登山の先に

 それからエルマたちは一時間ほど歩き続け、ようやくカリニ山の手前まで辿り着いた。いや、自然の山であるがゆえに正確に言えば、カリニ山の麓に広がる広大な森林の手前まで辿り着いた、というべきだろう。


 ボレリア森林とは趣の異なる深く暗い森を前にして、エルマとシャルロッテは荷物を下ろし溜息を吐く。


「はぁー、やっと着いたね。でも、なんだかもう疲れちゃったよ」

「同感。ちょっとだけ休んでいきません? ここから山登りなんですよね」

「なーに言っちゃってんのかなぁ、若者が」


 二人を見下ろすように、フランシスカは両手を腰に当てて言う。


「疲れたなんて言えるうちは、まだまだ疲れてないって証拠だよ。もう昼も近いんだし、休んでるヒマなんかないよ! ほら、早く立って立って!」

「ええー?」

「ええー、じゃない!」

「うう、厳しいなぁもう……」


 小さく不満を口にしながらも、二人とも素直に立ち上がる。その姿を見て満足げに頷いたフランシスカは山へと向き直り、じっと山の中腹辺りを見つめて唸るように呟く。


「うーん、あの葉の感じ……あの辺まで行けばキーファーが採れそうだなぁ。ってことは、中腹を目指しつつ、ラックバウムも採取できたら最高、って感じかな」

「そうですね。ラックバウムですと、あまり標高の高い場所では自生していないでしょうから。このまま沢沿いを歩いて、深入りせずに戻る方が無難でしょう」

「おっと。聞かれてましたか」

「当たり前です。そんなに大きな声では、独り言とはいえませんよ」

「あはっ、そうっすよね。ってあれ? ゾフィー先生、山に入るの怖いって言ってませんでしたっけ?」

「ここまで来たら、もうそんなことは言っていられませんから。腹を括るしかありませんし」

「ああ、その大きな腹を————」

「フンッ!」

「あふぅっ!?」


 ゾフィー渾身の右ストレートを受け、静かに身悶えするフランシスカ。彼女の苦悶の表情を涼しげに見下ろしたゾフィーは、何事もなかったかのように全員へ指示を下す。


「ふう。さて、これからいよいよ山登りに入ります。幽霊だのなんだのという話もありますが、我々の目的はあくまでもラックバウムとキーファーの採取です。目的を達成次第、すぐに村へ戻りましょう。くれぐれも、勝手な行動はしないようお願いします」

「おう」

「了解しました」

「はーい。ってあれ? パカさん、どうしたんですか?」

「……幽霊より怖いじゃんか、もう」

「? えっと、なにかあったんですか?」

「なーんでもない。そんじゃ、張り切って行きましょうね! エルマ、素材の発見よろしく!」

「え、あ、はい!」


 フランシスカの言動に困惑しつつも、エルマはドラクンクルスたちと同様に山へと視線を向け、強く杖を握りしめた。そんな彼女たちを嘲笑うかのように、山の木々は強い風に揺れていた。



 ———— ★ ———— ☆ ————



 カリニ山に入ったエルマたちは、とても慎重に先へ進んでいた。それは単に幽霊が出るため、という訳ではなく、沢沿いを歩いているがためにどうしても、足元に慎重とならざるを得なかった。


 大きな岩が転がる山において、たった一度の転倒が致命的ともなる。加えて沢の水により滑りやすく、また日光の届きにくい鬱蒼とした山中であるのだから、たとえフリードリヒでもペスでも、容易に進めないのだ。


「はあ、はあ……」

「よいしょ。ふう」


 平原を進んでいた時よりも明らかに疲労を色濃くし、彼女たちは黙々と山中を進む。道中にラックバウムを見つけなければならないはずが、その余裕すらも奪われつつあった。


 中でも、岩場に慣れていたはずのゾフィーの疲労はピークに達しようとしていた。それもそのはず、彼女の大きな腹は岩ひとつを乗り越えるのに邪魔で、かつ足腰への負担も相当なのだ。


