第2話
欧州の中央部に位置するルシェンテ共和国。その東部にある都市、クレアレーネは《芸術の街》と言われていた。音楽、美術、文学といったありとあらゆる芸術が網羅し、著名な芸術家も、一旗揚げたい見習いもこぞってこの街に移住し、自らの腕を伸ばしている。
中でも目玉となっているのが、劇場街だ。
大小問わない様々な劇場やクラブハウスが建ち並んだ通りがあり、一流のミュージシャンも駆け出しの俳優もみんなここで自らの腕を披露する。人気の公演の日には国のあちこちから人が訪れ、すぐに席を埋め尽くす。夜になれば通りは美しくライトアップされ、眠らない街になった。
今となってはテレビやインターネットでクレアレーネで活躍している人々を見ることができるが、やはりその目で見てみたいと思っている人は多く、年中クレアレーネはたくさんの人で溢れかえっている。
ロッシャもまた、劇場街のクラブハウスや小さなホールで踊っていたダンサーだった。初めて舞台に上がったのは17歳。当時は複数のダンサー達と集団で踊っていたが、最近になって一人で踊っても客席を埋めることができるようになった。ロッシャの踊りに惚れ込んだ人が増えたという証だ。
駆け出しのダンサーだったロッシャも、少しずつ一流に近づきつつあった。
それなのに、今はその道が途絶えた。
「なんで、ラターリオがこんなところにいるんだよ……」
「おいおいロッシャ、こんなところはねえだろ」
何度も目を瞬かせているロッシャに、マスターはまた可笑しく笑いながら反論する。
そう言えばマスターはラターリオの名前を知っていた。別段驚いている様子もないから、彼がここにいるのは珍しくないということか?
そもそも他の客も、彼がいるというのに驚く様子もない。
「こいつはこの店の常連だよ」
「は……?」
「人気歌手は高級ホテルの最上階にあるようなバーにばかり通うとは限らねえだろ?」
別にそんなことは思っていないが……と思いつつも、ロッシャはまだ半信半疑の表情でラターリオを見る。彼は椅子に腰掛けたまま穏やかに微笑んでいた。
ラターリオのことは知っている。だが、今の姿を知っているわけではなかった。ロッシャの脳裏にある姿は、20年前の時のみ。
「僕のことを知っているなんて光栄だね。今いくつだい?」
「21。母親があんたのファンで、俺もあんたの曲を何度も聞いていたよ……。まぁ、その頃はあんた、引退してたけどよ」
「そうだね。僕が引退したのはちょうど20年前だね」
ラターリオは25年前、18歳でデビューをした歌手だった。中性的な容姿と耽美な歌声はあっという間に人々の心を掴み、人気を勝ち取るのに時間はかからなかった。
アコースティックギターを片手に、主に恋の歌を歌い上げた。叶わない恋、遠距離、別れ……主に幸せと言い難いものばかりだったが、それが余計に聞き手を魅了した。同年代の男女は勿論、その親世代も聞くようになり、あっという間に国中へと広まったのだ。
だが、デビューから5年後に突如ラターリオは引退。舞台に立たなくなり、テレビに出ることもなくなった。結婚した? 女性問題? 事務所とのトラブル? 様々な憶測が飛んだが、結局何も分かることなく、彼は伝説の存在として記憶と記録に残り続けることになった。
「ネットでは死亡説なんて出てたな」
「大女優を妊娠させて国外逃亡した、なんてこともあったね」
マスターと楽しそうに会話をするラターリオだが、ロッシャは頭がぐるぐると回っていて、情報の整理が上手にできなかった。
目の前に、引退した筈のラターリオがいる。そんな彼から歌手になれと、自分の歌を歌えと言われている。
酔いが回った? おかしな夢を見ている? 余りにも現実的ではない展開に眩暈がした。
「……なんで、俺にあんたの歌を歌えと?」
それはつまり、彼の歌をカバーしろということか。もう既に複数の歌手がやっていることではないか。彼の歌は演奏しやすい、歌いやすいと専らの評判だ。
「実は未発表の曲があってね。歌う機会がなくなったから、君に提供しようと思って」
知らぬ間に注文していたジャックダニエルズを手にそう説明した。しかし、あぁそうかと納得できる状況ではない。
「あんたは歌わないのか? ラターリオが復帰したってなったら世間が黙っちゃいねえだろ」
「……僕はもう、歌わないって決めたんだ」
一口飲んだ後、彼はそう答える。その表情は深く沈み出し、穏やかな色は消え失せ始めている。そして同時に、固い決意を感じた。
歌わないと決めた。
それは彼の本心なのだと。
ロッシャはその姿を見、胸がざわついた。どうして歌わないと決めたのか、その理由を聞くのが憚られる。聞いてはいけないような。彼の心を抉ってしまいそうになるような。
「でも、どうして俺を? 他の有名な歌手に頼んだほうがいいんじゃ……」
「僕は君がいいと思ったよ。君には光があるからね」
「光?」
今ひとつ言葉の意味が分からない。言葉の使い回しも、歌手ならではの特徴なのか?
