第5話

 2階の奥へと案内される。真っ白な壁、薄いカーテンを閉め切ったこぢんまりとした部屋で、片隅に椅子が3つとキーボードとアップライトピアノ、大きめのオーディオコンポが置かれている。

 ここがボイストレーニングの場所として使われるのだということは一目瞭然だった。

 一見ただの部屋に楽器を置いただけのように見えるが、ラターリオの言うとおり、防音の施工がされているのだろう。


「久々に使うから掃除をしたんだけど、まだ少し埃っぽいな」


 あぁ確かに、微かに埃が舞っているような。しかし意識しなければ気になることではない。もっと埃が酷いところでダンスの練習をしていたことがあるくらいなのだから。


「俺は気にしねえよ」

「とは言え、喉は常に気をつけたほうが良い。空気清浄機を持ってくる。待っていてくれないか?」


 そう言い残したラターリオは階段を降りていく。残されたロッシャは、部屋に入らずに廊下へと出た。

 そうか。歌うとなると喉に気を使わう必要があるのか。埃は勿論、乾燥にも気をつけないといけないし、アルコールを摂取しすぎないほうが良いか。

 そう考えると歌手というのは大変だ。まぁ、喉と声を商売道具にしているのだから致し方がない。踊りだってそうだ。自分の手足が商売道具だ。一つでも欠けたら価値が薄れる。

 実際、ロッシャはその商売道具を失ってしまったのだが……。


「よっと、待たせたね……」

「お、おい一人で大丈夫か!?」


 ロッシャは少し大きな空気清浄機を持ってきたラターリオを見て慌てふためく。一人で持ち運べる程度のサイズではあるが、それを持って階段を上がるのは大変だ。急いで彼の元へ向かい、空気清浄機を支えた。


「俺を呼べよ!」

「あはは、これでも何度か持って上がったりしてたから……」


 苦笑いを浮かべるラターリオに呆れつつも、ロッシャは部屋の中へと運んだ。

 清浄機を稼働しながら、ラターリオはキーボードの前に椅子を置く。いくつか鍵盤を押すと、音が流れた。どうやら正常に動くようだ。


「さて、まずは君の歌の実力から見ていこうかな。君の特徴と弱点をしっかり把握した上で、どのように歌ったら良いのかをはっきりさせたいからね」


 あぁそうか。ラターリオはロッシャの歌った姿を知らなかったな。とは言え、ロッシャ自身も余り歌を歌ったことはない。仲間とふざけ半分で流行りの歌を口ずさむことはあったが。

 こうしてたった一人の前で真剣になって歌うのは、初めてではないか?


「何を歌う? 何でも良いよ。ある程度ならインストゥルメンタルが揃っているから……」

「そりゃやっぱり、あんたの歌だろ」


 ラターリオの未発表曲を歌うのだ。ならば彼の歌を歌うのが道理だ。全ての歌を知っているわけではないが、たった一つだけなら歌うことができる。


「『暁』を歌わせてくれ」

「構わないよ。その歌、久々に聞くなぁ……」


 懐かしむように微笑んだラターリオは音楽プレーヤーとオーディオコンポを繋ぐ。その中に自らの歌のインストゥルメンタルが入っているのだろう。

 久々に聞く。という言葉に、ロッシャは少し胸がざわめいた。あぁそうか。彼は本当に引退して、自分の歌と距離を置いていたのだな。ラジオで流れていたり、とある店でもBGMとして使われていたりするのに。

 どうして歌うことをやめてしまったのか。

 改めてその疑念がよぎる。


「歌詞は分かるかい?」

「あまり自信がねえから、スマホで見ながら歌っていいか?」

「いいとも。では、行くよ」


 ラターリオが再生ボタンを押すと、『暁』のイントロダクションが流れる。初めはピアノが流れ、直後にアコースティックギターとドラムが静かに旋律を刻む。

 母親が大好きだった曲。ロッシャ自身も何度も聞いていた曲。離れてしまった女性を忘れてしまいたいのに忘れられないという切なさを歌い上げた、ラターリオの起源となった曲。


