第5話 婚約の指輪

 雪山の城レインバックを出ようとする御一行の中にジュリオ王子の姿。

 これから北部から去っていくジュリオ王子の見送りに、雪山の城レインバックで働く使用人や貴族階級の人たちが集まっていた。



 大陸北部は待ちに待った雪溶けの季節に入ったばかり。

 太陽が隠れれば空から雪が降ってくることもあるし、特に中央の人には北部の寒さが身に応えるだろう。中央からやってきたジュリオ王子のお付き、大半は私たちが貸してあげた厚手の外套を着込んでいる。


 だけど、ジュリオ王子や王子に近しい人たちは来た時と同じ薄着のまま。

 寒さを感じていないのか、本当に寒くないのか。


 でも……やっぱりあの人は別世界の人だ。ジュリオ王子の一挙一動に誰もが大声を上げて注目をするし、いるだけで場が引き締まって華やかになる。


「ジュリオ王子! 次回は私に街の案内をさせてくださいませ!」

「……カミーラ・ヴァイナルダム。何度も言っているが、俺は遊びにきたわけではないのだ」

「毎日、働きづめです。息抜きも時には必要でしょう? シンクレアは確かに明美な都ですが、ヴァイナルダムの良さをまだお伝えできていませんから。それにジュリオ王子にいらして頂いたお陰で、昨年よりも兵の犠牲が―ー」


 カミーラお姉さまは、ジュリオ王子に付きまとっている。

 ジュリオ王子は勘弁してくれって空気を出しているけど、そこで引かないのが私のカミーラお姉さまだ。必死さは北部の魔物よりも数段上。


 でもカミーラお姉さま、ジュリオ王子にはカミーラお姉さまの悪い部分もしっかり見抜かれているんだよね……。

 王子が運れてきた数人の護衛達。

 あの人達が王子の耳として役目も果たしているらしい。


「退屈しない毎日だった。世話になったヴァイナルダムの民よ!」


 ジュリオ・シンクレアが白馬に乗って、城門の向こう側へ向かっていく。

 ヴァイナルダム王族、長男のベラミーだけがシンクレアまでジュリオ王子に同行するようだけど、私たちここまでだ。


「ジュリオ王子! 今度は、私が会いに行きますわ!」


 名残惜しそうなカミーラお姉さまなんて、今にもハンカチを噛んで泣きそうだ。


「……」


 その時、しとしとと真っ白な雪が降りだした。

 雪と氷に包まれた北部の日常。北部の人間は誰だって、雪溶けの季節を待ち望んでいる。雪溶けの先に、明るい毎日が待っている。


「……」


 中央からジュリオ王子がやってきて、きっと私の知らないところでは幾つもの出来事があったんだろう。だけど、私には関係無し。

 ヴァイナルダム王族の汚点、それが私。

 ジュリオ王子は何かきっかけをくれるって言っていたけど、期待もしていない。

 ここだけの話、今まで何人もジュリオ王子みたいな入はいたりする。


「アレニャ様、もう戻られるのですか?」

「うん。寒いから」


 北部の貴族で、私の才能に気づいた人のことだ。

 だけど結局、北部王族の汚点として虐げられている私に手を差し伸べてくれる人は皆無だった。

 だから期待なんてしていなかった。

 ジュリオ王子、貴方に何が出来るとも思わない。

 北部の闇とさえ呼ばれる私を、他国の王子がどうにかするなんて―。


「おい! 助けを望んでいるなら、少しはそういう顔をしてみせろ! 北部の寒さが、お前の心を凍らせたわけではないだろう!」


 今のは、誰の声?

 足を止める。振り返ってみれば。


「――ハーランド国王。少しだけ、我儘を許してほしい。俺の我儘は、貴方たち北部王族ヴァイナルダムにとって悪い話ではないはずだ」


 いつの間にかジュリオ王子が白馬から降りて、お父様に話しかけていた。


「俺の父から貴方へ届いた要望、ご存知の筈。北部王族なら、妥当でしょう」


 なんだ、なんだ?

 次第にお父様の顔が赤らんでいく。

 お父様は感極まった様子でその場に膝をついた。


「お……お……喜んで……ジュリオ王子」

「ハーランド国王。頭を挙げてほしい。シンクレアとヴァイナルダムは対等。だけど感謝します、ハーランド国王」 

「……親友の息子と、我が娘が結ばれる。これ程の喜びは、見当たらぬ……」


 今の言葉、ざわつくのも無理はない。

 あのジュリオ・シンクレア王子が花嫁を見つけたって言ったんだ。


「ジュリオ王子!」


 私の傍にいたカミーラお姉さまの顔が、歓喜で赤くなっていた。


 さっきのジュリオ王子の叫び、意味はよく分からなかったけど、カミーラお姉さまは遂にやり遂げた。

 しかもお相手はシンクレアの王子様だ。

 これまでの苦労が報われるというもの。


 私も盛大にお祝いしてあげたい。カミーラお姉さまがジュリオ王子のお嫁様になるのなら、お姉さまは中央へ移住することになる。

 私の安穏な日々が確保されるから。


 ジュリオ王子の滞在期間、カミーラお姉さまは王子にあれだけ付き纏って鬱陶しそうに邪険に扱われていた。でも結局、ジュリオ王子は悪い気がしていなかったということか。やっぱりスタイルの良い美人は最強なのか。


