山の中の老婆
「あ……」
老婆と目を合わせたエルマは震えることも出来ず、ただひたすらに凍り付いた。これほどの山奥で老婆と出会う可能性は限りなく低い。それもこの辺りは岩場であり、たとえ足腰が丈夫であっても、老婆が一人で訪れることなど有り得ないのだ。
有り得るとすれば、この老婆が
しかし、
「何をしているんだい。そこからおどき」
「え? あ……」
「いいから早くしな。蹴り飛ばしちまうよ?」
「……」
驚かすでもなく、襲うでもなく、ただ邪魔だと言い放った老婆に、エルマは戸惑いを見せる。だが、老婆が本気の形相で彼女に足を向けたため、エルマはよろけながらも先ほどまで寝転がっていた大岩へと退散した。
そんなエルマを気にする素振りも見せず、老婆は慣れた手つきでラックバウムの傍に生えていたキノコを採取し始めた。老婆の汚い衣服が低木の葉に擦れ、小さなザワザワという音が静かな沢に響き渡る。
「えっと……」
「あ、あれ?」
一行を無視して作業を続ける老婆に対し、正気を取り戻したフランシスカがゾフィーへ小声で告げる。
「なーんか、おかしくありません? 幽霊にしては元気っていうか、なんていうか……」
「え、ええ。幽霊がキノコなんか欲する訳がありませんし、きっと山暮らしをしている方なのかも知れませんね」
「ですよねー。じゃあ、安全な人かも?」
「いや、そうとは限りませんよ」
二人のヒソヒソ話に、まだ青い顔色のままのシャルロッテが加わる。
「まだ生きてると勘違いしてて、山菜とかキノコとか採ってるのかも。ほら、えっと……幽体離脱、みたいな?」
「そ、それは有り得ないでしょう。仮にそうだとしても、幽霊とは違って私たちに危害を加える心配は無いかと思いますが」
「生きてる人を演じて誘い込むタイプの幽霊、ってこともありますね。怖いなぁ」
「う、それは……確かに」
「だーれが幽霊だって?」
「っ!?」
その声に、三人は一斉に顔を上げる。老婆はすでにキノコを採取し終え、ゾフィーたちを怪訝そうに見つめていた。
「き、聞こえていましたか……?」
「フン、こちとら山暮らしが長いもんでね、耳や目は若い頃のまんまなのさ。しかし初対面だってのに失礼な娘どもだ。山ン中でババアを見たら幽霊ってか? まったく冗談じゃない」
「す、すみません……え? っていうことは、本物の人間なんですか?」
「だから、そう言ってるじゃないか。ま、世間様からすれば死んでるのと変わんないだろうがね」
そう言って、老婆は自嘲気味に笑った。枯葉の絡んだ長い白髪が揺れ、露を含んだクモの糸のように深緑の中でキラキラと輝く。
そんな中、ずっと呆然としていたエルマの目が、老婆の脇に抱えられた分厚い本を捉えた。ボロボロの表紙で付箋だらけの古びた本だが、刻まれたタイトルだけは明瞭に、彼女の瞳に映っていた。
「あれ? その本……」
「なんだい、お嬢ちゃん。もしや、どこか痛めたんじゃないだろうね?」
「い、いえ。そういうことじゃなくって……それ、錬金術の本ですよね」
「えっ?」
「……」
エルマの指摘を受け、老婆は僅かに表情を曇らせて本を隠す。だがエルマは立て続けに老婆へと質問を繰り出す。
「おばあさんがさっき採ったキノコって、たしか食用じゃなかったはずです。でも、わたしを押し退けてまで、食べられないキノコを採ろうとした。だとしたら、そのキノコは調合に使う気なんですよね?」
「……なんのことだか分からないね。何かの間違いじゃないのかい?」
「いいえ、絶対にそうです。っていうか、その本……お師匠が持ってたのと同じなんですよ。だから、あなたは絶対に錬金術師です」
「師匠だって? ……む、その杖は」
その言葉に、
「ほうほう……ううむ、間違いない。あの女の魔力の残り香がするね。それに師匠ってことは……お嬢ちゃん、アンタまさかアンネリーゼの弟子なのかい?」
「え? あ、はい。弟子って言っても、教わった時間は短いですけど。おばあさん、もしかしてお師匠のこと知ってるんですか!?」