「――――透明な空は」


 スピーカーから流れる曲に合わせて、歌った。恐らく生まれて初めて、この歌を最後まで歌うだろう。

 何度も聞いた。歌詞の内容も頭に入っていた。忘れられない悲しみと切なさと、本当は忘れたくないという強い心が混ざったアンバランスな歌。ラターリオはそれを耽美と悲哀を織り交ぜた表現で歌い上げた。

 それが人々の心を掴んだ。

 あぁ改めて、彼の歌は凄いのだと実感する。


「……」


 ロッシャが歌っている姿を、ラターリオは無言で見つめている。椅子に腰掛け、足を組み、穏やかだった表情はいつの間にかいなくなっている。

 何処か厳しく、

 でも何処か優しく。

 そんな色をした表情と目が、確かにロッシャを見ていた。

 

 歌い終えた後、ロッシャの身体が少し火照っていた。人前で歌うという緊張感と気恥ずかしさ、そして達成感があったからかもしれない。

 上手い、下手はさておき、最後まで歌いきった。どっと疲れが溢れてくる。

 呼吸を整えながらラターリオを見ると、彼はただただ頷いていた。


「ロッシャ、何度か歌ったことは?」

「え? あまりない、けど……」


 もしかしてラターリオの期待に添えなかったのだろうかと、少し不安になる。だが、彼の表情は突如ぱっと明るくなった。


「いい声量だね。力強さを感じるよ」

「え?」

「歌い慣れていない人は、なかなか大きな声を上手に出せないからね。でもロッシャはとても聞き取りやすい、はっきりしたボリュームをしていた。これは君の強みだね」


 ラターリオに言われ、ロッシャは気付く。自身の声がそこまで大きなものだったなんて思わなかった。だが、そう褒められると悪い気はしない。


「あ、ありがとう……」

「まずそこが君の良いところだ。それと気になるところが……」


 あぁやはり、欠点も多少あるか。致し方ない。それを直していくところがトレーニングなのだから。


「歌詞に引っ張られすぎているかな」

「……引っ張られすぎている?」

「次はこのフレーズが来る、次はこのフレーズが来ると意識しすぎて、自分の表現が乏しくなっているように思えたね。スマホで歌詞を見ていたからということもあるが、なんとかメロディに追いついていこうという気持ちが先行して、ただ歌っているだけという印象があった」


 その言葉にハッとする。あぁそうだ。確かに歌詞を追って、取りこぼしがないようにと必死になって歌っていた。途中でテンポが掴めなくなることもあった。

 ラターリオのように、上手に表現ができていない。

 彼は数分の歌声でここまで読み取っていたのか。また彼の凄さを思い知らされた。


「それに、声量は良いが歌い方に粗がある。でもレッスンを重ねれば改善されるから、何も気にすることはない」

「……俺、ちゃんとあんたの歌を歌えるだろうか」

「ロッシャ。僕の歌を歌うことだけを考えないで欲しい」


 ラターリオは椅子から立ち上がり、ロッシャの元へと歩み寄る。


「君は今後、歌手として舞台に上がって欲しいと思っている。僕の歌だけでなく、様々な歌を歌うことになるだろう。だから君は、自分が最も良いと思える歌を歌うことを考えるんだ」

「……」

「大丈夫。僕は君の歌を聞いて思ったよ。君は立派な歌手になれると。勿論、レッスンが大事になるけどね」


 彼の言葉には強い説得力があった。世辞ではないことも感じられる。本当にロッシャの中に光を見出したのだろう。

 そしてロッシャはそれに応えたくなった。踊れなくなった自分は、歌う立場に立つのだと。この街の舞台に立つのだと。


「まずは僕の未発表曲の練習をし、デビューを狙ってみよう」

「……あぁ」

「僕のこの歌を、未来へと向かわせて欲しいんだ」


 そう話すラターリオは何処か寂しげな表情にも感じられた。

 もしかして、本当はこの歌をラターリオ自身が歌いたいのではないか? とさえ思えたが、それを口にするのは憚られた。

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