第3話

 忘れたい、忘れられない、忘れたくない。心に君が棲んでいる。棲まわせたのは僕だ。閉じ込めたのは僕だ。

 いつまでも手放せない思い出の中で、二人ぼっち……

 

 『暁』の一節。

 ラターリオが初めて歌った、いわゆるデビュー作というものだ。弱冠18歳の少年が舞台上で歌い上げ、多くの人を魅了した。思い出の人を忘れられない、二人で最後に見た暁の景色の中で時間が止まっているのだと歌う歌。ギター、ドラムといった楽器の中に、ピアノ、チェロも取り入れたメロディが特徴だった。

 この歌はインターネット上の動画で無料で流されている他、多くの人々が歌った動画もアップロードされている。そのため、全盛期のラターリオを見たことがないロッシャでも知っていた。特にこの歌は母親のお気に入りだったし、ラジオでもよく流れていたし、今では歌詞を見なくても口ずさめるほどだ。

 まさかこの歌を歌った本人と会うことになろうとは。人生は何が起こるか分かったものではない。

 未だにあれは夢だったのではないかと思う。しかしスマートフォンのメッセージアプリにはしっかりラターリオが追加されている。昨日のことについても改めてメッセージがしたためられていた。

 夢ではなかった。本当のことだった。

 だがあまりにも非現実すぎて、一人ではどうしても抱えきれなくなった。


「あーこの曲聞いたことある。この人の歌なんだね」


 昼過ぎのカフェテラス。春の穏やかな風が流れる、暖かな空間だった。道行く人の足取りは軽く、春の陽気に嬉々としているよう。

 食事を終えたロッシャは、共に食事をしていた親友のエデュートに自らのスマートフォンを渡していた。画面には動画配信サイトで流れているラターリオの映像。18歳だった彼が、朝焼けをバックに歌い上げるミュージックビデオだ。

 エデュートはロッシャと同業のダンサーだ。以前はユニットを組み、共にハウスダンスを踊っていた。今は彼自身も一人で舞台に立てるほどの実力を持っており、親友でありながらライバルのような関係でもあった。

 ラターリオと出会ったことが抱えきれなくて、今こうしてエデュートに話をし、ラターリオの動画を鑑賞させている。


「結構有名だってことは知ってたけど、ちゃんと曲は聞いたことがなかったなぁ」

「マジかよ。ラジオでも頻繁に流れてたろ?」

「俺、自分の好きな曲しか聞かないからさぁ。この人、ロック歌う?」

「一部の曲にはロック調のものもあったな。オルタナティブに近い感じの……」


 ラターリオは主にアコースティックギターを持って歌い上げていた。中には使用しない曲もあったが、代表曲には軒並みアコースティックギターが使われている。

 曲はほぼ全て彼が作っている。歌手と言っているが、更に細かく分類すればシンガーソングライターだ。


「結構昔の曲だよね? 今その人いくつだっけ?」

「えっと、43って聞いた。まぁでも、全然そう見えないくらい若かったけどな……」


 中性的で耽美な雰囲気はそのままに、気怠げな様子も感じられる風貌だった。デビュー当時同様に細い体で、何も食べていないのではないかと疑ってしまうほど。見た目は30代後半と言ってもおかしくはなかった。

 ロッシャとラターリオの年齢差は22歳。親子ほどの差だ。でも何故か、それくらい離れているという実感がなかった。それほどまでに彼が親しみやすく、若々しく見えたのだろう。


「でもロッシャと見た目のタイプが違うから、この人の歌を歌うのって合うのかな?」

「……まぁ、な」


 エデュートの言うとおりだ。ロッシャはラターリオと異なる。ロッシャは踊るために筋力トレーニングを欠かさず、細身ながら肉質はいい方だ。金の波打った髪を持つラターリオに対し、こちらは黒の癖毛。全く見た目が似ていない。

 そんな自分がラターリオの歌を歌っていいものなのか、少し不安になる。

 だが、


「それでも、ラターリオは俺を光だと言った」

「光?」

「決して諦めない光。だから舞台に立たせてやりたいんだと……。まだ彼の誘いには半信半疑なところはあるが、今の俺には何も残っていないからこそ、ラターリオの手を取りたい」


 何度リハビリをしても足が上がらない。走ることもできない。ずっとこのままかもしれないと医師に言われた。悲観した。苦しかった。踊れない未来が来るなんて思ってもみなかったから。

 でも足掻いた。踊れないからと言って人生に絶望したわけではない。死んでしまいたいなんて思ってもいない。もしかしたら再起の道がある筈だと。

 求めていた道とは異なったが、それでもラターリオが提示してくれた。今はその道を歩むしかない。


「うん、ロッシャがそう思うのなら、俺も応援する」

「エデュート……」

「でも歌手の道はとても難関だよ。大体の人は歌手や俳優として頑張ろうとしているじゃん? ライバルは多いよ」


 あぁ確かにそうだ。クレアレーネに集まってくるのは音楽か演技の道を歩みたい人が大半。戦後間もない頃、小劇場で舞台公演を行ったのがこの街の走りだった。故に、音楽と演劇には古い歴史を持つ。

 ロッシャ同様、これから歌手を志してくる者がたくさんいるだろう。踊り一辺倒だった自身にとっては苦難の道だ。

 いや、それでもいい。

 ここに住み、生きるということはそういうことだから。


「覚悟してる」

「それならよかった。事故の時よりずっと眩しい顔をしてるしね」


 エデュートは安堵したように息を吐き、笑った。


「ロッシャが事故に遭って、踊れないって言われた時、俺もめちゃくちゃショックだったよ。もう一緒に舞台に上がれない、一緒に照明を浴びながら踊ることができない。何より、ロッシャが踊れないということが悲しくて悔しくて……。それからのロッシャはほぼ自堕落な生活をしていたから、もうこの街からいなくなるんじゃないかなって思ったよ」

「……」

「ラターリオの話は俺も正直、半信半疑なところはあるけど、でもロッシャが頑張るって言うなら応援する。何かあったらすぐ頼ってよ」


 持ったままだったスマートフォンをロッシャに返しながら、エデュートは言う。心の底からこちらを応援しているのだということが伝わる。

 あぁ彼はそうだ。いつも背中を押してくれる。いつも優しい言葉を並べてくれる。事故に遭った時、誰よりも気にかけてくれたのは彼だった。入院中は頻繁に見舞いに来てくれて、ロッシャの好物を届けてくれた。

 今もそう。その優しさは響く。


「……ありがとな、エデュート」


 まだこの先どうなるか分からないが、頑張ろうという気持ちが高まる。

 彼の言う通り、眩しい顔をしているのだろう。先行きが見えないが、道は開かれているのだから。


「この後、その人のところに行く?」

「いや、今日は病院でリハビリだ。ラターリオのところには明後日行く」

「そっか。……今はまだ難しいかもしれないけど、落ち着いた頃になったら俺の公演、見に来てよ」

「あぁ、また日程を教えてくれ」


 今はまだ、踊りと向き合うことにはできない。未練が残ったままだから。でもいつか、近い内に向き合えることができるだろう。そう信じたかった。

 そう、向き合うために進むのだ。踊りではない、別の道を。

 ロッシャは改めて決意した。と同時に、暖かな春風が背中を押しているように感じられた。

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