 私だけじゃなくて、皆がそう思っていた。


「カミーラ・ヴァイナルダム。お前ではない」


 けれど、ジュリオ王子はカミーラお姉さまを華麗にスル―し、歩みを進めた。

 王子を見送る最前列。

 北部国家ヴァイナルダム王族、正当なる王家から離れていた私の元へ。しっかりとした足取りで、地面に薄く積もっていた雪に王子の足跡が残る。


 私の目の前で止まる……え。どうしてそこで止まる。


「アレニャ・ヴァイナルダム」


 はっきりと聞こえる声。


 ジュリオ・シンクレア。

 中央では、正当な後継者と謡われるその人。

 こうやって立ち上がった彼と対面したのは二度目。あの時はびっくりしすぎて、何も分からなったけど、ジュリオ王子の背は相当に高かった。


「……はい」


 自然と私が見上げる形になる。


「先に言っておく、お前はきっと怒る」


 先刻まで、私の部屋でチェスをうっていた彼。


「もしかすると生涯、俺を許さないかもしれない。それでも……俺が与えられるきっかけは他に思い当たらなかった。そして、俺の行動は全て本心だ」


 ジュリオ王子の背中超しには、絶句しているカミーラお姉さまの姿が見えた。


「生憎、持ち合わせが他にはない」


 ジュリオ王子は自分の指に嵌められていた指輪を外す。


「それに安い……しかし俺が身に着けている中で最も大切なもの。だから、許せ」


 許す? 何を?

 王子が私に見せたのは、シンプルな指輪だ。私の目には指輪の良し悪しなんて分からない。それを……くれるってこと?

 ジュリオ王子が私の前で、ひざまづいた。

 王子の表情が途端に見えなくなる。

 王子の大きな身体で隠れていた全景がはっきりと目に映る。


 長男のベラミーお兄様が馬を下りて目を見開いて、次男のルイスお兄様が側近と何かを囁き合き、三男のセスクお兄様は雪が積もる木に身体を預けて目を細め、四男のルカスは両手で顔を覆っている。

 ……これは、まずい。まずいなんてものじゃない。

 だって、ジュリオ王子。貴方は……。


「アレニャ・ヴァイナルダム。今は、俺だけを見ろ」


 私の前で畏まるジュリオ王子の声。


「俺がお前に、きっかけを与える」


 目の前でひざまづくジュリオ王子が私の顔を見上げていた。


「左手を前に」


 言われるがまま、左手を差し出した。

 すると、ジュリオ王子は柔らかく微笑んで。

 

「手のひらを、開いて欲しい」


 ジュリオ王子はカチカチに固まった私の手を取った。

 私の手を優しく解いて、手のひらの上に指輪をしっかり乗せる。

 スムーズな動作は事前に練習でもしてきたんじゃないかって思う位。


「チェスの時とは、別人だな。あの時のお前は俺の手を全て読んでいるのではないかと怖さを感じる程だった。この俺が、お前に怖さを感じたのだ」


「そ……それは……ジュリオ王子が手加減するなって……」


「そんなお前が今、ここまで狼狽える姿を見せてくれた。俺は、とても嬉しい」


 そう言えば、この人の笑った顔を見たのは初めてだ。


 魔物討伐のために北部にやってきて、お城で働く誰かが言っていた。

 噂通り、ジュリオ王子が笑った顔を一度も見たことがないって。


「最初に行動したのは俺だ。だからこれは、俺だけの特権だな」


「……」


「お前に預けておく。一緒になるまでは、この指輪を俺だと思え」


 これまで恋愛なんて興味の外にあった私でも、ジュリオ王子の行動がとっても意味のあることだって分かる。


 ――その時、誰かが地面に倒れた。


 王子様との結婚を誰よりも望んでいた私の愛すべきカミーラお姉様の姿。 


「勿論、知っているだろうが」


 だけど、お姉さまを助け起こす人はいない。


 私もそうだし、ヴァイナルダム王家、貴族階級の大人たち、雪山の城レインバックに使える平民の使用人が息を呑む中。


「それの名前は」


 この世界で私が知る限り、最もチェス王子は、チェスを打っていた時みたいに、子供染みた笑みを浮かべて言った。


「――婚約の指輪エンゲージリングと言うんだ。アレニャ」







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