181 星読の丘の女主人
:::
ペル・ヴィーラ、ゲルメストラ、それとタヌマン・クリャによって大紋章の改訂準備は着々と進んでいる。
さらにその間にも人間たちの紋章奉納の儀が行われているのだろう、一部の神々に、少しずつ力が取り戻されつつあるようだった。
ルーディーンもそうだ。
起き上がっているのさえ辛かったのが、今ではなんとか立ち上がって歩けるくらいには回復していた。
しかしそうしたところで、ルーディーンにできることは少ない。
切り株の傍に傷ついた者たちを寝かせ、彼らの身体が少しでも癒えるように傍にいてやることしか、ルーディーンにはできないのだ。
こうしている間もアフラムシカとカーイが身を削って戦い、あるいはヴィーラやクリャが責任の重い事業を担っていると思うと心が痛かった。
そのどちらにも助力が叶わない己の才のなさが恨めしい。
手のひらでフォレンケの顔を拭ってやると、潰されていた彼の眼が片方だけ開いた。
とはいえ血が固まって半開き、中も無残なありさまで、これでは見えているのかどうか。
こうした他の神の痛々しい姿を見るたびに、その痛みのいくらかでも肩代わりできないものかと思う。
「……あ、ちょっとだけ……見えるようになってきた……」
ふとフォレンケが呟くように言った。もう片方の眼も、少しずつ開こうとしているのがわかる。
「まだ色とかは……わかんないけど、ぼんやり、影みたいに見える」
「よかった。思ったより深い傷ではなかったんですね」
「……ううん。たぶん……カーイが何か、してくれたみたい」
少年はどこか嬉しそうな気配を滲ませてそう答えたけれど、ルーディーンは喉を締め上げられたような心地でそれを聞いていた。
その名前のせいだ。
さっき自分に近づいてきたカーイの正体は姿を偽ったドドだった。
確かにどこかおかしいと感じていたのに、結局見破ることができなかったのを、今ルーディーンは深く恥じている。
あまりにも情けないというか、カーイに対して申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
それに、すぐにほんもののカーイが戻ってきたからよかったものの、あのままでいたら何をされていたかわからないのだ。
この体たらくではまたヴィーラに叱られてしまうだろう。
溜息をついて、そっと大穴のほうを見遣る。
──あちらはどうなったのだろうか。
また誰かの血が流されているのだろうか……。
気にはなるけれど、加勢できるような力がない以上、ルーディーンはここを離れるわけにはいかない。
かぶりを振って怪我人の治療に戻る。
できるだけ全員を平等に見ようとしているので、定期的に座り位置を変えなくてはならないルーディーンは、ゆっくりと腰を上げる。
フォレンケの次はガエムトだ。彼は寝るのを嫌がって胡坐をかいている。
その傍には忌女神のサイナが付き添っていた。
このふたりが並んでいる光景を見るのは珍しい。
たいていガエムトがアンハナケウに来ないからだが、サイナのほうも、ガエムトが来ているときは上がってこないことが多いのだ。
なのでサイナはガエムトを嫌っているのかと思っていたが、こうして見るかぎりそういうわけではないらしい。
彼女は丁寧にガエムトの身体を拭い、氷を当て、甲斐甲斐しく節をさすってやっている。
必要なものは周辺の神々から借りてきたようだ。
「ガエムトの容態はどうですか?」
尋ねると、サイナはぴたりと手を止めてこちらを見た。
といっても面隠しのついた頭巾で頭部をすべて覆っているため表情はわからない。
「……腱の切れそうなところは……おおむね繋がったと思います。炎症はまだ……」
「そうですか。何か、私に手伝えることはありますか?」
「いいえ……近くにいらっしゃるだけで充分ですわ」
「わかりました」
ルーディーンは頷き、それ以上近づくのをやめて腰を下ろした。
サイナの態度はガエムトを嫌うどころか、その逆で、今は他の誰をも彼に近付けたくないというような気配があるのを感じたからだ。
そしてすぐ傍まで行かずとも、ここは充分に効果を与えられる距離でもある。
そこで見守るようにしてふたりを眺めながら考えた。ガエムトの異常な強さのことを。
彼だってクシエリスルの一員として力を吸い上げられていたはずなのに、なぜアンハナケウの外で自由に動けたり、ドドに反撃するだなんて芸当ができたのか。
