212 幸福の国の獣たち②
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あとに残ったのはいわば彼女の上司にあたるルーディーンと、その肩を抱いているカーシャ・カーイだった。
なんかここも前と雰囲気が変わったみたいだなとララキは思う。
最初に両者の揃った姿を見たのはたしかアンハナケウに初めて来たときで、そのときは少なくともこんなにべたべたしてはいなかったような気がするのだが。
ルーディーンは少し恥ずかしそうだが、かといって嫌がっているふうでもない。
そのへんの神をとっ捕まえてあのふたりの関係について聞き込みをしたい、というのがララキの思うところであったが、今は身体の支配権がクリャにある。
本来の持ち主はララキなのに交代はクリャの意思でしかできないのってちょっとかなり不便だし、まず何より不公平だ。
どうにかならないかとララキが考えていると、カーイがルーディーンから手を離してこちらに歩み寄ってきた。
「ようクリャ。おまえさんにひとつ任せたい仕事があるんだが」
どうしてこの神の振る舞いはこうも胡散臭いのだろうか──そんなクリャの内心のぼやきがララキには聞こえる。
カーイの浮かべる挑発的な表情のせいじゃないかなとララキは思う。
あとカーイもクリャには言われたくないだろう。
うしろからゆっくり近づいてくるルーディーンの無垢な美貌はどちらとも正反対だ。
あまりに清らかで、こちらになんの含みを抱く気も起こさせない。
「当面のドドの監視役だろう。私が適任だろうからな」
「わかってんなら話が早い。本来なら盟主全員で持ち回りすんのが筋だが、三柱も抜けたうえに残ってんのが俺とルーディーン以外は役立たずだからな。
……あ、ヴィーラには言うなよ」
「まさか。
むろんチロタが生き返るまでは私はここに留まるからな、それくらいは易い用だ」
「あなたが外に出るときは私かカーイが代わります。お願いしますね」
ルーディーンがおっとりと微笑みながら手を差し伸べてくる。
クリャは一瞬それを黙ったまま見つめ──内側にいるララキからは見えないのだが、なんとなく面食らったようだった──瞬きののち、ゆるりと身体を溶かした。
ララキには視線が高く、広くなったように感じられた。
おそらくクリャが姿を変えたのだろう。
本来の獣の姿ではなく、人型をとっているルーディーンに合わせて人間の形に。
ルーディーンの白い手を取る浅黒い骨ばった指はララキのそれとはだいぶ違う。
その光景をどこか面白くなさそうに見つめるカーイのようすが視界の端にちらついている。
「……面白いことになりそうだねえ」
妙に長々とルーディーンの手を握りながら、クリャは笑いを堪えているような声音でカーイを伺いながら呟いた。
「あ? 何か言ったか」
「いいや、大したことじゃあないよ」
「ハン……言っとくがオヤシシコロカムラギの根で定期的に監視するからな。しばらくは
「おお怖い怖い。肝に銘じておこう」
クリャはあくまで大仰に肩を竦める。
真剣に受け止めていないのは明らかだったが、カーイもそれ以上念押しするでもなく、ルーディーンの手を引いて他の在留者たちのほうへと歩いていった。
その道中のふたりの会話をクリャの地獄耳はしっかりと聞き取っている。
──カーイ、さっきの特例というのは、原則を無視して神の増減を許すという意味ですか?
──ああ。もっと突っ込んで言うなら減らすほうでな。
──こういう状況であまりそういう言動はどうかと……。
クリャも、態度はたしかに褒められたものではありませんが、根は悪い神ではないと思いますし。
──単なる脅しだよ、そう深く考えなくていい。
それより……気軽に他の男の手を握らないでいただけませんかね。それも俺の目の前で。
これは誓いの不履行と捉えても構いませんか? 相応の対応を求めても?
──そ、そんな約束をした覚えは……。
──俺にだけ許すと言ったのは誓約じゃあないのか?
──えっとそれは、その、たしかにええと……私が悪いんでしょうか? ごめんなさい。
でも、あなただってこうして人前でこんな、わ、私だって恥ずかしいんですよ! それを棚に上げて、だからその、ああもう……。
(やっぱりか。しかも付き合いたてっぽいな?)
