第8話
「太陽、自転車もらってきてやったぞ」
父親の言葉に、しばらく太陽は反応できなかった。
「え、何の?」
「なんのってなんだ。自転車だよ、またいで乗るの」
おもちゃか何かでは、と思ったものの違うようだった。
父親の促されるままに、太陽は外に出た。社員寮の入り口に、確かに一台、自転車が止められていた。
「えー」
それは、確かに自転車の形をしていた。しかし車体とハンドル、ペダルそれぞれ色が違い、素材も違うように見えた。カゴはつぶれて、帽子ぐらいしか入りそうになかった。全体的に、汚かった。
「知り合いが作ってくれたんだぞ。すごいだろ」
「う、うん」
お金のない父親に自転車が買えないのは、わかっていた。だから次第に、そんな中どんなものであれ用意してくれたことが太陽はうれしくなってきた。
「乗れるよな?」
「大丈夫」
纐纈は、一つ頷くと手を振りながら部屋へと戻っていった。後は好きに遊べ、という意味だと太陽は理解した。
今にもバラバラになってしまうのではないかという恐怖。どこかが軋む音が常に聞こえた。ただ、風を割く音もしていた。気持ちが良かった。
太陽は自転車に乗って、いつもより遠くまでやってきた。川沿いの道を走る。遠くから眺めるだけだった背の高いマンションが、目の前にあった。入るのがためらわれる、綺麗な外観のスーパーがあった。
河川敷でフリスビーをしている人が見えた。大きな橋。小さな工場。校区外には、知らないものがいっぱいあった。
「あっ」
見張らぬ土地の、道路標識を見て太陽は気が付いた。自転車で進めば、電車に乗らなくても、ずっと歩かなくとも、将棋大会の会場まで行ける。
まるで世界が変わって見えた。
ただ、あまりにも新しいものだらけの景色に、太陽は少しだけ怖くなった。迷子になったら、困る。酔っぱらった父さん。仕事に出かけたばかりの金本。迎えには来てほしくない母さんとその新しい結婚相手。頭の中をぐるぐると回る人々。
くるっと回り、太陽は来た道を引き返し始めた。
予想より早く、見知った街に戻ってきた。それほど遠くには行っていなかったのだ。
ほっとしているときに、その人たちが目に入った。向かいから歩いてくる、男性と少女。少女の手にはリードが握られ、白い犬がつながれていた。ぎしぎしと自転車のきしむ音が頭の中に響いた。
太陽は川の方に顔を向けた。堤防しか見えなかった。
「纐纈君?」
百合草鈴里の声に、太陽は顎をほんの少しだけ動かした。
「纐纈? あっ」
百合草募の声が、背後へと消えていく。
どんなに力を入れて漕いでも、おんぼろ自転車はなかなか前に進んでくれなかった。太陽は、なんでそんなに急いでいるのかはっきりとわからないままに、前だけを向いて進み続けた。
数分後、振り返っても二人の姿は見えなかった。バランスを崩して、倒れてしまった。自転車の籠がぺしゃんこになって、もう何も入らない形になってしまった。
自転車を立て、太陽は歩き始めた。
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