184 戴冠式
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アフラムシカのところに駆けつけたいけれど、クリャがそれを許してくれない。
大紋章の改訂準備は大詰めに入っていた。
ドドが討たれようが、カーシャ・カーイが滅びようが、クリャは一心不乱に作業を続けている。
むしろ焦りが増しているようにも思える。
もしかしたら彼も内心では思うところがあるのかもしれないが、内側にいるララキにもその奥の声は聞こえてはこなかった。
指示を出しながら、ゲルメストラが何度か心配そうな表情で他所見をしている。
視線が向いているのはラグランネとルーディーンがいるあたりで、同郷の神として彼女らのことが心配なのかもしれない。
ララキには彼女らが見えないけれど、ラグランネの泣き声は聞こえる。
そして他にもたくさんの神の悲嘆の声がこだましていて、カーイがみんなに慕われていたことがよくわかる。
ララキも表に出ていたらきっと泣いていた。
彼にはそれなりに世話にもなったし、ちょっとだけではあるけれど、一緒に旅もしたのだ。
その短い関わりしかないララキでもこんなふうに胸が詰まるのだから、その何百倍も永い付き合いのある神々にとってはどうしようもなく深い悲しみだろう。
痛切な嗚咽が響く中、目前では淡々と作業が進む。
何百、いや千を越えるかもしれない無数の紋章がそこに散らばっている。
難しい顔をしたペル・ヴィーラが次から次へと凄まじい速さでそれを生み出し、クリャがそのひとつひとつに力を継ぎ足して、処理を終えたものを周りの小さな精霊たちがせっせと運んだり並べたりしている。ひたすらそれの繰り返しだ。
そしてようやくヴィーラが手を止め、ふうと息を吐いた。
「と……これで終わりだの」
「流石にお早いですな。おい、そこの小さいの、アフラムシカに伝えてこい」
クリャにそう声をかけられたどこかの神が、びくつきながら駆け出していく。
もうしばらくアンハナケウに滞在しているが、まだクリャのことを怖がっている神も少なくない。
彼がアフラムシカを呼びに行っている間に、クリャは残りの紋章に力を注ぎ終えた。
生み出された紋章はすべてその役割ごとに整頓され、あとはこれと今あるものを入れ換えるばかりとなった。
そこでようやくクリャが身体の向きを変える。
何かと思えば、傷だらけで痛々しい姿のアフラムシカがこちらに歩いてきているのだった。
彼の隣にはヴニェク・スーとルーディーンがいる。
その向こうでこちらをじっと見ているフォレンケとガエムトがいて、彼らも身体がもう少し治っていれば歩いてきたのかもしれない。
「ご苦労だった、クリャ。ヴィーラとゲルメストラにも礼を言おう」
アフラムシカは静かな声でそう言うと、大紋章を見上げる。
「……ここに
瑠璃紺の空に浮かんだ大きな紋章が、その詩を受けてざわりと輝いた。
同時に大量の部品がアフラムシカの周りを漂い、次の瞬間、すーっと吸い込まれるようにして空の紋章へと流れていく。
星空を見上げているような光景だった。
ひとつひとつは小さな部品がきらきらと光り、星座のように並んでは、それが線や図形になって大きな紋章を形作っている。
大紋章はかたかたと軽やかな音を立てながら回転し、少しずつ形を変えていく。
そして、その中央から。
急に妙なものが飛び出した。
鮮やかな、色とりどりの羽毛にその身が覆われた獣の、死体のようなものだった。
不自然極まりない仰け反った恰好で上半身のみが表に出ており、喉と腹とを晒している。
ララキはぎょっとしたがクリャは冷静だ。
ここにあったか、と彼は呟いた。
クリャの思考から読み取れたところによれば、それはクリャの傀儡のひとつらしい。
幾つかある傀儡の中でも、かつてドドが世界の改変を行ったときに使われたものだそうだ。