「君は踊れなくなって悲しんでいるようだけど、それでも絶望はしていない。諦めたくないという強い光が見えた。だから僕は、そんな君に全てを託したいと思ってね」
「……」
「未来を生きる若者が、こんなことで挫けてはいけない。舞台人は舞台から降りてはいけない。踊れないなら歌えばいい。もし歌えないなら何か楽器を弾けばいい。様々な形で舞台に上がれるよ。君の輝ける場所を、僕が提供しよう」
一つ一つの言葉が、ロッシャの中に入っていく。気休めの軽々しい言葉ではなかった。全てが重く、熱く、心の中に響き渡ってくる。
本気だ。彼は本気の思いで言葉を並べている。決して酩酊した故の戯言なんかではなかった。
ロッシャが光? 何を言うか。今目の前で力説してくれたラターリオこそが光なのではないか。
「で、でも俺、真面目に歌ったことなんてねえぞ」
「心配いらねえよ、ロッシャ」
それまで黙って聞いていたマスターが、ビールを並々と注いでロッシャに渡す。
「ラターリオは確かに引退したが、それ以降はボイストレーナーとして新米歌手の育成にあたっていたんだ」
「え、そうなのか? なんで知ってるんだよ」
「教えてくれたからな。ここの常連だから色んな話をするんだよ」
そうか。そういえば常連だったな。だから他の客も平然としているのか。ともすれば、何も知らないのは、まだ数回程度しかここへ来ていなかったロッシャのみ。
「まぁ、ボイストレーナーも10年前にやめたので、今は印税でのんびり暮らしているだけの世捨て人だよ」
自嘲気味に笑うラターリオ。マスターが彼を世捨て人と言っていたが、それはそういう意味だったのかとロッシャは理解する。
どうして、国中を魅了し続けた男が突如姿を消し、世捨て人のごとく生活をしているのか。そして、そんな彼がどうしてロッシャに光を見出したのか。
分からない。分からないことだらけだ。何かの罠ではないかと疑いたくなったが。
舞台に上がりたい。
どんな形でもいいからあの世界に帰りたい。スポットライトの下で、小さくも大きな世界の上で息をしたい。本当は踊りたい。けれど踊れないなら歌えばいい。歌手として成功するかなんて何も考えていないが、今はただ、舞台に立ちたいという気持ちが高まっていく。
沈みそうな船でもいい。藁でもいい。掴むんだ。
「……分かった。俺、あんたの歌を歌うよ」
「本当かい? ありがとう。君ならきっと素晴らしい歌を歌うよ」
「だからみっちり俺に歌を教えてくれよな、ラターリオ」
ビールの入ったグラスを手に、それをラターリオに向けた。
「俺はロッシャ・イレーゼ。……よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく、ロッシャ」
ラターリオもジャックダニエルズの入ったグラスを持った。そしてかちんとロッシャのグラスとぶつけ合った。
ロッシャが足を負傷した4ヶ月半後、春が謳歌する時期のことである。
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