187 百獣の王、牙の覇者、焦天の獣、あるいは陽炎の尊
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涙を拭おうとした手を、アフラムシカに掴まれる。
アフラムシカはもう片方の大きな手でルーディーンの肩を包むようにすると、真剣な顔でじっと見つめてきた。
「ルーディーン……彼のことは忘れるんだ。もう、カーイはこの世にはいない」
「……わかっています……それでも、まだ、私には……」
「喪失が耐えられないというのなら……その隙間を、私が埋めることはできないだろうか。
ルーディーン……私に、その身を委ねてほしい。きっとあなたを苦しみから解放しよう……」
アフラムシカの顔が近づいてくる。
その意図を、今のルーディーンは理解することができる。
同じことをカーイにもされたから。
思えばあの瞬間からルーディーンは不可触の女神ではなくなったのだ。
「……ダメです、やめて……ッ」
掴まれた腕がびくともしない。
逃げるのは容易ではないと悟り、それでも咄嗟に顔を逸らした。
代わりに晒された首筋に生暖かいものが触れる。
「いや……アフラムシカ、離して、……ンっ」
「拒まないでくれ。受け入れたほうがあなたも楽になれる」
「やめて、ください……ふッ……それ、以上は……ほんとうにダメ……ッ」
力が出ない。
拒絶するための力を、ルーディーンを不可触たらしめた才を振るうこともできないのは、アフラムシカの手がいつの間にかルーディーンの内の紋章を掴んでいるせいだ。
近づきすぎるとこんなことが起きてしまうなんて、知らなかった。
そして、どんな言葉でこちらの意思を示しても、アフラムシカはその手を離さない。
彼の鋭い犬歯が首筋を滑り、ルーディーンは言葉にならない感触にただ怯えた。
こんな触れ合いは知らない。
勝手に身体に触られて、自分の力ではそれを振りほどけないのが、これほどおぞましくて悲しいことだとは思ってもみなかった。
先ほどとは意味の違う涙が眦に浮かび、それが一粒零れ落ちる。
どうしよう、このままでは、ほんとうに好きなようにされてしまう。
嫌なのに。
──まだカーイのことを想っていたいのに。
アフラムシカがルーディーンの腰帯に手をかけた、そのときだった。
「──シッカ! おーい! シーッカー!!」
場違いに明るい少女の声が響き渡り、その直後にはもうルーディーンは解放されていた。
アフラムシカはすでに立ち上がっており、彼の顔は、自分たちが元来たほうへと向けられている。
広場へと続く、森に空いた大穴の道だ。
そこからぱたぱたと小走りで登場したのは久しぶりに見る顔だった。
浅黒い肌にオレンジ色の長いポニーテールを靡かせた、呪われた民の末裔にして紋唱術師の少女が、失われたはずの本来の姿で現れたのだ。
服装もいつもどおり、両手には手袋もきちんとつけている。
しいていえば頭部の各所から生えている羽毛が若干以前よりも増えた気がしなくもない。
ララキはアフラムシカを見つけるとそのまま走ってきた。
手をぶんぶん振りながらやってきて、わりと近くまで来てようやくルーディーンもいることに気づいたふうだった。
「いたいたー……って、あ、ごめんなさい、ルーディーンとお話してる途中だった?」
「……いや、大丈夫だ。それよりずいぶん慌てているが何かあったのか」
「あ、うん、ペル・ヴィーラが今すぐシッカを呼んでこいーって言うもんだから探してたの。
あの神さま、ちょっとけっこう人遣い荒いよね」
「そうだな……ところで、ララキ、その姿はどうした?」
「ああこれ?」
ララキは自分の身体をきょろきょろと見下ろしながら言う。
「クリャがさ、いい加減疲れたから交代しようってことになって。
それはいいけど、あたしが表に出てるのがパッと見でわかりにくいのがみんなに不評でね……そしたらクリャが外見だけ戻してくれたの」
