188 相求める牙と角
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腸が煮えくり返りそうな光景を見せられて、男は苛立っていた。
やつの考えそうなことだ。
そのためにこんな回りくどい方法をとったのだろうとよくわかる。
つまり、このカーシャ・カーイの目の前でルーディーンを手に入れる、その光景を見せつけるためだけに敢えて殺さず岩に姿を変えさせて放置していたというわけだ。
あまりの趣味の悪さに辟易するし、同時にどうしようもない怒りが湧き出てくる。
まだその時期ではないと思いつつもこれ以上は抑えていられそうにない。
今すぐここを飛び出したい衝動に駆られている。
噴出した怒気が、変化した岩の表面に鮮やかなひびを描いた。
その音にはっとして我に返る。
こちらを不思議そうな顔で覗き込むルーディーンがいる。
彼女の美しい緑の瞳が、じっとこちらに凝らされているのを見て、ゆるゆると怒りが萎んでいく……が、それも一瞬のこと。
すぐに腫れ上がって痛々しい首筋と、さらに乱れた襟からふっくらとした胸元が覗いているのが見えて、ふたたび憤怒が最高潮に達した。
なぜならわかるからだ。
このまま放っておいたら、彼女はこの恰好のまま広場に戻ってしまう。
──それはダメだ、という感情がすべての理屈と計算を凌駕して、カーシャ・カーイは即座に封じられていた岩を粉砕した。
飛び出してから、やってしまったという後悔が脳裏を過ぎったけれど、もう遅い。
突然岩がひとりでに砕けた挙句、中から白銀のオオカミが飛び出したのを見てルーディーンは絶句している。
そして腰掛けていた岩から立ち上がり、ふらふらとした足取りでこちらに近づいてきた。
「……カーイ……?」
彼女の手がオオカミの鼻先に触れる。くすぐったいなと思いながら、カーイは答えた。
「……ああ、俺だ。このとおり生きてるよ」
「嘘……」
「そりゃあ死んだって話が出たタイミングで言ってほしかった台詞だな。そんなもん大嘘に決まってんだろうが。
というか現時点であいつを誰も疑ってねえってのはどういうことだよ、ありゃ明らかに」
「あ……あッ……カーイ……!」
「お、おお?」
急にルーディーンがしがみついてきた。
カーイの毛並みに顔を埋めながら、彼女はごめんなさいと何度も叫ぶように言って、泣きじゃくっているのは毛が濡れていくからわかる。
驚きつつも、次第にそれが静かな歓喜に移り変わっていく。
そもそもルーディーンから自分に触れてきたこと自体が初めてかもしれない。
抱き締めてやりたいと思って、それにはこの姿では不便があると気づく。
獣なら獣同士、人なら人同士のほうが触れ合うのは容易い。
カーイは一旦姿を人に変えたが、ルーディーンはそれでもまったく気に留めず、ぼろぼろと涙を零しながらカーイの腕の中にいた。
その涙を指先で掬って、宥めるように優しい声を出す。
「どうしたよ、今日はえらくかわいいな、あんた」
「……もうっ……あなたがそうだから……そうやっていつも……ッ、たまには真面目にしてください! そうしたら私だって、こんな遠回りをしなくても済みました!」
「遠回り?」
「だからその、……」
そこでルーディーンは言葉を詰まらせ、眼を逸らす。
彼女の頬は熟れた果実の色をしているが、それが涙のためだけではないことを、カーイも理解していた。
だが、わざとわからないふりをしてもう一度尋ねる。
「なあ、どういう意味なんだよ、遠回りしたってのは」
「わ、私に、言わせないで……、わかっているんでしょう?」
「どうせだから、あんたの口から聞きたいんだ。でなきゃ俺の勘違いで終わっちまいそうで怖いのさ。
……ああ、わかったよ、聞きかたを変えてやるから」
それもある意味では本心だった。
死んだかもしれないと思われただけで、こんなにルーディーンの態度が変わるとは思ってもみなかったのだ。
あまりにも己にとって都合のよい展開に、よもや夢ではないかと思ってしまう。
ただ、腕の中のルーディーンの感触だけはほんものだった。
一度抱き締めたことがあるから間違いない。
そしてあのときは無理やりだった行為を、今度はきちんと段階を踏んで行えるのかもしれない。
それがどれだけありがたく尊いことか。
今さらながら、カーイは己がルーディーンに抱いていた感情について、ひとつの小さな誤りを発見した。
ずっと彼女を喰らいたいと思っていた。
その喉笛を噛み砕いて、血を啜って肉を齧りたいと。
そうしてまるごと己の血肉として彼女を得ることこそが最上なのだと、ついさっきまでは思い込んでいた。
なかなか大した勘違いだったと自分でも思う。
これではオヤシシコロに狗っころとからかわれても仕方がない。
食欲の化けものとして生きてきて、自分にはその欲望しかないものだとばかり思っていた。