「もちろんだとも。あのババアめ、弟子を取らない怠け者だと思ってたんだが……なかなかどうして、見る目だけはあるじゃないのさ」
「え? それ、どういう……」
「どれどれ、もうちょっと良く見せて————あっ」
「あっ!」
まるで初孫に接するかの如く、柔らかな笑みを湛えながら老婆はエルマへと近づく。しかし転がっていた岩に足を取られ、思い切り躓いてしまった。そのまま彼女は俯せに転倒し、痛みで小さく呻き声を上げる。
「う、うう……みっともないね。転んじまったよ」
「だ、大丈夫ですか!? 起き上がれます?」
「バカにするんじゃないよ。これくらいどうってことは……あ、あいたたた」
エルマから差し伸ばされた手を払う老婆だったが、立ち上がれずに苦悶の表情を浮かべてその場に
この事態に、エルマはもちろんのこと、シャルロッテたちもすぐさま老婆の元へと駆け寄る。
「大丈夫……じゃないですね、これ。歩くことも厳しそうです」
「そうね。応急処置をしたいところだけど……」
「あ、アンタたち! 余計なことはしなくたっていいんだよ!」
「そういう訳にはいかないでしょ。ウチらのせいでこうなっちゃったんだし、役立たせてよ。ね?」
「そうです。お節介なことは分かっていますが、是非とも助けさせてください」
「バカなことを言うんじゃないよ! 一人でなんとか帰るから……あ、あいたたた」
「ほーら、言わんこっちゃない」
ゾフィーとフランシスカが老婆の体を支え、岩場から大きな樹の下へと移動させる。そして軽く息を吐き、暗く深い森の先を見つめて言う。
「さてと。おばあさんの家はこの先? ここじゃどうにもならないし、家まで送るよ」
「む、むう……でも……」
「いい加減に諦めてください。こんなところに放置しておく方が心苦しいですし、魔物が出て来ないとも限りません。私たちにとっても、あなたの家に向かうことは大きな利益になるのです。むしろ、是非とも向かわせてほしいのですが」
「わたしからも、お願いします。お師匠の話も聞きたいし……」
「ついでに、ふかふかのベッドがあれば最高なんだがな」
「クルちゃんは黙ってて!」
「……ああ、そうかいそうかい! 分かった、もう好きにすればいいさ」
「良かった!」
「ただし」
痛めた脚を庇いつつ、老婆は真剣な表情で全員に告げる。
「家の物には触れないこと。アタシの許可がない限り、何一つ触れたらダメだ。もし破ったら、その瞬間に追い出してやるからね!」
「もちろんです。絶対に触りませんから、安心してください」
「約束します。だから、安心してくださいね」
「はぁ、まったく……アタシも年を取ったもんだ。こんな若者に助けられるようになるとはね」
そう言うと、老婆はそれ以上文句をつけることなく肩を借りて立ち上がると、諦めたように道案内を始める。
「この先、大きなランケバウムの木がある。まずはそこへ向かうんだ。そうしたら、家が見えてくるはずだ」
「了解。それじゃあ、おばあちゃん。しっかり肩に掴まってて」
「……その、おばあちゃんってのは止めとくれ。アタシの名は『ヒルデ・オピストルキス』。ヒルデと呼びな。次におばあちゃん、なんて呼んだら毒薬を浴びせるからね!」
「ヒルデさん、ね。分かった、よろしくね!」
「それは良いから、行くなら早くしておくれ! もう痛くって仕方がないんだ」
「はいはい。それじゃあみんな、行くよ! 準備してね」
すっかりゾフィーとフランシスカに依存しつつも、威勢だけはしっかりと保つヒルデに導かれ、一行は森の奥へと向かった。その最後尾でドラクンクルスは一人、彼女たちの姿を見つめて呟く。
「ヒルデ……なるほど、アイツがそうなのか。こりゃまた、奇妙な縁だこと」
そう小さく言葉を残しつつ、ドラクンクルスも急いで後を追っていった。
錬金術師エルマの調合目録 ~古の竜と摩天楼の魔女~ 小欅 サムエ @kokeyaki-samue
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