「そういうこともできるのか。……よかったな、ララキ」
「うん。
……じゃ、とにかくシッカはあたしと一緒に来て。もーヴィーラがめちゃくちゃ急かしてくるのー」
アフラムシカの手を引いて、ララキがやいやいと騒ぐ。
その眼が一瞬ルーディーンをちらりと見て、かすかに頷いたように見えたのは気のせいだろうか。
真偽のほどはわからないまま、ララキとアフラムシカは広場へと戻っていった。
アフラムシカはまだルーディーンのほうを気にしている素振りを見せてはいたが、ララキがそれを許さないという感じで、彼女は引っ張る力を弱める気配がない。
さすがにアフラムシカもその手を振りほどくようなことはなかった。
ふたりが去り、ふたたびあたりが静寂に包まれる。
そこに残されたルーディーンはまだ岩に座り込んだまま、立ち上がろうという気にもなれず、しばらく呆然としていた。
いったい、何だったのだろう。
次第に頭が冷静になってくるにつれて、いろいろなことに疑問が湧いてくる。
突然迫ってきたアフラムシカの態度もおかしいと言えばおかしい。
今まで彼はそんな気配を見せたことはなかった、……はずだが、カーイからの好意にすら気づいていなかったルーディーンなので、あまり自信はない。
でも、立ち去る前のララキのあの目線はさすがに意味深だった。
まるで彼女はルーディーンが困っていたのを知っていたかのようだ。
そこではっとして自分の顔に触れる。
頬は涙に濡れているし、きっと目許も赤く腫れているだろう。
それにもしかすると、首に……何か、痕が残されているなどということは、ないか。
急に恥ずかしさがこみ上げてきて、髪を前に持ってきて首許を隠そうとしてみる。
でもこれできちんと隠れただろうか、動いた拍子に覗いてしまうのではないか、それを誰かに見られはしないかと不安になった。
ここに鏡はないし、そうした道具を創り出す才はルーディーンにはない。
どうしたものかと困り果てる女神の足許で、次の瞬間、何かが砕けるような音がした。
: * : * :
指示された紋章の奉納の大半が済んだ。
ひたすら移動を重ねての一週間強、それだけの期間で大陸の半分を渡り歩くのはさすがに骨が折れる。
こうしている間にも神々は争っているのだろうか。人間の側からはそのようすはわからない。
ミルンとスニエリタは時々空を見上げたりしながら、今は並んで歩いている。
もう空を飛びまわったり大地を駆けずり回る必要はない。これで最後だ。
すべてが終わったら、ふたりはどこに帰ればいいのだろう。
ミルンの故郷であるハーシ連邦の田舎か。
あるいはマヌルドの帝都アウレアシノンに顔を出すべきか。
どちらにしても、猶予期間が終わってしまうような寂しさがあった。
神々のために駆け回っている間は何も考えなくて済んだけれど、人間の世界に戻ったのなら、またあの拒絶と不認可の中へと入っていかなくてはならないのだ。
決闘の直後に黙って姿を消したのだから、下手をすると前よりもっと状況が悪化しているかもしれない。
とくにミルンなど、本格的に誘拐犯の烙印を捺されかねないなと自嘲した。
結果的には間違ってもない気がする。
そんな思いがあるからか、ふたりの歩みは遅かった。
「それにしても、どうしてここが最後なんでしょうか」
ふとスニエリタが呟いた。
この仕事を頼まれたときに、どの神跡をどういう順番で回るのかは指定されなかった。
兄と手分けして進めるようにと言われ、大陸の東半分を担当地域として割り振られただけだ。
ただ一点、ある神への奉納だけ、いちばん最後にするようにと指示されていた。
ふたりは今その神を祀った土地にいる。
奇しくもその場所こそ、ふたりが出逢った場所でもあった。
イキエス王国カンガジル県、ロカロ町。
旅人などもほとんど訪れない小さな田舎町に、ヌダ・アフラムシカを祀った祠がある。
