第9話

 まだレッスンを始めて間もないロッシャは、基本的なことを中心に教わっていた。

 発声練習は勿論、滑舌を良くするためのトレーニングも行った。また腹式呼吸がしっかりできているかも逐一チェックされ、そして歌の練習をする。

 歌はまだ新曲Aではなく、練習に向いているらしい歌を用意された。流行りの曲から昔の曲まで。ラターリオの歌は一度も使われなかった。

 とても喉を酷使した。腹から声を出すので、腹筋もよく動いた。思った以上に体力を使うのだと思い知った。

 だが歌うことは楽しかった。少しずつだが前より良くなっていると実感する。ラターリオからも賛美の言葉が入る。段々と自信になっていった。

 とは言えこれで慢心するわけにはいかない。これでプロに通ずるとは限らないのだ。それはダンスの世界でも同じこと。成長を実感しても、ロッシャより上手なダンサーはたくさんいた。だからどれだけ周りに認められようと、決して鼻を高くすることはなかったのだ。

 ジャンルは違えど、踊りも歌も一緒。改めてそう思えた。


「よし、ここで一度休憩しよう。声に張りがなくなってきたからね」

「え? わ、悪い……」

「謝ることではないよ。ずっと歌い続けたら喉が疲れてくるのは当たり前のことさ。水分補給をしよう」


 ラターリオの一声でレッスンは一時中断となった。トレーニングルームを出た二人は、リビングへと降りる。

 ロッシャは予め水のペットボトルを購入しており、冷蔵庫に保管してもらっていた。きっとよく冷えていることだろう。

 一階まで降りた時、ラターリオははっと顔を上げた。


「あ、そうだ。ついでだからちょっと出かけてくるよ」

「何処へ?」

「そこのポスト。手紙を送りたくてね」


 玄関の棚の上に一枚の封筒があった。恐らくそれが送りたいものなのだろう。

 スマートフォンが流通し、ロッシャは手紙を送ることなどなくなってしまった。なんだか手紙をポストに入れるということが新鮮に聞こえてくる。


「すぐ戻るから、ゆっくり寛いでてくれ」

「あぁ、気をつけてな」


 ロッシャはそう言ってラターリオを見送った。広い家にたった一人。よく考えたら、留守を預かるなんて今までなかった。

 まだ出会って時間が経っていない男に、平気で留守を任せる。余程ロッシャを信頼しているのか、それともただ危機管理が薄いのか。

 いや、信頼しているのだろう。実際、彼の家を荒らすつもりはない。

 僅かな時間で、じわりと信頼関係が構築されているように感じた。

 キッチンダイニングに戻ったロッシャは冷蔵庫からペットボトルを取り出す。十分に冷えている。疲れた身体に染み渡るほどの温度だ。味がない筈なのに、とても美味しく感じる。それほどまでに疲弊していたのだろう。

 半分近くまで飲み干してしまった。このままだとすぐに空になってしまいそう。ラターリオが戻ってきたら近くの店へ買いに行こうか。


「……ん?」


 ペットボトルを持ったままテーブルへと歩いたロッシャはあるものを目にする。以前見かけた小さな本棚だ。以前見た時と変わらず、文房具と文庫があり、そして。

 倒れたままの写真立て。

 以前は見ないでいようと思っていた。見てはいけないと思っていた。だが、ロッシャの心がじわりと揺れた。

 今はラターリオがいない。

 ほんの少しだけ、見てもいいのではないか? と。

 いけないことだと分かっている。プライベートを暴くのは悪いことだと分かっている。

 だが、興味に勝てなかった。

 ロッシャは倒れていた写真立てを見る。そして思わず目を見開いた。


「……?」


 そこに写っていたのは女性だった。金の髪が美しい、可憐で清楚な雰囲気を持った、20代くらいの若い女性。深々と被った麦わら帽子がよく似合っていた。

 しかし心なしか、写真が少し古いような? 最近撮られたものではなさそうだ。

 この人は、まさか。

 直後、ロッシャの脳裏にラターリオの歌が流れる。悲恋を中心とした、彼の歌が……。


「ロッシャ? どうしたんだい?」


 ビクリと身を震わせた。ここまで震え上がったのは今までにないくらい。呼吸が止まった。思考が停止した。瞬きさえも忘れてしまう。

 帰ってくるのが早い。いや当たり前だ。そこのポストに行くって言っていたじゃないか!


「……わ、悪い。ラターリオ」


 写真立てを握りしめたまま、ロッシャは振り返る。下手な言い訳をするよりは素直に謝ったほうがいい。どれだけ罵倒されても受け止めよう。

 悪いことをしたという自覚はあるのだから。


「……」


 ラターリオは少し驚いた様子でこちらを見ていた。怒っているようには見えないが、許しているようにも見えない、ような。


「ずっと写真立てが倒れていたから、ちょっと気になっちまって……」


 この後のラターリオの言葉が怖かった。きっと怒るだろう。呆れるだろう。築いてきた関係も崩れてしまうだろうと。

 冷や汗が滲んだ。しかし、


「……あぁ、そうなんだ。気にしないでくれ」


 ラターリオは笑みを浮かべて首を振る。思わぬ反応にロッシャは驚きを隠せなかった。

 プライベートを暴いたような男を許すのか? 怒り、レッスンを全て打ち切り、関係を絶ってしまうのかと思ったのに。


「確かに伏せていると気になるよね」

「お、怒ってねえのか……?」

「あはは、怒っていないよ。ただ僕も、ずっと伏せたままだったのを忘れてたなって思って……」


 と困ったように笑ったラターリオ。ますます拍子抜けだ。だが、彼が怒っていないのであれば、ひとまずいいのか?

 しかし伏せたままだったのを忘れていた? ロッシャに見せないように伏せていたわけではなく、それよりも前からこの写真立ては倒されていたのだろうか。


「……綺麗な人だな」


 ロッシャはふと写真の女性を見て言葉を漏らす。とても美しい人だった。太陽のような明るい笑み。花のような可憐な笑み。どう例えてもぴったりなくらいだ。


「あぁ、とても綺麗な人だよ」

「この人が誰か、聞いていいか……?」


 恐る恐る問いかける。ラターリオのかつての恋人かもしれないとしても、好奇心には勝てなかった。

 きっと答えてくれないだろうと思っていたが。


「彼女は、リーアンジェ」

「リーアンジェ?」

「僕の義理の姉だよ」


 あっさりと答えてくれたものの、衝撃的な言葉に戸惑った。てっきり恋人だと思った。忘れられない、かつての恋人だと。


「あ、姉……?」


 家族だった。

 義理と言っている以上、血の繋がりはないだろうが、それでも姉なのだから家族だ。似ていないから家族ではないと思っていたが、義理ならば頷ける。


「お姉さん、だったのか……」

「と言っても、10年前に亡くなっているんだけどね」

「え?」


 頭が混乱しそう。今日レッスンで学んだことが消えてしまいそう。

 それくらいに衝撃的なことが連続した。

 写真の中で優しく微笑んでいるリーアンジェは、もうこの世にはいないなんて。


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