第138話
バスが止まっている。深夜のサービスエリアだ。
太陽は、東京に向かっていた。あの時と同じように、高速バスで。
思い出をなぞるだけではなく、最近、バイトをやめたというのもあった。スーパーが品出しのアルバイトを廃止することを決定し、太陽はレジに転向するかを聞かれた。悩んだものの、太陽は断った。隣に並ぶと、沙代里が居づらいだろうというのが一番の理由だった。
今は、百合草の好意で将棋道場を手伝わせてもらっている。そちらは週三日なので、それ以外のバイトも見つけなければならない。
初めて全国大会に行ったのは、小学生の時だった。金本と共に、バスに乗って東京まで行った。途中の景色は見えなかったが、バスの中の光景はよく覚えている。
旅をするだけで、楽しかった。
県代表になっても、全国大会に行くのが大変だった。子供だったからだ。太陽は今、一人で旅をしている。大人になっていくという実感の中にいる。
バスが、動き出した。
「実は俺も初めてなんだ」
東京に来た太陽は、辻村と合流した。そして二人で、二十分ほど私鉄に揺られた。
「こんなところもあるんですね……」
東京はビルばかりだと思っていたので、民家が立ち並ぶ様子に太陽は驚いていた。ただ、道は圧倒的に狭く、「そこらへんが東京なんだな」と思った。
「ここだな」
二回建てのアパート。その1階の3号室。「金本」と書かれた表札がかかっていた。
インターホンを鳴らすと、扉が開いて金本が顔を出した。
「いやあ、よく来たね。名人までこんなところに申し訳ない」
手招きされて、二人は部屋の中に入っていった。畳の敷かれた小さな部屋に、ポツンと丸テーブルが置かれていた。その上には、平べったい将棋盤があった。
「綺麗にしてありますね」
「物を買う金がなくてね、ははは」
小さなテーブルを、三人が囲んで座った。辻村の眼は、自然と盤面に注がれる。
「この前の、名人戦の」
「新聞を見ながら並べていたところで」
「いい将棋だった」
「だねえ」
二人がニコニコと将棋について語るのを、太陽はじっと聞いていた。しばらくすると、金本が立ち上がった。
「お茶も出さなくてごめんね。柄にもなくね、紅茶が好きで。二人ともいいかな」
「はい」
「もちろんいいですよ」
三人は、温かく香りのいい紅茶を飲むことになった。
「僕……金本先生にお礼が言いたくて」
「なんだい改まって」
「僕が強くなれたのは、先生のおかげだから。大会の付き添いまでしてもらって」
「俺しか、そうしてやれないと思ったから」
「あの……でも、プロにはならないって決めました」
「そうか。太陽がそう思うなら、そうしたらいい」
「明日、三東先生に会って、はっきり伝えます」
「三東君か……よろしく伝えといてくれよ」
「先生は会わないんですか」
「……会わない方がいいだろう」
金本は窓の外を見つめた。太陽もそちらを向いたが、隣の家の壁が見えた。
「もう、大丈夫とは思いますよ」
「聞いたかどうかわからんが……一度、名古屋で偶然会って叱られたんだ。俺はね、月子にとっても三東君にとっても、忘れたい人間なんだろうと思う。太陽には俺のせいで、嫌な思いもさせてないかと心配だよ」
「全然そんなことないです。でも、無理に会う必要もないと思います」
太陽は、カップの中に目を落とした。紅茶の茶色い世界は、きちんと底が見えた。
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