第6話

「さて、一度休憩しようか」


 ラターリオが声をかけ、鍵盤を叩く手を止める。

 あれから基本的なトレーニングを繰り返した。発声練習や滑舌の訓練、声のコントロールなど。どれもすぐに習得できるものではなく、何度も何度も練習をした。

 壁にかけられた時計を見ると、もう1時間が経過している。


「余り喉を酷使するのはよくないからね。水分をしっかり取って、喉を休めないと」

「あ、あぁ……」


 ロッシャは深呼吸をする。余り気がついていなかったが、随分と喉が乾燥している。トレーニングの最中に何度も水を飲んでいたが、それでもすぐに乾いてしまうのかと。


「疲れたかい?」

「いや、そこまでは……。まぁ、足は疲れたけど」


 と言いながら、ロッシャは床に座り込んだ。あまり長時間立っていると疲労感が溢れる。リハビリを休まずに行っているから、以前よりはずっと立っていられるようになったが。


「すまない、君の足のことを気にかけていなかったね……」

「いや、気にしないでくれ。痛みとかはねえから」


 日常生活に支障はないほどには回復している。懸命なリハビリの甲斐があり、二度と動かなくなるという最悪の事態は避けられた。

 踊れない事実だけは最後まで覆らなかったが。


「ロッシャ。何か飲むかい? 一度リビングへ降りよう」


 椅子から立ち上がったラターリオは、ロッシャへと歩み寄る。座ったままの彼に手を伸ばした。


「立てるかな?」

「あぁ、ありがとう」


 ロッシャはラターリオの手を取った。ほんの少し、その体温は低かった。

 一階に降りると広めのリビングダイニングがあった。しかし、テレビとテーブル、ソファ、小さな本棚があるだけで、それ以外の家具はない。随分と殺風景な様子だった。

 芳香剤が広まり、とても良い香りが漂っているが、同時に良いとは言い難い別の匂いも混ざっていることに気が付く。

 この匂いは、確か。


「ラターリオ、あんた喫煙者か?」

「そうだよ。消臭剤をかけていたけど、感じるかい? 嫌いだったらごめんね」

「いや、別に平気だけどよ……」


 キッチンに立つラターリオを見ながら、ロッシャは少しばかりの戸惑いを感じた。

 そうか、喫煙者か。ロッシャ自身は嫌煙家でも何でもないので、吸うこと自体は否定的ではない。ただ、ラターリオのイメージに合っていないと言うか。

 喫煙をする歌手やミュージシャンは珍しくはないが、年を重ねると声の張りが失われていく。第一線で活躍しているオルタナティブロックバンドのボーカルも、声の掠れが目立ってきたことにより煙草をやめたと以前インターネットのインタビューで語っていたな。

 椅子に腰掛け、部屋の中を見渡す。本当に何もない。一体彼はこの部屋でどのように過ごしているのだろう。引退してからは様々な趣味に興じているのかと思ったが、実際はそうではない様子。

 世捨て人、と言うのは決して誇張表現ではないらしい。


「……?」


 ふと、ロッシャはある方向を目にした。そこには白い、背の低い本棚があった。いくつもの本が並べられているが、視線はそれよりももっと上を向いている。

 本棚の上には文房具が複数収納されたペン立てと、棚に収納できないまま積まれた文庫本、そして倒れている写真立て。

 あの写真立ては何故倒れているのだろう? たまたま倒れてしまった? それとも、誰かに見られないようにわざとそうしている?

 少し気になったものの、手を伸ばすことができなかった。なんだかそれに触れてしまってはいけないような気がして。


「お待たせ、どうかしたかい?」


 ラターリオの声が聞こえて、ロッシャは振り返った。気が付けば彼はコーヒーの入ったマグカップを2つ持っていたた香ばしい匂いが漂っている。


「あ、いや、なんでもない……」


 慌てて取り繕い、ロッシャはマグカップを受け取った。とても芳醇な香りが漂って、美味しいだろうということがよく分かる。

 あの写真は何だ? と聞きたかったが、うまく言葉にすることができず、コーヒーを一口流し込んだ。


「なんていうか、意外と家具がねえなって思って……」

「あぁ、特に必要ないものは買わないようにしていてね」

「俺に会うまで、今まで何をしてたんだ?」

「印税で貰ったお金でのんびり過ごしてたよ。時々、知り合いのミュージシャンの楽曲制作を手伝うとか、近所の子供にピアノを教えることもあったね。ま、最近は飲んで寝ての生活ばかりさ」


 なるほど、確かに世捨て人だ。ラターリオの歌はよく使われているので、何もしなくても使用料が舞い込んでくる。働かなくても十分に生活できるのか。

 羨ましいと感じることもあるが、何もしない生活を繰り返すのは少し苦痛ではないか? そう思えてしまう。


「家族はいないのか?」

「両親は数年前に亡くなっているからね。今は僕一人だよ」

「彼女とかは?」

「……いないよ」


 少し声色が変わったような。なんだか、それに触れてほしくないかのような。

 これ以上は聞かないほうがいいかもしれないとロッシャは察し、また一口コーヒーを飲んだ。

 彼の交友関係よりも、気になることがある。


「ラターリオ。この前俺に、もう歌わないと決めたって言ったよな? 何故だ?」


 人気絶頂の最中に突然の引退。ロッシャは当時のことを知らないが、ファンだった母親から聞いた記憶がある。

 引退報道に多くのファンが慟哭し、暴徒と化した一部の人間から脅迫状が送られることもあったらしい。結局彼の安全を重視し、ラストコンサートが舞台で行われることなく、テレビ中継でのみ行われたとも。

 引退後も数々のパパラッチに追いかけられたと聞いている。それほどまでに彼の引退というのは青天の霹靂であり、国中を揺るがすニュースだったということ。


「そうだね、歌う理由がなくなった、というべきか……」

「歌う理由?」

「うん。もういいかなって思うようになったんだ。ただそれだけだよ」


 随分とざっくばらんとした理由だった。いや、恐らく本来の理由を隠したが故の言葉だろう。決して表に出したくないという彼の意思が感じられた。

 ロッシャに力を貸してくれるけれど、自分のことを大っぴらにするつもりはないらしい。いや、それは決して悪いことではない。誰しも内緒にしておきたいことはたくさんあるだろう。


「歌う理由、か……」

「ロッシャの歌う理由は?」


 突如言葉をかけられ、ロッシャは顔を上げる。


「えっと……聞いてくれる人の心に、響くため?」


 ダンスはそうだ。見てくれている人全てが熱狂し、楽しみ、日常を忘れるかのような気分にさせたかった。そして何より、自分も観客とともに楽しむことも忘れない。

 小さな世界の中で、熱狂の渦を生み出し、世界を彩っていく。アップテンポの音楽とともに、観客の歓声と共に。

 歌うということも、そういうことだろう。


「まぁ、基本的にはそうだね。今はそれでいい」

「どういうことだ?」

「君の歌がモノになった時に、また改めて教えてあげるよ」


 と言って微笑むラターリオ。あぁ恐らく深く聞き出しても答えを教えてくれそうにない。僧感じた。

 歌うというのはそう簡単なものではないと改めて認識したロッシャ。成功するか分からない。失敗する可能性だって高い。だがそれでも。

 歌うことは楽しかった。

 1時間のレッスンが楽しかった。

 ロッシャは少しずつ、光を見たのだ。

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