金魚
草森ゆき
Goldfish
クラス内でいじめが発覚した次の日、職員会議で黙認が決まった。黙認とは私が感じた圧力に対するなけなしの矜持だったが、それを決定した校長や教頭、学年主任などは、まったく意に介さない様子で会議室を出る頃には飲み会の話をしていた。私はまだ三十代で、彼らからすれば赤子同然の無力さだった。かといって決定付けられた少年の悲運を打ち破ろうという気概も持ってはいなかった。
そんなのよくある話だよ。話を聞いてくれた先輩はそう、生ビールを飲み下した後に呟いた。無言の私を横目に、諭すような台詞が続いた。
「もう冬なんだし、あと半年もしないでクラス替えじゃん。そうしたら、いじめグループの主犯を別のクラスにすればいいんだし、標的にされやすい子って何人もいるんだから、その子たちで徒党を組めるように調整するんじゃない? するんじゃない? って言ったけど、するんだよ。問題児は離れさせて、あんたみたいなのじゃなく主任とかを担任にすれば、ちょっとは大人しくなるから」
そういうものらしかった。曖昧に頷き、そのうち慣れるよという励ましにお礼を伝え、琥珀色の液体を飲み込んだ。
該当の児童が黄土色の液体を吐いたのは二月の半ばだった。給食時間中いじめのグループの一人が児童の横腹を殴った、らしい。目を離した隙の出来事だった。
児童を中心にぐるりと円を描く様は異様だった。食欲をそそるカレーのスパイスに混じり、胃が悪くなりそうな饐えた匂いが漂っている。誰も手を差し伸べなかった。咳き込んで突っ伏す児童の真下には黄色いおかゆのような吐瀉物が広がっていた。
子供の作る低い壁を掻き分け、蹲る児童を抱え上げた。彼は酷く軽かった。一先ず保健室に連れて行き、吐き出されたものを仕方なく処理して、何があったのかと詳しい経緯を聞いた。当然誰も口を割らず、少しからかうつもりだったと俯き加減に話されて、私は一瞬で真実を見失った。子供は我々が思っているよりも物事を、自分たちの評価基準をわかっている。無意識だったとしても。
一応報告はしたが、大事にしなくても良いと主任は言った。もう二月だ、とも付け加えられた。
保健室に運んだ彼は早退したらしく、彼の姉が連れて帰ったとも聞いた。姉は中学生で、去年までは大人しい弟を庇うようにしていたと主任が話した。城壁のなくなった本丸が落ちる速度は早い。社会科が得意らしい口ぶりが若干気に障ったが、顔に出さないよう口を結んだ。
もう二月。あと一ヶ月もすれば、担任からも外れる。被害児童もいじめを訴えに来たりはしない。何をされたのか問い掛けても何も言わない。暗い表情で俯きながら、大丈夫です、とどこか大人びたように呟くだけだ。そのあと、中庭に面した窓辺をふっと見る。蛇行しつつ緩やかに伸びる砂利道の左右に、飼育小屋や池があって、切り離されたように穏やかな様子でそこにある。彼はそれをぼうっと見つめ、焦がれるような息を吐く。
この子も恐らく、あと一ヶ月だと思っている。感じ取れば尚更手詰まりになった。私は結局のところ、決定的な、たとえばこの暗い顔をする少年が酷い怪我をして入院となるような、動かざるを得なくなる事態が起きない限り、当たり障りのない凡庸な担任としてお飾りの担当机に座っているしかなかった。
生き物の世話を請け負うことはすなわち、健やかな精神を育むことに直結する。そのような言葉を残した創設者の意向が現代でも続いており、中庭の飼育小屋にいる兎や鶏などの世話は該当の学年が交代で行っている。その近くにある池は職員が時折餌を投げ込むが、藻やプランクトンを食べるため頻繁でなくとも良いと言われていた。
三月の頭だ。卒業式の練習や年度末の調整で慌しく、そんな中で池に餌をやってくれと押し付けられて渋々外へ出た。