「はあ、はあ。ちょっと、すみません。少し、休みませんか?」


 たまらず音を上げたゾフィーへ、先頭を行くフリードリヒが明るい口調で声を掛ける。


「え? ああ、そういえばまだ休憩を取っていませんでしたね」

「でしょう? ちょうど座るのに適した岩もありますし、ここらで一旦……」

「ですが、まだまだ先は長いです。このままでは、夕暮れまでに村へ辿り着けないかも知れません」

「うぐっ……」


 苦痛に顔を歪ませるゾフィーを見て、フリードリヒは少しだけ思案したあと、大きな岩に飛び乗って全員に向けて告げる。


「では、こうしましょうか。僕が先の様子を見てきますので、皆さんはここで休んでいてください」

「えっ! でも、それじゃあフリッツさんは?」

「そうですよ! それだと、負担がかかり過ぎちゃうんじゃ……」

「いやいや、僕にはまだ余裕があるからね。魔物はもちろん倒すし、通りにくそうな場所があれば整えておくよ。むしろ、こういうことでもないと、本気を出せなくて困るんだ」

「あ、そうっすか」

「アイツ、マジで別次元の生き物だな」

「ははっ、褒めるのは止めてくれないかドラクンクルスくん。それはそうと、だ」


 フリードリヒは小さく笑い、話を続ける。


「僕が戻るまで、くれぐれも無茶な行動は取らないように。何かあればすぐに大声で僕を呼んでくれ。良いね?」

「分かりました。ありがとうございます」

「申し訳ありません。そちらも、お気をつけて」

「ええ、もちろんです。それでは、また後程」


 そう言って、密かにドラクンクルスにアイコンタクトを送ったフリードリヒは、より軽快に沢を登り始めた。ジョギングでもするかのように、岩場を難なく超えていく。エルマたちが振り向いた時には、すでに彼の姿は見えなくなっていた。


「おいおい、猿でもあんな速くねぇぞ。一体どんな訓練をしたらあんな風になるんだか」

「想像を絶するような努力をしたのでしょう。それはそうと、せっかくいただいた貴重な時間です。ここで天幕を出すのは……ちょっと難しそうなので、警戒しながら休むことにしましょう。ああ、沢の水は飲まないように」

「はーい」

「分かってますって。ペス、休憩だよ」

「グルゥ」


 各々、濡れていない岩を選んで腰かけて一息つく。先ほどとは異なり、本格的に披露しているために会話は少なく、山に住まう鳥や沢の水音だけが響く。


 ひときわ大きな岩を選んだエルマは、まるでベッドの如く寝転ぶ。シュード・アレシェリア村にいた頃の彼女は、このようにあらゆる場所で横になり、双子の塔ミレリーを眺めていたこともあって慣れていたのである。


「あー、こうすると水の音が気持ちいい……ん?」


 そんな中、ふとエルマは視線の先にあった茂みをじっと見つめた。沢から外れた先の、大きな木々の合間にある茂みから、独特な丸葉の低木が頭を出していたのだ。


「あれって、確か……」


 エルマは静かに起き上がり、吸い寄せられるように茂みへと近づいていく。そして、その植物の姿がしっかりと目に捉えられる距離まで近づいたとき、彼女は小さく歓声を上げた。


「ああっ! これ、ラックバウムじゃない?」

「え?」

「あん?」


 エルマの声を受け、シャルロッテたちは反射的に彼女の方を見つめた。だがその刹那、嬉しそうなエルマとは対照的に、血の気の引いた顔で揃って硬直する。特にゾフィーは、まるでこの世の終わりを見たかの如き蒼白さを浮かべていた。


「っ……」

「ちょ……」


 全員のおかしな反応にエルマは首を傾げつつ、改めてラックバウムへと向き直る。


「? どうしたんだろ。もしかしてこれ、ラックバウムじゃ————あ」


 丸葉の低木から視線を上げたエルマは、ようやくシャルロッテたちの反応を理解することが出来た。ただし残念なことに、それを目にして彼女もシャルロッテたちと同様に、硬直してしまった。


 彼女たちの視線の先にいたのは、薄汚れた衣を纏う、長髪の老婆の姿であった。

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