第45話
「名人得意の横歩取りですね」
ステージ上で、プロの対局が始まった。先手の辻村名人は、紫色の和服を着ていた。首を柔らかく振りながら考え、長い前髪が揺れていた。
太陽は、その姿に見入っていた。初めて見るプロの対局、というだけではない。その人のまとう雰囲気が、あまりにも輝いていたからだ。
A級に上がり、名人に挑戦し、そして獲得した。百合草よりも、三段階進んだ人間。その輝きに、太陽はとにかく驚いていた。
名人の相手である琴田八段は、ベテランの域に入りつつある強豪だった。タイトル経験もあり、毎年コンスタントに良い成績を収めている。こちらも、とても和服が似合っていた。
犬沢が目指していたのはこういう世界なのだ、と太陽は思った。二人の表情はあまりにも真剣で、時折怖くもあった。盤上にすべてをささげ、それでいてその有様を観衆に見せつける。
プロ棋士の世界。
ついさっきまで同じ場所にいたにもかかわらず、太陽には全く別の世界の出来事に思えた。
「では、ここで次の一手にしましょうか」
「辻村名人、次の一手を封じてください」
公開対局では、次の一手クイズというものがよく行われる。途中でいったん中断し、次にどんな手を指すか、観客が当てるのである。次の一手を書いた紙は回収され、後ほど手が当たった人の中から抽選し、プレゼントがもらえる。
太陽は、あまり最新の横歩取りに詳しくない。そのうえ、珍しい展開に進んでいるとのことだった。
自力で読むよりほかなかった。
時間は限られている。頂点に立つ人間と、同じ手を選べるのか。
太陽は必死に読んで、そして、決めた。
彼の書いた手は、「9六歩」端の歩を突く手である。すでに局面は忙しくなり始めている。しかし、将来の桂打ちを防ぎ、相手の飛車も少し狭くする手。太陽は、それが最善の手だと思った。
対局が再開される。
「封じ手は、9六歩です」
会場が、どよめいた。太陽にはその理由がわからなかった。
「これは驚いたね、一秒も考えなかったよ」
「正解者がいないかもしれませんね」
琴田八段も、頭を下げて考え始めた。予想外の手だったのだ。
「いやあ、すごいね」
帰り道。百合草の運転する車の後ろで、太陽は大きな箱を抱えていた。
「これ、本当にいいんでしょうか」
「いいも何も、当てたんだから」
次の一手クイズの正解者は、たったの四人だった。そして太陽は、対局者のサイン入り二寸盤が当たったのである。
子供大会の優勝者が当たったということで、会場は大いに盛り上がった。そして太陽は、勝利した名人から直接盤を受け取った。
「あんなに当てた人が少ないとは思いませんでした」
「むしろいたのが驚きだ。あれは、名人の手だったね」
名人の手。たった一手だけでも、その手を当てられた。
「でも……」
「ん?」
「名人を越えたから、名人になれたんですよね、辻村名人は」
「まあ、言われてみればそうか」
「だったら、次の名人は、名人を越える手を指すかもしれないんですね」
「纐纈君も、そういうこと考えるようになったんだね」
太陽は、ただ、興味がわいてきたのだ。一番上には、どんな景色があるのか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます