214 ふたりの国(結)

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 風が吹く。

 ゆるやかに空を抜け、時折いたずらに雲と戯れては、南の温かな空気をゆっくりと北へ北へと送る風だ。


 その中に一筋だけ周りとは逆向きに流れていくつむじ風がある。


 あるいはそこに鮮やかな玉虫色の翼の幻想を見た者もあったのではなかろうか。

 その光景について、人間たちに尋ねることがあったのなら、ひとりくらいはそんな答えがあってもおかしくはない。


 下るほどに日差しが強くなり、花々は鮮やかさを増していく。


 蜜の香りが漂う美しい田舎町を通りすぎたところで、しかし明媚な自然はふつりと途絶え、奥深い密林の向こうにおどろおどろしい鉛色の大地が広がり始めた。

 今だ根深い呪詛に犯されたつちには花のひとつも育ちはしないし、であればそれを求める虫や獣の姿もない。


 ただ憐れで無残極まりないこの世の果てに、しかし尋ねるべき相手がいる。


「シッカ、会いにきたよ!」


 空から飛び降りるようにして、ララキは愛する獣の懐へと降り立った。

 身に帯びていた翼は瞬く間に消え去り、人であったころと何ら変わらぬ姿に戻れば、もう気持ちは昔のままだ。


 やわらかな鬣に頬を摺り寄せる少女に、ライオンの神は片方の前脚をそっと添えて応える。


『久しぶりだな』

「うん、なんだかんだで間が空いちゃった。ごめんね。調子はどう?」

『問題ない。ララキも元気そうだな』

「えへへ」


 だって、最高に幸せなお知らせを聞けたから。

 今のララキはこれ以上ないほどご機嫌だ。


 けれども今はヌダ・アフラムシカの毛並みを堪能することが最優先である。


 刑務に忙しい彼は毛づくろいの暇もあまりないのだろう、本来なら火炎の如く艶やかな毛が荒れていることもしばしばあるので、会いに来るたびそれを整えてあげるのがララキの楽しみになっていた。

 手櫛を通すだけでもだいぶ違う。


 頭のてっぺんから尻尾の先までせっせと撫でまわすララキを、アフラムシカはくすぐったそうにしながらも黙って受け入れている。


「……うん、よしっと」


 ひととおりの処置を済ませてから、ララキはおもむろに辺りを見回した。


 ふたりの周りには荒れた大地が広がっている。

 これでも多少は良くなったほうだろう。


 まだまだ本来あるべき緑の自然は戻ってはいないけれど、地表を覆っていた汚泥や邪念のようなものの気配は弱まってきているように思う。


 ここに草木が茂り、獣が育ち、人が暮らせるようになるまで、あとどれほどかかるのだろう。


 アフラムシカに課された刑はそれまで終わらない。

 それでもって、ララキが完全に人でなくなるのにも、同じだけの月日を要する。

 永い年月かけてクリャと癒着した魂を解放するのにも一筋縄ではいかないし、それに何よりララキがいなくてはクリャもまっとうに存在することができないのだから。


 ここに国や文明が復興し、信仰が生み直されなければ、ララキは自由にはなれない。


 けれどその果てしない年月を待つと決めたのだ。

 アンハナケウをずっと空けるわけにはいかないから、アフラムシカにもそうしょっちゅうは会えないけれど、できるだけ時間を作ってはこうしてようすを見に来ている。


 辛くないといえば嘘にはなるが、でも平気だ。


 会いに行ける。

 話もできる。

 触れて、その形を確かめることだってできる。


『他の地方の話を聞かせてくれ』

「うん、ていってもあたしにわかる範囲ってめちゃくちゃ狭いけど。

 えっとね──……」


 会うたびにアフラムシカがそう尋ねてくるので、できるだけ彼に会うまでにあちこちのようすを見てくるようにもしている。


 他の神や、あるいは人間たちがどう暮らしているのか、何か大きな事件はなかったか、そういうことをアフラムシカは知りたがった。


 南の果ては隔絶されすぎていて何の情報も入ってこない。

 あまつさえララキが彼の作業の進捗をクシエリスルに報告する役目を買って出てしまったものだから、ますます他の情報入手の手段がないのだろう。


 ララキはできるだけ詳細に伝える。



 北のこと。


 カーシャ・カーイはよくやっている。

 ちなみに彼とルーディーンの仲はまだ続いていて、ときどき喧嘩したらしいなと感じることも少なくないが、概ね関係は良好のようだ。


 オヤシシコロカムラギ、もとい、かつてそう呼ばれて今はシコロを名乗っている精霊は、つい先日になってようやくその存在をクシエリスル全体に認知されることになった。

 情報網たる根をカーイに譲ってはいるものの、あくまでもそれが彼の本体なのであって、そのうえクリャの傀儡を拝借して自由に飛び回る身体まで手に入れた老霊は、それはそれは見事に他の神々の眼を欺いてその身を隠していたのだ。


 しれっと生き延びていたうえ隠れていたことにカーイが憤怒したのは言うまでもない。

 しかし、次こそほんとうに喰い殺してやるからなという彼の罵声は、その内容の物騒さに反して覇気も怒気も滲んではいなかった。

 というか内心嬉しかったに違いない、それくらいはララキにも察せる。


 ちなみにアニェムイとパレッタ・パレッタ・パレッタは喜びのあまり抱き合って泣いていた。



 西のこと。


 こちらも相変わらずだ。フォレンケはちっとも威厳のない代表で、ガエムトは言葉の足りない大きな子どもだし、カジンら忌神たちは偏屈で陰気でひねくれている。

 オーファトの態度がまあまあでかいのもやむを得ないことなのだろうな、とララキもそろそろ理解できるようになっていた。


 しいていえばララキの個人的な進歩として、忌女神のサイナと少しだけ女子っぽい話ができるようになった。

 西は他に比べても女神が少ないのでサイナもいろいろ苦労しているらしい。


 そのサイナもガエムトに対する忠誠心というか、まあそういう気持ちは人一倍あるようなのだが、なにせ普段のガエムトはご存じのとおりだ。

 の入っていないガエムトの世話だけはしたくない、というようなことをやたら強い口調で言っていたのが印象的だったが、以前何かあったのかまでは聞き出せなかった。

 そのうち根掘り葉掘り訊いてみたいと思う。



 中央のこと。


 ルーディーンがカーイと懇意にした影響でか、ハーシとの交易が前より盛んになってきた由。


 それ自体は悪いことではないけれど、そこからどんな変化があるかわからないからと、ルーディーン以外の中央の神々はかなり注意しているようすだ。

 まあ代表の女神がだいぶおっとりした性格なのもあるだろう。


 話を聞く限り内政面ではゲルメストラが幅を利かせているらしい。なお彼の嫌味ったらしい性格は健在である。


 それからラグランネ。

 彼女も変わらず東部の神々と親しいようで、最近も足しげく向こうに通っている。


 その彼女にとられて他の女神たちを泣かせたというアルヴェムハルトは、わりとラグランネとしょっちゅう揉めているが、カーイたちと違って身分や力量にあまり差がないせいか、けっこう喧嘩が長引く傾向にある。

 そして大抵ラグランネのほうから謝るらしい。

 まあ結局は仲がいいんだからいいことだろう、たぶん、おそらく、きっと。



 東のこと。


 ペル・ヴィーラはまたひと柱に戻った。やはり男性でいることが多いけれど、ときどき女性になってみたりしている。

 性別が変われば考えかたなんかも違ってくるらしく、そのつど他の神々が振り回されているのでちょっと可哀想だ。


 その筆頭ともいえるティルゼンカークは、そのうえラグランネとアルヴェムハルトの喧嘩にも毎回のように巻き込まれていて、立地の大切さをララキに教えてくれる存在となった。

 まあ本人は慣れてる感じで毎度さらっと流しているけれども。


 でもって人気トップのカーイや次いで密かに推す声の多かったアルヴェムハルトに決まった相手ができてしまった今、寄る辺ない女神たちの想いを一身に集めているのも彼だったりする。

 まあ例によってララキにはじゃがいもかとうもろこしの類に見えるのでどうでもいいのだが。



 ……南のことも。


 盟主がふた柱もいなくなってしまってから、南部は大変だった。

 とりあえずアフラムシカとドドの領域を他の神々で分割して管理することになったものの、それぞれの心境は複雑だったし、それを取りまとめたのはヴニェク・スーとヤッティゴだ。

