第9話
「纐纈君」
休み時間、栗原がトイレに行った次の瞬間、太陽の前に鈴里が立っていた。
太陽は唇を尖らせて、顎を引いた。
「なに」
「将棋、するんだね」
きたきた、と太陽は思った。覚悟はしていたのだ。
「するよ、ちょっとだけど」
「お父さんがね、驚いてた。楽しみな子だって言ってたよ」
「そう」
「将棋教室とか行かないの? お父さんも教えてるよ」
「……いまはいい」
太陽は、おなかの中で湧き立つような何かを押し込めなければならないと思った。鈴里は、無邪気に、本気で誘っているのだ。習い事にお金を出してもらえない可能性なんて、考えてもいないに違いない。
「そっか」
「百合草さんは将棋しないの?」
「うん。将棋しているときのお父さんは、ちょっと怖いし」
家にプロ棋士がいるなんて、太陽にとってこんなにうらやましいことはない。けれども、鈴里は将棋に興味がなさそうだった。もったいない、と太陽は思った。
ただ、将棋をしているときの金本は怖くないので、それなら自分の方が恵まれているのでは、とも感じた。
「いつか、また教えてもらうかも。でも、ちゃんと他に先生がいるから」
鈴里は、少し控えめに笑った。太陽は、目をそらした。
大会が近づいている。
今度は、参加料がかからないことも確認済みである。会場に行きさえすればいい。
ただ、あの日以来、けっきょく太陽は対局時計に触れていない。
「対局時計? ああ、道場では使ったっけなあ」
金本は、当然持っていなかった。
「時間切れ、こわいな」
「20秒で指す。それしかない」
「20秒で?」
「30秒あると思うから、残り数秒で焦っちゃう。10秒考える。10秒で決める。10秒かからずに指す」
そんな簡単にできるだろうか、と太陽は思ったが、時間切れ負けするよりは早く指してしまう方がいいだろう。
「はい、先生」
太陽は、金本先生を信用していた。「20秒で指す」と心の中で呪文のように繰り返した。
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