冬は過ぎたが肌寒く、外気に触れると身震いした。上着を羽織ってくれば良かったと思いながら池に近付く。付近まで来たところで、悲鳴を上げそうになった。水面に浮かんでいるのは私のクラスの、被害児童だった。
彼は空を仰いでいた。いつもの暗い目には水色が映り込み、濡れた髪が頬や首筋に張り付いて、それ以外の部分は濁った水の中でゆれていた。池の淵に膝をついた。助け出そうとしたわけではなく、腰が抜けたからだった。それを見透かしたような水色の瞳がすばやくこちらを向いた。
「ど、どうして、そんなところに……」
やっと搾り出した声は掠れていた。私は恐れていた。もう三月頭だというのに、決定的ないじめが起きてしまったのではないかと、恐ろしくなった。
彼はゆっくりと起き上がった。池自体は浅く、大人の腰から太腿ほどの水位だ。彼は下腹部、臍の上あたりまでは浸かっていたが、そのままざぶざぶと水を割り、自分で陸に上がってきた。
なにかあったの。誰かに突き落とされたの。怪我はないの、病院に行かなくても、平気な程度のいじめなの。
私が聞けないでいる間に、彼は濡れた服を絞っていた。無言のままどこかへいこうとするので思わず引き止めると振り向いたが、奇妙だった。彼はずっと口を閉ざしているし、見たところ怪我もないようだったが、まだ冷たい池の中に浸かっていたにしては、妙に落ち着き払っていた。
ねえ、どうして池の中に。問い掛ける前、彼が急に顔をゆがめた。その場に蹲るので、慌てて駆け寄りやっぱり怪我をしているのか突き落とされたのかと、確認するために服に手をかけた。
その瞬間に彼は咳き込んだ。一度目の咳で、深緑色の藻と液体が地面にこぼれ、私は反射で背中をさすった。口を両手で塞ぐ動作に、池の水は汚いから吐くほうがいいと声をかけて、首は横に揺れたがうぐ、と苦しそうに喘いだあと急に背を折り曲げた。
びちゃ、と滑った音がした。緑の水が彼の下に吐き出される。汚さについ目を反らした。吐瀉物を見せられるのは二度目だ、気持ちのいいものではないと、内心溜息を吐きたくなった瞬間視界の端で閃いた。
胃液と池の水の上で、金魚が上下に跳ねていた。
唖然とする私に構わない様子で、彼は汚物ごと金魚を両手で掬った。そのまま再び飲み込もうとするのでとめれば、ふたつの瞳がじろりと私を見た。普段の大人しさや弱々しさの消え去った瞳の強さに、びくりと心臓が震えた。
「……お姉ちゃんが、もって帰ってきて欲しいって言ったんです」
彼はそう、独り言のように呟いた。掌の中で金魚は必死に跳ねている。液体の中に戻りたいと、跳ねている。
金魚は私の目の前で再び飲み込まれた。両方の掌を口元に押し付けて、ふっと顔を上向かせ、まだ突っ張っていない喉仏の裏側を金魚が泳ぎはじめた頃合に、ごくりと嚥下の音が響いた。
彼は息を吐き、頭を下げた。口元に手を当てながらふらふらと歩いていく後ろ姿を、私は呆然と見つめていた。
卒業式を迎え、新学期になった。私は前年度とは違う学年の担任となり、新しい児童達は馴染みやすくてありがたかった。特に問題もなく一年を終え、また違うクラスの担当になり、一年が過ぎ、違う学校に異動となって、更に月日を重ねて行った。
十年、二十年が経った。色々な児童と出会って、これからもまだ出会う。いじめの現場に口を出せる立場にもなれた。解決の方向性を提示するようになったのは、恐ろしかったからだ。
酸の海で泳ぐ金魚をずっと夢に見る。
あの子はどんな大人になっただろうか。
考え始めれば饐えた匂いと閃く鱗が思い出されて、知らずに謝罪が漏れている。
金魚 草森ゆき @kusakuitai
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