185 喪失の森の獣たち

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 あまり状況は変化していない。

 大紋章の改訂はまだ完了していないし、怪我人の治療も進んでいない。


 しいていえばクシエリスルの束縛が弱まったのか、一部の弱い神々が眼を醒ましつつあった。

 精霊たちは相変わらず眠っているし、目覚めたものもまともに動ける状態ではないので、あまり改善したとは言えないが。


 ルーディーンが定位置にしている切り株の脇でも、ようやくパレッタ・パレッタ・パレッタが起きたところだ。

 世界に変事が起きた瞬間から今まで眠っていた彼女は何も知らない。


 まだ頭がぼんやりしているようなので、いきなりすべてを話しても理解が追いつかないだろうと思い、ルーディーンは何も言わずに彼女を傍に置いておいた。

 小さな女神は不思議そうにこちらを見上げている。


 わけがわからないだろう。

 オヤシシコロカムラギのところにいたはずなのに、眼が醒めたらアンハナケウにいるうえ、周りにはひどい状態の怪我人ばかり。

 しかも当たり前のような顔をしてタヌマン・クリャがそこにいるのだから。


 きっとあれこれ尋ねたくて仕方がないだろうに、彼女はルーディーンの表情を見てそれらへの疑問を押し黙ることにしたらしい。

 聡明な娘だとルーディーンは思った。


 ほんとうは少しずつ話していくべきだと、ルーディーンとしてもわかっている。


 それができずにいるのは、自分の口から言葉にして、カーシャ・カーイの末路について語りたくないからだ。


 声に出したら、認めたことになってしまう気がする。

 それが恐ろしくて口を開けないでいる。

 情けないことに。


 ともかくふた柱の女神は不自然な沈黙を守っていた。

 そこへ、しばらくして、アンハナケウに二つめの大きな知らせが届くことになった。


「──オヤシシコロカムラギの真影、ハヌハラの大樹が倒れたそうだ」


 クリャのその言葉に、あたりがしんと静まり返る。


 ともすれば神々から血の気の引いていく音が聞こえそうなほど、静寂の中で彼らは一様に青ざめ、息を呑み、狼狽も露わな表情で近くの誰かと顔を見合わせた。

 ルーディーンは誰の顔を見ようともせずに俯いたけれど、その袖口を引く者がいる。


 眼を見開いたパレッタが、震える声を絞り出すようにして、ついに沈黙を破ろうとしていた。


「ルーディーン……さま……? いったい、なにが……あったの……でしょうか……」


 答えてあげたいけれど、言葉が出てこない。

 誰かに喉を締め上げられているかのように。

 その苦しさからなんとか逃れようとして、ルーディーンはもがくように、困惑しているパレッタの小さな身体を抱き締める。


 その姿が哀れに映ったのか、代わりに説明を引き受けた者が近くにいた。


「パレッタ……ドドが裏切って、この世界は書き換えられてしまったんだ……」

「え……?」

「それを……なんとか止めようとして、アフラムシカや、カーイが戦った。クリャはもともと、アフラムシカと協力関係にあったらしい。

 ……それで……ドドは消えたけど……大紋章自体はまだ直ってなくて、それと……カーイが……」


 そこまで言って、フォレンケも言葉を詰まらせる。

 彼の大きな眼がじわりと滲む。

 フォレンケは目頭にぐっと力を入れてそれを堪えてから、しばらく間を置いて、ふうっと大きく息を吐いた。


 戸惑うような口調で、彼は続ける。

 恐らくそれを言うべきかどうかずっと迷っていたのだろう。


「……オヤシシコロはたぶん、カーイに喰われたんだと思う」


 途端にパレッタから焼けつくような感情が迸り、そのまま抱き締めているルーディーンを焙った。


「どういうことですか! なぜ、なぜオヤシシコロさまを!