なんでも大紋章を正規の方法以外でいじるにはクシエリスルの外の神の力が必要らしく、そのためにドドはずっとクリャに裏で協力関係を結んでおり、クリャも生存のためにそれを利用していた。
むろんそのことはアフラムシカにも伝えていたようだ。
その、ドドに利用されていた傀儡がどうやら今まで行方不明だったのが、こうして見つかったというわけである。
なぜこんなところに突っ込まれたままなのかはわからないが、本体がいるのだから不要には違いない。
クリャは飛び上がって傀儡を回収しようとした。
だが、そのとき、死んでいると思われた傀儡の眼が開いた。
眼球が死体のように真っ白に濁っていた。
ララキは悲鳴を上げたかったが、クリャは息を呑んだだけで済んだ。
それでもさすがに驚いて手出しを躊躇っていると、傀儡が口を平いて、がらがらの声で何か言う。
『……玉座ガ……空イタ……空位ノママデハ……くしえりするヲ……保テナイ……』
異様なほど平坦な口調だった。
おぞましい眼の濁りといい、もはやそれ自身の意思ではなく、決められた文言を喋らされているだけのようだ。
『改竄ハ……受ケ付ケラレナイ……先ニ……玉座ヲ……埋メルベシ……』
「傀儡の分際で何をほざいている。消えろ」
『私ハ
クリャがそれに触れようとすると、ばしりと電流のようなものが走って拒絶された。
今この身体の受ける痛みはララキにも少しばかり伝わってくる。
爪先が離れたあとも肘あたりまでびりびりと痺れる感覚が残り、クリャは忌々しげに息を吐いた。
その間もそいつは喋り続けている。抑揚のない、乾ききった冷たい声で。
『新タナ王ヲ……奉ルヨリ他ニナイ……即位セヨ……王の紋章ヲ……記サネバ、一昼夜ヲ待タズシテ……盟約ハ……永久ニ絶エル……』
そこから先は、そいつはひたすら同じ言葉を繰り返すばかりになった。
──新たな王を即位させよ。
どうやらこいつを取り外すことは容易ではないと判断し、クリャはそこで一旦地に下りた。
他の神々も不安げに大紋章を見上げながら、どうなってるんだ、と口々に呟いている。
アフラムシカに傀儡の言葉を伝えると、彼はそうかと頷いて、考え込むように腕を組んだ。
その隣にいたヴニェクが彼に話しかける。
ララキはルーディーンのようすが少し気になったが、彼女は黙って俯き気味にしていた。
「どうやらドドのやつは改訂を防ぐ処置を施していたようだな。小ざかしい奴だ」
「ああ……これを解除するには相当の時間が必要になるが、どうやらあまり時間は与えられていないらしい」
「じゃあどうするんだ?」
「一旦あの傀儡の指示に従うしかないだろう。
誰か代わりの王、つまりドドの代役を立てる。改訂はそれからでも不可能ではない。
ただ、皆には今しばらく不便に耐えてもらうことになるが……」
「代わりの王……か」
少し考えるようにしてから、アフラムシカはペル・ヴィーラへと向き直る。
すると他の神々も彼に倣って一斉にヴィーラを見たものだから、さすがにヴィーラも戸惑ったような表情であたりを見回していた。
「この場で適任者を挙げるとするならば、まずあなただと思うのだが」
確かに、と誰かが言う。
ララキが聞き耳を立てた感じでは、ヴィーラならオヤシシコロカムラギに継いで古い歴史を持っていることから、年功序列という意味で真っ先に候補として挙げられるべき神だろうとみんな納得しているようすだ。
とくに反対するような声は聞こえてこない。
まあ積極的に異論はなくとも、仕方ないよね、くらいの諦観めいた意見もなくはないようだけれど。
けれどもヴィーラは、ちょっと困ったような顔をして言った。
「……受けるべきが相応とは思うが……吾の右腕は、あれ、当分動けぬでな。充分に任を果たせるとは言えんの」
彼が視線を送るのは、切り株の傍の怪我をした神々のほうだ。
そこでひとりの女神が惨たらしい姿の神を抱きかかえていることは、ララキもアンハナケウに戻ってきてすぐ気づいていたし、彼女がラグランネであることは声などで察していた。
だが、抱えられた神が誰なのかは知らなかった。
アルヴェムハルトか、というシッカの呟きで、初めて彼があのキツネだと気づいたのだ。
途端にぐっと喉元を息苦しさが込み上げてきた。
他にも大なり小なり怪我をしている神はたくさんいるけれど、ひときわ無残な姿を晒しているのが見知った神だったというのは、ララキにとっても相当なショックだった。
だってあんなに痛々しい姿で、死んでいないというのが不思議なくらいで。
カーイの訃報はまだ現実味がないというか、信じ切れないようなところがあってそこまで悲しみが迫ってはこないけれど、アルヴェムハルトの姿は視覚的に訴えかけるものが強すぎた。
幸いにもクリャはすぐ視線をアフラムシカに戻してくれたけれど、ララキの気持ちを慮ってくれたのだろうか。
ともかく話がふりだしに戻ってしまったわけで、そうなると──やはりこういう意見が出てくるだろうとは、さすがにララキも予想はできた。
「ヴィーラが無理だというなら……次の候補はおまえじゃないか……?」
どこか躊躇いがちな口調でヴニェクが言う。
それを聞いたアフラムシカは少し驚いたような顔をしていたが、彼以外の全員が深く頷いているのを、クリャの内からララキも見た。
「妥当よな。吾の次に古いのはそちであるし」
「今回のことも、アフラムシカがあれこれ動いてくれたからどうにかなったしな……」
「ふむ。ドドを討ち取ったのもアフラムシカ殿、となれば相応の褒賞とも思えるでござるな」
「ていうか、アフラムシカまで断わったら、次の候補はガエムトだろ。ないな」
「仮にその次まで回ればルーディーンか……女王の誕生も悪くはないが、いささか荷が重いように思える。我が盟主は疲れておいでだ」
「私は……」
そこで初めて口を開いたルーディーンに、その場の視線が集中する。
女神はそれにはっとして、一度口を噤んでから、かぶりを振った。
「……疲れてなどいませんが、私も、アフラムシカが適任と思います」
「ほら、ルーディーンもこう言ってるよ。何か大変なことがあったら、おいらもヴニェクも手伝うからさ」
ヤッティゴにも背中を押され、その言葉を聞いたヴニェクが頷いたのを見て、アフラムシカの覚悟は決まったようだった。
彼は顔を上げ、まだそこで奇妙な体勢のまま同じ文言を繰り返す傀儡を睨む。
額に翳した装飾が煌き、そこから紋章がふわりと現れて、空へと昇っていく。
アフラムシカの紋章が傀儡のところに辿り着いたところで、傀儡が仰け反ったままでぱっと翼を広げ、高らかに宣言した。
『戴冠──紋章ハ"百獣の王"、確カニ記シタ!』
次の瞬間、大紋章が眩い光を放つ。
同時にそれまで浮遊していた改訂用の部品がすべて地に落ちてきたけれど、ひとつひとつがきらきらと輝いていて、まるで新たな神の王を讃える花吹雪のようだった。
一緒に色鮮やかな羽根も振ってくる。見上げると、クリャの傀儡の身体も朽ち始めていた。
傀儡はそのまま融け崩れ、風に紛れて跡形もなく消える。
それを最後まで見つめていたクリャの心境は、あまり穏やかなものではなかった。
ただそれは自分の似姿の死を見たせいではない。
彼がそのあと目を向けたのは、たった今新しい支配者になったアフラムシカの姿だった。
クリャの内心の声が、ララキに語りかける。
──おまえはどう思う?
ララキは少し考えてから、クリャにだけ聞こえる声でこう答えた。
──なんかちょっと、変な感じがする。
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