを歌っていた彼の曲とは思えないほどの眩しさ。
この歌で方向転換をしようと思ったのだろうか。新しい作風を広めようとしたのだろうか。でもこれを出す前に引退してしまった。
どうして?
この歌を披露しようとして周りに止められたか? 悲恋を歌えと強要されて、嫌気が差してしまったか?
最初のイメージというのは意外と払拭されないものだ。「ラターリオは悲恋を歌う」というイメージが定着している以上は、新たな一面を見せるのにも勇気がいる。彼の悲恋の歌を求めている人は明るい歌にショックを受けるかもしれないし、受け入れるかもしれない。
全ては受け取り方の匙加減だ。
しかし、ロッシャの脳裏にある考えがよぎった。
「リーアンジェ、だっけな」
彼の家にあった写真の女性。清楚で美しい女性だった。今でもロッシャの頭にこびりついて離れない。
ラターリオの義姉だと言っていた。何らかの事情で姉弟になったのだろう。だが、彼女は亡くなってしまった。
深く聞くことはできず、何故亡くなったのかは分からない。あんなに綺麗な人が若くして命を落としたのは残念でならない。
もしかしてラターリオが引退した理由は彼女ではないか? と一瞬思ったのだが、そうだとすれば時期が合わない。
ラターリオが引退したのは20年前。
リーアンジェが亡くなったのは10年前。
そう考えると、リーアンジェは直接関係ないのか。もっと別の、彼の歌手人生を挫いてしまうような何かがあったのかもしれない。
ロッシャに会うまで、彼は音楽から距離を置いていたと言っていたし、やはり歌手として生きている中で大きな何かがあったに違いない。音楽から逃げたくなるくらいの何かが。
「……やめよ」
音楽を切り、スマートフォンの画面も落とし、ロッシャは深い息を吐いた。これ以上深く詮索するのはやめておこう。ラターリオだって長い間生きてきて色々あったのだ。あれこれ暴くわけにはいかない。
何かがあって歌うことをやめた彼がロッシャを見つけ、歌の道へと導いてくれている。それでいい。今はそれだけでいい。
もしかしたら彼がそのうち話してくれると思うから。
その直後。
スマートフォンから大音量のコール音が鳴り響いた。
「っ!?」
思わず飛び起き、側に置いたままのスマートフォンを拾う。電話だ。電話がかかってきている。
自分で大音量に設定したとは言え、突然鳴り出すと心臓に悪い。なんて思いながらロッシャは画面を見る。
「エデュート?」
親友のエデュートだ。こんな時間にかけてくるなんて珍しい。確かいつもこの時間はダンスの練習をしている筈だが。
何かあっただろうかとロッシャは通話ボタンを押した。
「どうした?」
「あ、ロッシャ! ちょっと助けてほしいんだ!」
慌てた様子のエデュートに、ロッシャは眉を顰める。普段落ち着いている穏やかな彼がここまで慌てふためくなんて珍しい。
一体何が? じわりと冷や汗が滲んだ。
「落ち着け、何があった?」
「人手が足りないんだ! 手伝って!」
「……は?」
思ってもみなかった返答に、ロッシャは肩透かしを食らってしまった。
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