 ……オヤシシコロさまは、カーイさまを大層気にいってらっしゃいました……それを……ッ」

「オヤシシコロが自分でそうさせたんだと、思う。たぶんあれはそういう意味だったんだ……」

「……」

「ボクとアフラムシカが、外に出てオヤシシコロの話を聞いたときに……彼はいろいろ僕らに知恵を授けてくれたけど、それはすべて下準備、ドドを直接討つのはカーイの仕事だって言ったんだ。

 そのときは、ボクにはどういう意味なのかわからなかったけど……」


 恐らくその時点ですでに、オヤシシコロの心は決まっていたのだ。

 己の身と力をカーイに託し、彼がそれを以て世界を救うことを願っていた。


 だが、ここにいる全員が知っている。その望みはある意味絶たれた。

 彼が未来を捧げたカーシャ・カーイはもういない。

 実際にドドを打倒したのはヌダ・アフラムシカで、彼は今や新しい神の王として君臨している。


 アフラムシカを拒むつもりは毛頭ないけれど、オヤシシコロの犠牲に意味を見出すことが難しくなってしまった。


 そんなことをパレッタの前で言えはしない。

 ルーディーンに縋りついて号泣している彼女には、そんなことは永遠にわからないままのほうがいい。


 パレッタの泣き声が幾度となくルーディーンの内を切り裂いたけれど、それをもはや痛いとも感じない。


 結果だけ見れば世界は救われたのかもしれない。

 そこにどうしようもない悔恨と喪失を生んで。


 しばらくパレッタは泣き続け、最後には力尽きて気絶した。


 再び気を失ってしまった彼女を、ルーディーンは少し考えて、一旦アニェムイに預けることにした。

 地理的なことを考慮すると、今後の彼女の身の置き所は彼になる可能性が高い。


 アニェムイとて一度に周りの大きな神をふた柱も失って悄然としている。

 パレッタを頼めるかと尋ねた際はそれでも快く頷いてくれたけれど、無理やり浮かべたらしい笑顔が痛々しかった。


 手ぶらになり、ルーディーンは歩き出す。


 どこへとも決めていない。

 ただその場から離れていたかった。


 ここは悲しみが充満していて、今のルーディーンにはそれを癒す力がないのだから。


 ふらふらと森に足を踏み入れるけれど、さんざん神が暴れていったあとで、まともに通れる場所がない。

 自然とルーディーンの歩みは大穴の道を辿っていくことになった。

 途中でそれに気づいても、引き返そうと思っても、身体が勝手にどんどん歩いていく。


 やがてあの開けた場所に出て、ルーディーンはアフラムシカが立っていたあたりまで進んだ。


 痕跡など何も残っていないことは知っている。

 激しい戦闘のために地形が変わってしまっており、傍の岩壁から崩れ落ちたのだろう、見覚えのない岩があたりに幾つも転がっていた。


 そのうちのひとつに腰を下ろし、あたりを見回す。


 なんて静かなのだろう。

 誰もいないのだから当たり前だ。


 誰も、いないのだから。


「……カーイ」


 なんとなしに口を開いてみると、そんな音が零れ出た。


 止せばよかったとすぐに思った。

 名前なんて口に出したら、返事が聞こえてくるような気がしてしまう。


 誰も答える者がいないことが余計に悲しくなってしまう──。


「ルーディーン」


 はっと顔を上げる。


 今、確かに誰かが自分の名前を呼んだ。

 絶対に、間違いなく、声が聞こえた。


 驚いて振り向いたその先に、色黒の男が立っている。


 少し困ったような顔をしてそこいたのはアフラムシカで、ルーディーンが何も言えずに戸惑っていると、彼はゆっくりとした足取りでルーディーンの前までやってきた。

 ルーディーンは座っていた位置をずらし、そうして空いたところにアフラムシカが腰を下ろす。


「姿が見えないので気になって探しにきたが、要らぬ世話だったろうか」

「いえ……何か、私に用件でもあるのでしょう?」

「いや、ほんとうにただ気になっただけだ。無理に連れ戻すつもりもない。

 ……ただ、あなたが今までにないほど苦しそうな顔をしているのを見たら、どうにも放っておく気になれない」

「……相変わらず、優しい人ね」


 静かに息を吐いて、ルーディーンは周りの森に視線を送った。


 アフラムシカといると心が落ち着く。

 初めて会ったときから、この人だけは絶対に信用できると感じられた。

 彼は不用意に誰かに対して敵意を向けることはないし、いつも冷静で、極力誰かを傷つけないような道を探る。


 そういう生きかたをしている神だと、もう永い付き合いになるルーディーンはよく知っている。


