213 花舞う都の昼下がり
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一年で最も麗しい季節の、ある日の昼下がり。
マヌルド帝国の首都アウレアシノンも美しい花々に彩られていたが、中でもひときわ若葉の鮮やかなのは、二重城壁の内にあるクイネス伯爵邸の広大な庭をおいて他にない。
溜息が出るほど豪華絢爛な花壇は今日もよく手入れされており、軍人の邸宅らしく遣獣が憩うための広い芝生も抜かりなく整っている。
そこにぽつんと置かれた白いテーブルに、女中たちの手で瀟洒なパラソルが掲げられる。
スニエリタはお茶会の用意が進められていくのを横目に、空の彼方を眺めていた。
薄い青がどこまでも広がっている。
雲はほとんどなく、あってとしてもちぎったガーゼのように薄い。
かなりの好天に恵まれたわけだが、これは単なる偶然ではないことを、スニエリタはすでに承知していた。
女中が運んでくるクロスの掛かった台車には、ティーセットが二人分積まれている。
今ここにスニエリタの他に貴人の姿はないけれども、スニエリタはひとりで庭の風景を楽しむつもりはないのだった。
青空をまぶしく見つめながら、そこに見知った影が映るのをずっと探している。
時折横切っていく渡り鳥にちょっとだけ気落ちしながらも、花に覆われた日時計の針を何度もためつすがめつしながら、来るはずの客人を待ちわびているのだ。
そして、予定の時刻をちょっぴりばかし過ぎたころ。
「……ああっ」
控えていた女中の誰かが感嘆の声を上げる。
それもそうだろう。
空の青色を、まるでカーテンを開けるみたいにして、その裏側から何者かがふわりと姿を現したのだ。
人智を超えた光景に驚かぬ者がいるはずもない。
けれどもスニエリタは落ち着いて椅子から立ち上がり、空を滑るようにして降りてくる人影に歩み寄った。
「ララキさん、お久しぶりです」
「遅れてごめんねー! 元気だった? 仲良くやってる?」
「ふふ。ええ、でもまず、とりあえず座ってください。こちらにどうぞ」
スニエリタに促されてララキが腰を落ち着けると、すぐさま女中がティーカップを差し出してくる。
温かな琥珀色の液体が注がれ、立ち上る甘くかぐわしい香りを胸いっぱいに吸い込んでから、ララキは向かいに腰かけた女性の姿をまじまじと眺めた。
艶やかな栗色の髪は丁寧に編み込まれ、ゆるりと首筋に垂れた遅れ毛が少し色っぽい。
空を映したような青い瞳も変わらず透き通っているが、そこに灯る光はすでに少女のそれではなくなっていた。
「大人になったよね、スニエリタ。まあ、あれからもう五年くらい経つんだし、当たり前なんだけど」
「ええ……ララキさんは、相変わらずですね」
「ね。それがちょっと面白味ないんだけど。
でもひどいんだよ、ドドがさあ、最近あたしが太ってきてるって言うんだよ! で、嘘だと思ってヤッティゴに愚痴ったら苦笑いされたの!」
「あらあら。じゃあララキさん、今日はお菓子、やめておきます?」
「まさか。ていうか
憤慨しながらお茶請けのお菓子をつまむララキは、かつてスニエリタたちと一緒に旅をしていたころの少女の姿のままである。
以前に似たような席でララキ自身が説明したところによれば、今のララキはタヌマン・クリャの傀儡に魂を移して活動しているらしい。
生身の肉体とはいろいろ勝手が違うらしいのだが、傍から見ているぶんにはただの人間そのもので、スニエリタの用意したものを生前(という言いかたが適当かはさておいて)と同じような調子で飲み食いしている。
先ほどのような奇妙な来訪のしかたや、何年経っても変わらない外見などから、もう彼女が人間から遠ざかっていっているのを薄々と感じ取れるけれども。
太ったという表現にしたってスニエリタの眼にはぴんと来ない。
昔のララキは羨ましいほど腰周りが締まっていたが、今もそのように見える。
神々が指摘したのは身体的な意味の肥満ではないのだろう。
「ん~ッ、これ美味しい……!