ララキは確信した。
さすがにそれ以上は聞き取れなかったが、とりあえずルーディーンが激しく困惑しだしたので、カーイはそれを宥める方向に切り替えたらしい。
聞いているこちらが恥ずかしくなるような空気感だけは遠目からでも伝わってくる。
それを羨ましく眺めるララキだったが、クリャはそうではない。
そのあたりの木陰から飛んできた小鳥を指の上で遊ばせながら、どうしたものか、と楽しげにひとりごちている。
いや、その小鳥のようすが妙だ。
視線をそちらに向けていないので、翼の先から指が覗いているようだ、とララキが気付いたのは少し後になってからだった。
後ろの両脚だけでなく羽毛と被膜に覆われた前脚でクリャの腕をよじ登るそれは、感触からするとクリャの傀儡のようだった。
しかしそれもおかしいのである。
クリャはもう傀儡を必要としないし、残したものも大陸のあちこちに散っているだけでアンハナケウにはないはずだ、ともはや一心同体であるララキも理解している。
「
『そりゃ困る。もうしばらくはこの自由を味わわせちゃくれんかのう、こんな機会はもうなかろうて』
いたずらっぽく笑って、傀儡のふりをした誰かはぱたぱたと上機嫌にクリャの頭上を飛び回る。
その声や口調にどこか聞き覚えを感じたララキだが、はて誰だったろうかと心の中で首を傾げた。
わりと最近聞いた声だったような気もするのだが。
クリャの視線の先ではカーイがルーディーンを抱き上げて、いずこへかと消え去っていくところだった。
それを見届けた誰かはクリャの肩に舞い戻り、腰を落ち着けてから静かに笑う。
葉擦れのような、あるいは古い樹の幹を鳴らすような優しい音は、傀儡の喉から出しているものなのだろうか。
不思議と耳に心地よく、聞いているだけでこちらも穏やかな気分になってしまう。
『ほほ……、あれもいつかは
どこか嬉しそうなその声は、やはりララキの知っている、けれど記憶にあるより少し若々しいものだ。
「ところで今後はあなたをどうお呼びすればよろしいので? 神格はあのカーイにくれてやったのでしょう」
『そうじゃ。もはや
ただのシコロと称するが妥当かね』
「ではシコロ殿、気が済んだら必ず返してくださいよ」
『心掛けよう。ではまたな』
そう言って飛び去って行く、かつての大樹の神とは似ても似つかない容貌になったその精霊を、クリャとララキは黙って見送った。
彼がどうやって生き延びたのかはクリャでもわからないようだ。
そもそも死んだというのも傀儡づてに聞いただけ、クリャ自身はその場には居合わせていない。
大陸でもっとも長く生きているという古木なら誰しもの眼を欺いて密かに逃げおおせる方法も知っているのだろう。
みんなに教えてあげたほうがいいのでは、とララキは思ったが、クリャにはそのつもりがないらしい。
そのまま無言で歩き出した。
樹々の生い茂るアンハナケウで、白い獣の姿は目立つ。
朱白の大ヒヒは枷を引きずりながら道のえぐれたところを均している。
差し押さえられた力を使うのは控え、地道に両の前脚だけで少しずつ、盛り上がったところを削って余分な土を運んでは、幅数尺にも満たないわずかな範囲ごとに地道に作業を進めていた。
話しかけるのか、と思えばそうではなく、少し離れたところで足を止めてようすを伺っている。
同じように距離を置いて見守る影がもうひとつある。
木陰に身を隠すように佇むのはハヤブサの女神ヴニェク・スーだろう、今はもう目隠しを付け直しているので表情は伺えない。
三者の間を乾いた風が吹き抜けた。
ドドはおそらくどちらの視線にも気が付いているが、無視して刑務に没頭している。
そのあまりにも原始的な作業のようすを、女神もまた無言のまま眺めているが、クリャはそんな彼女のほうをじっと見つめているようだった。
何やらものすごく気まずい状況のような気がしてララキはいたたまれない気分に陥るが、クリャが動いてくれないことにはこの場を離れることもできない。
クリャがどういうつもりなのかもわからなかった。
ヴニェクに注がれる眼差しには、何の色も熱も籠っていないのだ。
彼女に何か思うところがあるでもなく、だが義務のためにドドを見張るわけでもない、ましてその任を受けたのは自分だと申し出る気配すらもなかった。
──ねえちょっと、なんでヴニェクのことじーっと見てんの?
