第10話 三弦琵琶の音色も沙に還らん
恐怖と驚きのあまり、カナヤは声も出なかった。さもありなん、目の前には身の丈4ルシュもあろうかという
それでもなんとか
したたか腰を打ち、痛みで動きが鈍った。
「
泣き叫ぶ少女の声で、カナヤはもう
赤い眼が、ギラリと光る。
「ひいいぃ!」
生臭い息が顔にかかる。
恐ろしさで目を瞑る前に、一瞬だけ脳裏に飛び込んできた少女の顔は、カナヤの危機に蒼白になっていた。目を見開き、花弁のような唇を震わせ、狼狽と絶望に凍り付いている。
ほろりほろりと、しずくが頬を伝う。
(笑っている顔の方が、絶対可愛いのに――!)
顔前に伸びてきた
ヒリリと走った痛みに筋肉が縮み上がる。
怖々と視線を上げれば、爪先に付着した赤い液体を眺め、
腕力に自信も無く、大切な
腐臭を顔に浴びせかけられ、意識が遠のく。
「
聞こえる悲痛な叫び声。
少女の声に、手放しかけた正気を取り戻す。
低い音が床を這った。
それは
摩訶不思議な音が明け方の冷えた空気を振動させる。
聴いた
もしその場に居合わせたなら、
それは重音の作り出す、目に見えぬ
強い風に煽られて沙が動いていくように、音の振動が
これこそ妖魔払いの、魔除けの音。
「エアの足音」と呼ばれる秘中の
音によって大気に刻まれた
よいか。アルイーン神話の最高神、大神エアの足音を現わすと云われるこの音は、限られた人間にしか奏でることは出来ない。ひと握りの楽師たちの間で、門外不出の秘密としてひそかに伝承されてきた
それゆえその技を使える者の数は少なく、また次の世代へと継承する者の数も減り続け、
それほど稀有な音ゆえ、知恵のない
カナヤが奏でた音は
たまらぬと、闇の眷属は苦悶の表情と共に異形の身をよじる。ヨロヨロと4ルシュもある長身を起こし、大神の威勢から逃れようと後退りを始めた。
これを見た
二度三度、妖魔退散と強い思いではじけば、弦は雄々しく大気を震わせる。エア神の怒りに何度も踏みつけられた
そのまま振り返ることなく、黒い影は床を転がるように建物から去って行った。
***
荒い呼吸で
そこには女主人――今や
「真珠、僕の
「
カナヤの呼びかけにも、答えはない。青い光に満たされた奥の間は、不気味なほど静かであった。気配というものが感じられないのである。
脅威は去り、崩れ落ちた
それは言いようもない不安。師匠カルからの教え、くわえて旅空の下で培った経験や学んだ全てが、なにかを訴えようとしている。
(「エアの足音」は魔除けの音。妖魔を退散させるもの。妖魔……、
カナヤは己の不安が正解でないことを祈った。
されど
この黄色味がかったみすぼらしい小さな玉こそ「
カナヤの口から嗚咽のようなものが漏れた。
大神エアは
「そんな……。僕は君を守りたくて『エアの足音』を奏でたというのに」
彼は力なくその場に膝を突いたのであった。
思うに、魔力を奪われた精霊は
どんなに高価で美しい真珠でも手入れを怠ればすぐに輝きを失う、怠らずとも年月が輝きを奪っていくということは、ご存じか?
――が、なにゆえこの精霊が魔力を持ち得たのかだとか、なにを糧に生命を長らえていたのかなど、誰も知らぬこと。
人間である
悲しいかな、
ただ
「そんなのないよ、君は僕と一緒に旅をするんじゃなかったのかい。僕の真珠よ」
「おお、
カナヤの頬に、一条の泪が流れた。
***
東の空が淡紅色に染まる頃。
女主人と小さな侍女の埋葬を終えた
愛らしい鈴の音のような声で話しかけられたのは、遠い昔のような気さえする。あの時と同じようにカナヤは
だたし今朝は陽気な調子の戯れ歌ではなく、死者を弔う葬送の歌。楽園へ旅立つものたちへのはなむけの歌であった。
美しくも哀愁に満ちた
すると薄明に染まった沙丘が、追奏するかのようにかたちを変え始める。風に乗った沙粒が緩やかに移動していく様を、彼は弔歌を歌いながら見つめていた。
うち捨てられた
滅亡から、すでに150年の余。かろうじて残る繁栄の跡も、数年もすれば跡形もなく沙に帰すだろう。そして都市の名前さえも、ひとの記憶から消えていく。
奥津城の姫君も、最後まで彼女に付き従った精霊の思いも――。
彼とて旅空の下、果てれば沙に埋もれるのだ。
夜明けの風が、カナヤの髪を揺らす。
陽が昇り始めた。反対の空には薄れ行く月。
その時、
「
想いは また
嘆けとて 心情を聴くは風ばかり
我を慰めるのは 乾いた三弦の音色だけ 」
吟遊詩人カナヤはひとり廃墟を後にした。
~~~~~
1ルシュ=約50センチ
テペラウの月 月のしずく ~吟遊詩人カナヤが月の夜に出会った不思議な出来事~ 澳 加純 @Leslie24M
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