 このアフラムシカが、今や神の王なのだと思うと少し不思議な気もするが、正しいことだとも思える。

 彼よりそうした立場に相応しい神は他にいない。


 もちろんだからこそ、今、この場に留まらせるのもよくないことだろう。

 彼の判断を待っている神があちらにはたくさんいる。

 彼らを放ってルーディーンの相手などをしている暇はないはずだ。


「アフラムシカ、私なら大丈夫です。広場に戻ってください」

「そういうわけにはいかない」

「なぜですか?」


 尋ねると、アフラムシカはルーディーンの手をとった。


「ルーディーン、私にはほんとうのことを……あなたの心の内を、素直に打ち明けてほしい」

「あの、アフラムシカ……?」

「わかっている、今はこんな話をするべき時期ときではないのは、重々承知している。

 だが言わせてくれ。いつまでも、ただの古馴染みのままではいられない……私はずっとあなたを見ていたのだ、ルーディーン。私が真に求めるのは玉座などではなかった」


 そのまま手を引かれ、ルーディーンは彼の胸へと閉じ込められた。


 温かい肌の向こうに激しく呻る心臓の音が聞こえる。

 驚いたルーディーンは反射的に彼から離れようとして、手に触れたところに治りかけの怪我があるのに気づき、そこでようやく我に返る。


 アフラムシカの身体はルーディーンよりもひと回り大きい。

 彼の腕の中にすっぽり収まってしまい、容易には離してもらえそうになかった。


 しかし、ルーディーンはまだ困惑してもいる。

 なぜアフラムシカがこんなことをするのかがわからない。

 彼が自分のことをよく気にかけてくれているのはわかるけれど、それにしては、以前はこんな触れかたをする男ではなかったはずだった。


 もちろんあまりにいろいろなことがあって、アフラムシカもかなり疲弊してはいるだろう。

 それゆえに平時とは同じようにいかないこともあるのかもしれない。


 やがて少しだけ抱き締める力が弱まったので、ルーディーンはやっと顔を少し上げることができた。


 アフラムシカもこちらを見下ろしていて、彼は少し、苦しそうな表情をしていた。

 それに見覚えがあるような気がしてルーディーンは面食らう。


 なぜならそれは、その顔は、いつもカーイが、ルーディーンを口説くときに見せたそれと、同じだったから。


 ──たまにはこうして、俺のことだけ見つめてくれよ。


 唯一覚えている彼のそうした台詞が、ようやくルーディーンがその意味を理解できたたったひとつの言葉が、まだ頭の底にこびりついている。


 アフラムシカの顔に、彼の顔が重なる。

 それがどうしようもなく悲しい。


 どうしてこれが彼ではないのかと、思ってしまう自分が悲しくて、情けなくて、おかしい。


 応える気などなかったくせに。

 いつも無視して冷たく跳ね返して、彼の意図すら汲んでやらなかったくせに。


「……離して、アフラムシカ。お願いだから……」

「嫌だ、と言ったら? ルーディーン……もしかすると、あなたの心には、カーシャ・カーイが棲んでいるのか?」

「まさか」


 ルーディーンは首を振り、そして、森を指差す。


「……まさか。今までずっと無視してきた私に、そんな心などあるはずがないのだもの……。


 ただ、今でも思うだけ……あそこから、何もないような顔をして、今にもあの人が出てきそうだと……。

 驚く私をからかって、まさかほんとうに死んだと思ったのか、そんなわけないだろうって……そう言って笑う気がするの……」


 そんなこと、ありはしないのに。


 わかっていてもそう思わずにはいられない。

 そうだったらいいのにと、そうであってほしいと、ルーディーンの心が叫んでいる。


 胸が張り裂けそうだった。


 この腕がカーイだったら、この胸がカーイだったら、今度こそルーディーンはちゃんと彼の言葉を聞いてあげられただろうか。

 そこに顔を埋めて心臓の音を聴けただろうか。


 そうしたら、応えてみようとも思えたかもしれないのに。


 いいや、きっと、応えていただろう。

 でなければこんなに苦しいはずがない。


 今こうしてルーディーンを抱き締めるのがカーイだったらよかっただなんて思うはずがない。


 あまりにも今さらで、遅すぎる。

 ──嘲笑うように今ごろになって涙が溢れてくる。


 ルーディーンにとってはカーイを喪った痛みを上回るほどに、彼に募らせた後悔のほうが深かったのかもしれない。


 叫びたかった。


 彼の名前を呼んで、返事を聞きたいと切に願った。


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