やっぱ味覚もきちんと創ってもらっといて正解だな。いくら飲食が要らない身体ったって、美味しいものを食べる幸せは絶対必要だよ」
「わたしも、ごはんを食べないララキさんって想像つかないです」
「でしょ?」
前からララキはよく食べるほうだったが、今は肉体的な制限がないせいか食べっぷりの良さに拍車がかかったようだ、と新たなお菓子をすすめながらスニエリタは思った。
彼女はとても幸せそうに食んでくれるので、見ているこちらも嬉しくなる。
「あ、そういえばミルンはどうしてんの?」
「このところは毎日中央の詰所に出かけてますよ。大変そうです」
「へー……。
それにしても進展早すぎじゃない? だってあたしが最後にミルンとそういう話したときって、まだあの人の片想いだったのに、次会ったら『婚約しました』だよ?」
「そ、それは前にもお話したじゃないですか。キノコの森の試験で……」
「うん、聞いた。スニエリタから告白したんだよね。
正直もうそこから信じられないんだけど、ごめん」
「だってあのときはもう二度と出られないと思って……!」
「うんうん、がんばったと思うよ。
今思えばアンハナケウに行く直前のミルン、そういうことだったんだなって……で、なんだっけ? そのあとクリャが仲介して再会したんだっけ?」
「そうです、ミルンさんをアウレアシノンまで連れてきてくださって。それでクラリオさんと戦うことになったんですよ。
たしかここまでは前回お話ししましたね」
「うん。そこんとこ詳しく聞きたかったのにあたしが呼ばれて中断しちゃったんだよね」
話は尽きず、ふたりは何杯もお茶をおかわりしながら語り合った。
会っていなかった間にあったこと。
それぞれの周囲のこと。
互いにとりまく環境が違いすぎて、何を話しても新鮮だったし、あるいは共通に知る名前が出てきては、また話の枝葉が広がっていく。
時折風が吹き抜けて、舞う花びらがテーブルの上に落ちることもあった。
「──で今、人気が集中してるのがティルゼンカークらしいの。ちょっと意外じゃない?」
「まあ……女神さまたちって面食いなんですね」
「ね。あとまあ上下関係厳しかったころの名残もあるのかなーとは……そう思うと、やっぱ不思議だ。
神さまたちでも自由に恋もできないってのに、人間は、国も身分も飛び越えて結婚しちゃうんだもんね」
ララキにまじまじとそう言われて、スニエリタはおっとりと笑む。
「いい式だったよねえ。改めておめでとう」
「ありがとうございます」
「その場で直接言えなかったのが心残りだったけど、これでちょっとすっきりしたよ。
……関われることが少なくなっちゃったのは寂しいな。お祝いだってのに贈りものもできないなんて」
「そう言ってくださる気持ちだけで充分嬉しいですよ」
小鳥のさえずりが聞こえる。
それに交じって、遠くからカエルの鳴き声もする。
花壇の向こうにはちょっとした池があり、しかも裏手は小さな森に囲われていて、ここが都の中心部だということを忘れてしまいそうな景観なのだ。
ララキはときどきそちらを眺めて、今日も機嫌よさそうだねえ、と呟く。
彼女が神々の世界に入ることを決意したとき、契約していた唯一の獣であるプンタンはミルンに預けられることになった。
それでもってマヌルドの貴族は遣獣を自宅で養うことが多い──彼らの体調維持も含めて術師の技量と考えられている──ので、以降あの陽気なカエルはここで世話になっているのだ。
むろん、ミルンがもともと連れていた三頭の仲間も一緒に。
つまりこの邸は一気にかなり賑やかになった。
数人ほど世話係の雇用も発生したため、壁の外には若干の経済効果すら認められたという。
そんなクイネス邸の広々とした庭に、ふいにぽつりとひとつの影が落ちる。
ややあってお茶会を楽しむテーブルから少し離れたところに、見慣れた大ワシが一羽、優美な仕草で降り立った。
その背からひらりと地に降りるのも見知った顔だ。
珍しく顔色も悪くないのが、もうすっかり慣れてしまったからだろうと、ララキに時の流れを感じさせずにはいられない。
「久しぶりだな! あと、ただいま」
「おかえりなさい。予定よりずいぶん早かったですね」
「急ぎの要件だけ片づけてきたんだよ。またあとで出るけど、夕飯には間に合わせるから」
記憶にあるよりまた立派になった長身は、今はマヌルド帝国軍の官服を纏っている。
それに伸ばした髪を編んでうしろに垂らしているし、まあなんというか外見だけは、ちょっとした身分の軍人に見えなくもない。
それでもその声や口調はララキが知っている相棒のままで安心する。
この人の根っこに、まだ草や土っぽさというか、温かい彼の故郷の匂いが残っているように思うのだ。
「久しぶり、ミルン。なに? わざわざあたしの顔、見にきてくれたんだ?」
「まあそんなところだな、半分くらいは」
「半分?」
「ひとつ重要な用事が……スニエリタ、
「ええ。……こうなるんじゃないかと思って、あなたを待ってましたから」
何やら含みのある会話にララキが小首を傾げているのを後目に、ミルンはスニエリタの肩に手を置いた。
スニエリタもまたその手に自分のそれを重ねて、嬉しそうに微笑む。
それから空いたもう片方の手でそっと自分の腹部を撫でて、彼女は言った。
「あの、……わたし、赤ちゃんができました」
「えっ……えっ!? えーーーーッ!?
うわぁ……うわあああ! おめでとう!!」
思わず立ち上がって大騒ぎをするララキを、彼方に控えていた女中たちが何事かというふうな眼で見やる。
しかし構うものか。
ララキにとってはこんなに嬉しい報告は他にない。
これは何がどうあってもお祝いをしなければならない、とララキは強く思った。
神人不介入の理など知ったこっちゃない。
それにもともとララキの存在自体がこの世界にとっては型破りみたいなものだろう。
何とかして他の神々に突っ込まれない形でふたりに祝福を授けられないものかと、ララキは思案せずにはいられない。
そんなララキの興奮をよそに、ミルンは女中たちに指示してひざ掛けやら肩掛けやらを持ってこさせていた。
何かと思えばそれらでスニエリタを包み始める。
曰く、身体を冷やしてはいけないから、と。
「春っつってもまだ冷えるし、今日は風もそこそこ強いからな」
過保護なところが昔のようで、ララキは思わず目を細めた。
しかし今のスニエリタの身体は彼女ひとりのものではないのだからある意味当然の気遣いだろう。
「……よかったね、ほんとに、……おめでとう」
その言葉はミルンに向けて言った。
偶然の出逢いから始まった旅の相棒が、それまでも旅の中でも幾度となく苦労していたのを知っている。
彼がどんなに故郷と家族を愛し、またスニエリタを愛し、そのために心身を砕いて傷ついたかも理解しているつもりだ。
今だって居心地がいいとは言えない異郷で決して楽はしていないだろう。
だからこそ彼が手に入れた幸福を祝わずにはいられなかった。
そして願わくば、ふたつの国の架け橋となるであろう、それそれの民の血を引くことになる新しい命にも、幸福が──それを掴むための力が宿ることを、祈っている。
たぶんそんなララキの心境が、ミルンにも伝わったのだろう。
「おう、……ありがとな」
穏やかに笑んだその顔は、すでにもう、誰かの父となる覚悟を湛えていた。
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