宝石のような翠緑の双眸が、今はじっとカーイを見つめている。
それを見るだけで胸が熱くなる。
なんと言えばいいだろう、あれこれ考えているうちに、こんな言葉が口から零れた。
「……初めてあんたを見たのは、まだ俺が精霊だった……それこそ蹴ったら死ぬってくらいの小せえ子狗だったころだ。
なんか気に食わねえことがあったんで、ふらふら南に下りたんだ。
そうしたら、広い草原の真ん中で、ひとりっきりで立ってるあんたがいたよ」
今でもそのときのことはよく覚えている。
風の吹きぬける美しい草原に佇む、この世の無垢を集めて拵えたような純白のヒツジの姿は、どこか寂しそうに見えたのだ。
その理由はすぐにわかった。
美味そうなヒツジだと思って近づこうとしたら、どうしても途中で弾かれて先に進めなくなる。
見えない壁に苛立っていると近くをシカの神が通りがかり、彼は醒めた声で教えてくれた。
──彼女は不可触の女神だ。誰も近寄ることはできない。
おまえのような精霊など、無理に傍寄ろうとすれば粉微塵に消し飛ぶだけだ。
無意味だから諦めたほうがいい。
それだけ言ってゲルメストラはすぐに立ち去った。
彼の声は沈んでいたけれど、その理由も今ならよくわかる。
「ずっと、あんたを喰いたいと思ってた。弱いうちは近寄れないなら、近づけるくらい強くなりゃいいと思ってがむしゃらに喰い散らかしてきたが……確かにな、ひどい遠回りだったよ。
けど、結局そうでもしねえと、あんたには永遠に触れないだろう」
「……私はそのころ、ひとりぼっちで寂しかった。どうして誰も傍に来てくれないのかと思っていました」
「クシエリスルがなくなったら逆戻りしちまうのか?」
「いいえ、もう、制御できます。あのときは私も幼かった、という話ですよ」
「それを聞いて安心したよ」
もうルーディーンは孤独にはならないし、カーイがそうさせない。
「じゃあ、改めて"旅人の伴"が尋ねよう。
"青原の主"ルーディーン──この俺があなたにくちづけることを、許してもらえるだろうか」
ルーディーンの眼がひときわ大きく見開かれる。
その緑はなんて美しいのだろうとカーイは思う。
横たわる三日月のような瞳に、少し照れくさい顔をした自分が映り込んで、他には誰もいないのだ。
前に、冗談めかして頼んだことがある。自分だけを見つめてほしいと。
そのときはそこまで深く考えて言ったわけではなかったが、こうして叶ってみると、なんてまっとうな願いだったのだろうと気づく。
これだけで力になる気がする。
しばらくルーディーンは黙ってカーイを見つめていたが、ふいに。
「……ふふっ」
笑った。厳密に言えば、噴き出した。
「いや、……なんで笑うんだよ」
「だって、あなたがそんな……そんな台詞、しかも、ずいぶん真面目な顔をして……」
「たまには真面目にしろっつったのはあんただろうが!?」
「ごめんなさい、そうですよね、でも……あんまり似合わなくて、つい……っ」
そのままくすくす笑い続けるルーディーンを、カーイは紅い顔で睨んだ。
はっきり言って、鈴を転がしているようなその声も、頬を染めて笑っている顔も当然至極かわいい。
それは認める。
だが、いくらかわいくてもこの状況でそれは許し難い。
これはどう文句をつけてやろうか、あとで何倍にして返させてやろうかとカーイが腹黒いことを考えていると、ようやくルーディーンが笑い止んだ。
けれどどこか嬉しそうな顔のままだ。
カーイの胸に手を置いて、女神は凛とした声でこう告げる。
「"旅人の伴"カーシャ・カーイ。
汝がわたくしルーディーンに触れることを、我が名において許します」
勝てるわけがない、と内心でカーイは自嘲した。
こんな気品を湛えて微笑まれて許可されたらどうしようもない。
やはりルーディーンは生まれついての女神で、自分は精霊生まれの成り上がり者に違いないのだ。
幾度となく知らされたそれを再び思い知る。
諦念に近い感傷を、それでも同時にルーディーンの気配が癒していく。
「……できれば永遠に俺だけを許してくれ」
「何を言ってるんですか、当たり前でしょう、そんなこと」
思わず呟いた一言に、願ってもない返事がくる。
そういう言葉が即答で返ってくることも、当然という顔をしているルーディーンも、何もかもが今、カーイの腕の中にあった。
込み上げてくる感情に胸を押し潰されそうになって、カーイは堪らず息を吐く。
同時にまた、掛け値のない言葉が零れた。
「……ほんっとう俺、あんたのそういうところが……」
けれども自分で言い終わるまで待てそうにない。
その先を飲み込ませるように、カーイはルーディーンにくちづけた。
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