 彼らの苦労は計り知れない。


 南部には荒っぽい神が多いのだということも、ララキは改めて思い知った。

 ヴニェクの気性が荒いことはすでに承知していたが、その彼女に引けを取らない男神が他に何柱もいるのだ。


 ヤッティゴの温厚さはもはや奇跡の部類である。


 そりゃあヴニェクもこの中でやっていくなら同じくらい気が強くなるのもやむを得ないな、と傍から見ていて思った。

 ことあるごとに噴出する不満や怒りをそのつど宥めすかし、あるいは面と向かってきつい言葉の応酬をしたりと、いつ見てもいつ聞いても南部が落ち着くようすはない。


 あまりに大変そうなので、ララキはときどきふたりの愚痴を聞く係をすることにした。

 そういう役職があるのではなく、たまにようすを見ては雑談がてら溜まったものを吐き出させようと、ララキのほうで勝手にやっているだけである。

 楽ではないがララキにはそれくらいしかできない。


「ヤッティゴが言ってたよ。早くシッカとドドに戻ってきてほしいってさ」

『そうか……それで何が良くなるとも言えないが、ふたりの心労が多少なりと和らぐのなら、確かに我々も必要なのかもしれないな。

 苦労をかけてすまないと伝えてくれ』

「ん、わかった」

『それから、……ヴニェクは、何か言っていたか?』


 どこか戸惑うようにアフラムシカが尋ねてくる。

 わかってはいたが、彼はやはり、すべての神の中で彼女のことを特別に気にかけているように思う。


「えっとねえ。……早く刑期を済ませろ、とは言ってたかな」

『……そうか』

「どっちかっていうとドドのほうを気にしてるみたいだけどね。

 あ、いやもちろん、シッカのことだって心配してたよ。ああいや心配っていうかその、なんだろ、えーと」


 うまく言葉を続けられずにもごもごしていると、ふいにアフラムシカの蒼金の瞳がララキの顔を覗きこんできた。


 濡れた鼻先が首元に当たってくすぐったい。

 ララキがびっくりして黙り込むと、そのままアフラムシカは顔を摺り寄せてきた。


 どこか甘えるような仕草に胸の奥がもぞもぞして、思わずララキはくちびるを噛む。


「な、に、どしたの? シッカ」

『おまえが困っているような顔をするから……それは俺のせいか?』

「うー……ええと、その、間違いでは……ない、かな……。

 でも、でも、別にシッカがヴニェクの話をするのが嫌だってわけじゃないよ。だって、それだって大事なことだもん……だから……」

『無理はしなくていい。それに、気に病む必要もない。


 私にとってはヴニェク・スーは家族のようなものなんだ。人間でいうところの、年少の家族……妹とか娘だとか、そういう位置づけにある。あの女神が生まれたころからよく知っている。

 だから苦労をしていると思うと私も辛く感じるのだろう。


 だが、それだけだ。だからおまえはそんな顔をしなくてもいい』


 そのままゆるりと彼の姿が融けて、獣からひとりの男性に変わる。


 温かい胸に抱きこまれて、ララキは抗いがたい安堵の気分と、甘ったるい胸の高鳴りとの、矛盾したふたつの熱に苛まれた。

 こんな感情もまた南部の情勢と同じで落ち着くことがない。


 いつまでも、いつまでたってもアフラムシカの前では、ただの恋する少女になってしまう。


 それが心地いいような気恥しいような、あるいは切ないような、嬉しいような。


『ララキ、……俺が愛しているのはおまえだ』

「……どーかしらねえ。シッカって意外と嘘つきだから」

『信じてくれないか?』

「じゃあ、信じさせてくれなくちゃ──」


 優しい手に顎を引かれて、くちびるを塞がれる。


 ララキは眼を瞑って風を感じた。

 穢れた大地の真ん中で、そこに気高いひとの存在する証の熱風を。


 その温度がこの胸のわだかまりを溶かしてくれるのならそれでいいし、いっそ、そうですらなくたっていい。

 他に生命のかけらもないこの場所で、彼が愛を注いでくれるのなら。


 まだ何もないけれど、まだ何も始められはしないけれど、今はここがララキとシッカの国だ。


 ──ねえ、どうしてこんなちっぽけな人間なんかを、あなたは愛してくれるんだろう?


 誰もそれを認めてはくれない。

 それどころか、ドドの怒りを増すことにさえ繋がったという。


 ヌダ・アフラムシカほどの偉大な神が、なぜ数多の女神を差し置いて人間の娘などを慕うのか。


 どうしてそれが、ララキなのか。


『……“痛いの痛いの、とーんでけ”』

「え?」

『前におまえにしてもらったまじないだ。今でもあの日のことを思い出す。

 終わりの見えない刑務の中で、俺の心を癒すのは幼かったおまえの声だよ。わかるか?』

「よ……よくわかんない、けど、シッカの助けになれてるってことなら、嬉しい……っ」


 なぜかララキの瞳には涙が滲んでいた。

 胸が詰まってどうしようもなかった。


 わかるのはたったひとつ、ララキ自身が、どうしようもなく彼のことが好きでたまらないことだけ。

 その気持ちの強さだけはどんなに言葉を尽くしても表明しきれない。


 それどころかはなからすべて諦めて、ララキはアフラムシカに縋りついた。


 大きな手でララキを撫でながら、アフラムシカは優しい声で言う。


『ララキ……空を、見上げてみろ』


 どんなに腐って見捨てられた土地にでも、見えるものがある。


 真上の墨を流したように黒い空に一粒、宝石を飾ったように白い星が輝いていた。

 名前も知らない星影の瞬きにどこか慰められるような心地がする。

 ふたりを見守ってくれているようにも思える。


 それが優しくて、嬉しい。

 誰が許してくれなくても、あの星はふたりを咎めることはない。


 できることならあの星の名前と、詩と、その紋章を知りたいと思う。



 ふたりは、寄り添って星を見た。

 それが今まで見た中でいちばんきれいな星だった。




       ◇ 幸福の国の獣たち(了)

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