畑山先生
第131話
「ただいま」
一応言ってみたが、返事はなかった。それだけでは、在宅かどうかわからない。家の中を見て回ったが、母親はどこにもいなかった。
テーブルの上に、吸い殻の入った灰皿が出ていた。その横には、見たことのない銘柄のタバコの箱。
書類に保護者の印が必要なので、太陽は久々にわが家に戻ってきた。そこはすでに、あまりなじみのない場所に思えた。
太陽は東京の土産と書類をテーブルの上に置くと、家を出ていった。
「ねえ、纐纈君、大丈夫?」
「え? ああ、うん」
太陽は、生ぬるい返事をした。
公園のベンチ。太陽と沙代里は、ジュースを飲んでいた。
太陽の頭の中には、ついさきほどまで見ていた絵画が広がっていた。沙代里に誘われて、美術館に行くことになった。太陽はこれまで芸術にかかわる施設に行ったことがなくて、どのように見ればいいのだろう、と行く前は不安だった。
だが、行ってみると何の問題もなかった。絵画はただそこにあるだけで、自らを太陽に見せつけてきたのである。
生まれてから全く感じたことのない焦燥を、太陽は感じた。太陽にとって絵画とは、美術の教科書に載っている大げさな色の集まりだった。だが、実際に目の当たりにしてみると、まるで違った。
芸術作品の凄さに初めて触れた太陽は、恥ずかしさも感じていた。これまでの人生で、まったくそんなものは知らずに過ごしてきて、知ろうともしなかったのだ。ただ、将棋において似たものを感じたことがあるような気もした。
「楽しんでくれるか心配だったけど、結構一所懸命見ててよかった」
「うん、楽しかった。世の中には、こういう楽しみ方もあるんだね」
風が吹いて、沙代里の髪が浮き上がった。耳から首元までが見えたとき、太陽は思った。絵描きは、こういう瞬間に絵を描きたいと思うのだろうか、と。
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