アフラムシカやカーイのように何か事前に策を打っていたわけではないのに。それとも元からクシエリスルは彼をきちんと縛れてはいなかったのだろうか。
もしそうなら、たとえ今の世界の変事は無事に治められたとしても、いつかガエムトが暴走してしまうことがありえるのではないか。
考えていると、俯いていたガエムトがおもむろに顔を上げた。
戦闘で傷ついたのは身体だけではなく、その頭部を覆う骨面にも大きなひびが入っているが、それでもその内側の顔は少しも覗いていない。
相変わらず闇夜のような暗い眼差しが、今はルーディーンをじっと見ている。
彼が何を考えているのかわからなくて、正直背筋がぞっとした。
「……ガエムトさま? どうされましたの……?」
「……」
ガエムトは無言でこちらを見つめている。
──いや、ルーディーンの背後にある、森の大穴のほうを見ているようだ。
その向こうで起きていることを、彼は何か感じ取ったのだろうか。
しかしガエムトのようすに気づいたフォレンケが尋ねても、ガエムトは何も言わず、ただじっと穴を睨んで呆然としているようだった。
ルーディーンも思わず振り返ったが、そちらにはこれといって異変は見られない。
戦闘の音もあまり聞こえてこないくらいだった。
よほど遠くまで行ったのか、もしかしたらアンハナケウの端まで移動したのかもしれない。
恐らくアフラムシカが極力こちらに余波が届かないようにと配慮でもしたのだろう。
その気遣いはありがたいが、状況がわからないだけ焦りもある。
今は待つしかないルーディーンにとっては殊更に。
ふいに、ルーディーンの思考を遮るようにして、女神の前に人影が現れた。
ヴレンデールの民族衣装に身を包んだ黒髪の男だ。
両手に西部の伝統工芸品である鋼鉄の刀を携えて、刑罰と武芸を司る神オーファトが、緊張した面持ちで立っていた。
「失礼。ガエムト殿にご挨拶に参った。ついでにそこの三下奴にも」
「……誰が三下だって……、こんなときまでその減らず口……」
「こんな時ゆえにござる」
オーファトはフォレンケの隣に行って屈み、まだ視界の悪い少年の肩をぽんと軽く叩いた。
「遅ればせながら、アフラムシカ殿とカーイ殿の助太刀に行って参る。あとは貴殿に任せるぞ」
「……え……いや、何言って……、紋章、たかだか一回奉納してもらったくらいで、無茶なんてもんじゃないよ、そんなの……死んじゃうよ……」
「元よりその覚悟にござる。
だいいち、かくも重大至極の戦いを、武士たる拙者が指を咥えて見ておるわけにはいかぬ。戦って散ることこそ武人の本望ぞ。
ヴレンデールとガエムト殿は、貴殿に託そう。ではな、フォレンケ……達者でな」
「ちょっ……オーファト……!」
以前からよく、大した理由もない喧嘩をたびたびしているふたりだった。
オーファトのほうが喧嘩を売ってくるんだ、とフォレンケからよく愚痴を聞かされていたルーディーンは、だからふたりは仲が悪いのだと思っていた。
しかし、ほんとうはそうでもなかったのだろうと、フォレンケの表情を見ても思う。
引き止める力を持たない少年の手が、男の上着の裾を掴み損ねて、あてもなく虚空を彷徨う。
その指先が泣いているように見えたのは気のせいではないだろう。
フォレンケはそのまま、行き場をなくした両手で静かに顔を覆った。
なんで、という少年の呟きに答える者は、ここにはいない。
大穴の前にはオーファトの他にも、力を取り戻してきた各地の神々が集まっている。
まず眼を引くのは丈の長い外套姿の大男、あれはアニェムイか。
そしてやはり黙ってはいられないのだろう、女神のうちでいちばんの武闘派、あのヴニェク・スーの姿も見える。
そこにオーファトが加わったところで、アニェムイが邪魔な倒木を退かし始めた。
中堅の神々が戦いに赴くというのに、盟主である自分はここで黙って見ているだけなのか。
ほんとうにそれでいいのか、とルーディーンは思った。
もう何度目の葛藤だろう。戦闘を得意としているわけではないにしろ、単純な力の保有量で言えば、ルーディーンのほうが彼らの数倍は上だ。
彼らに行かせるくらいなら、いやせめて同行して何か補助にでもなれれば……そんな思いが胸中を駆け巡る。
でも、ほんとうの理由はきっと違う。
役割や責務のために焦っているだけではない。