耐えきれなくなったララキがついにそう尋ねると、クリャは小さく息を吐いた。
──これもまた神の業だ、人であるおまえにはわからぬことだよ。
相変わらずの返事だった。
それでは答えになっていないし、突き放されたようでララキも面白くない。
これは真剣に人間を辞める方向かもな、とやや諦観を込めてララキが思ったところで、急にクリャがヴニェクに向かって歩き出した。
外から来た神の接近に気付いても、ヴニェクはドドから視線を外さない。
「……何の用だ」
目線を少しも分けてくれずに女神が言った。
彼女にしては覇気のない弱弱しい声だった。
「あれの監視をカーシャ・カーイより拝任した。
他にすることもない私と違って貴様は忙しかろう、イキエスに戻るといい」
「そうか。……何かあれば一報くれ。都合が合えば手を貸す」
「ほう、それはありがたい申し出だ」
ヴニェクの姿が羽毛に包まれる。
青鈍色のハヤブサが飛び去っていくのを、クリャはまた無言で見つめていた。
翼の影がなくなったところでようやくドドを振り返る。
彼は変わらず前脚を泥だらけにして作業に没頭しているようだった。
やはり視線は寄越さないまま、参るよなァと呟いたのは、今度は独り言ではないらしい。
土の塊を捏ね上げて、ヒヒはそれを遠くの窪みへ放る。
「ああ睨まれてちゃあ身が入らねえ。……あーァ、しかし結局あんたの独り勝ちか」
「私が生きてクシエリスルに入れるか否かの賭けでもしていたかね?」
「相手がいねえよ、ンな博打」
「だろうな」
中身があるようでない会話をぽつぽつしてから、またしばらく無言が続く。
黙々と働いているドド、そしてそれを見守っているクリャ──もしかしてこれがこの先ずっと続けられるのだろうか。
神に定められた寿命がないのなら、それこそ何十年でも何百年でも。
それをララキは神の内側ですることもなく眺め続けなくてはならないのだろうか。
もはやいつかの結界の再来だ、とララキは絶望的な気分になった。
ララキに何の自由も選択肢も与えられていないところがまったく同じだ。
いや、身体さえ不自由な今のほうがさらに悲惨か。
どうしたら、と沈みかけるララキをよそに、クリャの眼はじっとドドに注がれている。
「……ところで今の私は流浪の身だ。帰るべき地がないのだから」
急にクリャがそう呟いて、ドドに歩み寄る。
その気配に気づいたヒヒの神がゆっくり顔を上げた。
傷だらけの頬にまだ戦闘の余韻を残してはいるものの、もう彼の表情にはいつかの陰りはない。
「ならば、おまえという罪人は私の助けにならねばならない。そういうことになるな」
「あんだよ……はっきり言いな、己に何をさせてえんだ」
「簡単なことだよ。
たったひとつでいい。その代わり、とびきり精巧で上質なものを頼む」
傀儡、すなわち神の分身。
近年ではクリャが生存戦略のために多用し、またそれをドドやアフラムシカが戦うために二次利用するなど傍から見ていて便利そうな代物だが、それ以外ではララキも見聞きしなかった。
どうやら神々にとってもそう容易く創られるものでもないらしい。
クリャがたくさんの傀儡を用意できたのも、裏でドドが手助けしていたからだ。
傀儡を創る技術と知識はクリャにあり、創造に必要な力はドドにあった──ララキが窺い知れるクリャの記憶からはそう読み取れる。
けれど今は状況が少し違う。その点をクリャは端的にこう続けた。
「おまえの手先の器用さは信用しているからね」
ドドは眼を丸くしてしばし黙り込んだが、そのうちふっと息を吐いて、そうかい、と少し嬉しそうな声音で言った。
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