もちろん本来なら彼は盟主の大黒柱であり、実際にはもっと大きな神殿や聖堂を構えていたのだが、ララキを結界から救ったことの罰則の関係でそれらが取り上げられたままになっているらしい。
ともかくふたりはロカロの町で、祠を目指して歩いている。
「何か意味があるんだとしたら、順番というより、時期的なものかもな」
「というと?」
「すべての神に奉納するにはそれなりの時間がかかる。その間にアフラムシカは何かしておくつもりだったのかもしれない。
……それが何か、なんてのは俺にはさっぱりわからないけど、何かその準備が終わってから奉納を受けたほうがいい理由があるんじゃねえかな」
「準備……そうですね、たくさんすることがあるって仰ってましたし」
イキエスの晩秋はちっとも寒くないなと思いながら、ミルンの脚がまたひとつ枯葉を踏み砕く。
「ま、単に自分は後回しでいいってだけかもしれないけどな」
「ああ、そのほうがありそうです。なんていうかその……ララキさんの大切な人ですから」
そんなことを話しながら雑木林を抜け、目的の祠へと辿りついた。
ミルンにとってはこれが二度目だが、なぜだか祠を目の当たりにした瞬間、不思議と懐かしいような気持ちになる。
祠は相変わらず落ち葉の吹き溜まりになっていた。以前よりも汚れているような気さえする。
奉納の前に、どうせ時間はあるのだからと、ミルンは落ち葉を手で払った。
何を言ったわけでもないが、スニエリタも一緒になって祠を掃き清める。
ここで、ララキから彼女の来歴を打ち明けられた。
自分も兄の話をした。
一緒に旅をしようと決めた場所は、ここだった。
ある意味ここがすべての始まりで、そして今は終わりの場所になろうとしている。
掃除を終え、ミルンはそんな感慨を噛みしめながら手帳を取り出す。
この紋章を描く日が来ることになろうとは。
なんだかんだで、ララキが描いているところも一度しか見ていないような気がする。
ヌダ・アフラムシカ──ミルンが初めて出逢った神の名前。その紋章。
図形のひとつひとつを丁寧に描き込む。
これだけはひとりでやらなかった。
隣に立ったスニエリタが、細かいところの描き込みを手伝ってくれている。
こんなところに誰も来やしないから見張りなんていらないし、何よりこれで最後だと思うと、そうするのが自然なことのように思えたのだ。
仕上げに円を、頂点から互いに描き始めて、下っていった指先が底点で出逢う。
これで、完成だ。
あとは招言詩を唱えるだけ。
「私は深森守の御許よりまかりこしました」
「わたしは大河の主の御許よりまかりこしました」
ふたりは息を揃えて詠う。
「──奇しきご縁にて、『陽炎の
読み上げた瞬間、紋章が燃え上がった。
今までこんなことは起こらなかった。
他のどの神のときも、ただふわりと光っただけだ。
ところがアフラムシカの紋章は紅蓮の炎を吹き上げて、まるでそれ自体が小さな太陽であるかのように、周りの空気をも巻き込んで激しく燃焼した。
唖然とするふたりの目の前で、炎がどんどん膨らんでいく。
大きく。丸く。あるいは長く。
伸び、歪んで、それは明らかに何かの形になろうとしている。
頭部。胴体。脚が四つ。尾が一本。
たなびく
赤銅色の身体は燦然と輝き、逞しい四肢がしっかりと大地に踏み下ろされると、どこか遠くから地鳴りのような音が響いた。
同時にミルンの頭を、冷たい刃が貫いたような感覚が走る。
思わず頭を押さえて蹲ったと同時に、隣でスニエリタも耳を押さえてその場に崩れ落ちた。
前を向けない。
顔を上げていられない。
でも、わかる。
そこに神が顕現していることだけは、この身体の感覚が何よりも雄弁に物語っている。
『……感謝する』
静かな声がふたりにそう告げた。
それを頭の片隅に聞きながら、ふたりの意識はゆっくりと薄れていった。
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