どんな名目でもいいから向こうに行きたいのだ。
ほんとうはきっと、薄々わかってはいるけれど、それをはっきりと言葉に表すのが怖くて、こうして遠回りにぐるぐると考え込んでいるだけ。
そんな思いを見透かすように、誰かが口を開いた。
「……ルーディーン。行って」
はっと振り返ると、ラグランネが寂しそうな眼でこちらを見つめていた。
「ここは、うちとサイナとティルゼンだけで充分、間に合うから。行きたいんでしょ、……行っていいわよ」
「ラグランネ……」
「……そのほうが死人も減るでしょ。ね、アルヴェくん」
ラグランネは腕の中でまだ眠っている神にそう語りかけた。
いや、そういう体でルーディーンの背を押した。
ほんとうに行っていいものか、ルーディーンは他の神の顔を順に見た。
ラグランネの隣でアルヴェムハルトの治療を手伝っているティルゼンカーク、横たわるフォレンケ、ガエムトの世話をしているサイナ……その全員が、ルーディーンを見つめ返した。
誰も、首を振らなかった。
「……ありがとう……」
礼を言い、立ち上がる。
アニェムイたちはすでに倒木を除け終え、穴の中へと入っていくところだった。
ルーディーンはまだ走れない足を叱咤しながらできるだけ速足で歩く。
近づいてくるルーディーンにオーファトが気づき、意外そうな顔をした。
不可触と呼ばれ、それゆえ戦闘などまともに経験したことのない箱入りの女神が、初めて戦地に赴こうとしているのだ。それは奇妙な光景だろう。
あるいはきっと、今のルーディーンは未だかつてないほど険しい表情をしているに違いない。
──どうか、どうか無事でいて。
女神の祈りを聞き届けるのは誰だろう。
そんな存在はいないのか、あるいは他の神が、気まぐれに掬い上げるものだったりするのだろうか?
‐ - - +
少しずつ、治ってきている。
失った手足が戻るにはまだ相当な時間と力を必要とするけれど、ひとまず胴体部分からの出血が治まり、内臓が元の状態を取り戻そうとしつつあるので、それだけで少しは安心だ。
それもこれも、ラグランネが我が身を省みずに力を注ぎ続けているお陰だろう。
そのせいで彼女自身の回復はまったくなされていない。
ティルゼンカークは途中でそれに気づき、もちろん口にも出したけれど、彼女は黙って首を振った。
そうなるとティルゼンカークに与えられた選択肢もひとつだけ。
自分もアルヴェムハルトの治療を手伝うことで、少しでも早く彼を復帰させて、ラグランネが自らの回復に気を回せる状態にするしかないのだ。
戻ってきた力で水を出し、傷口を洗う。
あまり強くするとまた出血が始まるのでほどほどに。
ついでにフォレンケやガエムトも洗ってやりながら、ひとりごちるように言った。
「ラグもほんとは行きたかったんだろ、あっち」
ラグランネは一瞬だけこちらを睨み、そして大穴へと視線を移す。
「……うちが行っても、喜ばれないもん。それにアルヴェくん置いていけないし、ていうか脚潰されてるから、歩けないし……。
でもさ、ティルゼン、……うち、もう、いいや」
「何が?」
「んー……ぜんぶ」
答えになっていない、とティルゼンカークは思ったけれど、それ以上は訊けなかった。
ラグランネがまた大粒の涙を溜めて、それでも大穴から眼を逸らさずに、うっすら微笑んでいたから。
それがなぜだか妙に美しく思えて、胸の奥がきりきりと痛んだ。
ラグランネの眼から、ついに涙が零れ落ちて、それは足元の草へと吸い込まれていく。
ふふ、と小さく笑ってから、ラグランネは前に向き直り、ずっと抱き続けているアルヴェムハルトの前髪を撫でた。
何度も洗って血を落したので、そこはもう本来の白金色を取り戻している。
「……アルヴェくんにはさ、勝てないよねえ」
ラグランネはそう呟く。
その言葉でようやく、さっきの言葉の意味が掴める。
ティルゼンカークは込み上げてきたものを噛みしめて、飲み込もうとして、やめて、それをそのまま吐き出した。情けない涙とともに。
「……、うん、オレもそう思う」
今まさに、心の底からそう思っている。
やっぱりそうだ。
どんなに遠回りをしたとしても、彼は必ず、最後には欲しいものを手に入れるのだから。
→
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます