182 すべての神の名を騙る者

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 男がいる。そして、獣がいる。

 それは一見すると『獣に襲われる憐れな被害者』の姿であったが、見る者によってはもっと異様に映ったことだろう。


 なぜなら男は銀髪紅眼のハーシ人の姿をしており、その彼を襲う獣もまた白銀のオオカミであったからだ。

 あたかもカーシャ・カーイが彼自身を襲撃しているかのような光景だった。


 もちろん、そうでないことはその場の全員が理解している。

 やや遅れて追いついたライオンの神も、食い殺すべき対象が人か獣かの判断はもう済ませていた。


 ドドのやることは想像以上に小賢しい。

 かつては力任せの粗忽者で知られた彼のやり口とはにわかに信じがたいが、そもそもクシエリスル全員を欺いた能を隠していた男だ。

 それにクシエリスルを手中にした者なら、その構造を逆手にとってどんなことを可能にしてもおかしくはないと、かつて基本設計を担当したアフラムシカには思える。


 しかしだからこそ不気味な点が幾つもあった。

 ドドの行動には奇妙なところが多すぎるのだ。


 ドドは数多の神を傷つけたが、未だひと柱も殺していない。

 それはアフラムシカの立場からすればこの上ない僥倖ではあったが、一転ドドの視点に移って考えてみると、おかしいとしか言いようがないのだ。

 今のドドに彼らを生かしておく利点などひとつもない。


 女神たちに関しては己の欲望を満たすために保存しておきたいとしても、男神たちは早いうちに数を減らしておくのが得策というものだろう。

 アフラムシカでさえそう思うのに、ドドが考えていないはずがない。


 それどころかドドは世界を改変してすぐ、一旦アンハナケウを出た。

 それゆえアフラムシカたちはしばらく行動の自由さえ手に入れたのだ。


 お陰で行方不明になっていたララキも見つかり、クリャの本体を取り戻せたことで大紋章を改訂する準備ができたし、見たところカーシャ・カーイはオヤシシコロから力を受け継いだらしい。

 人間たちにも協力を頼むことができた。

 神の力の源は彼らの祈りにあるのだから、彼らの意識がこちらに向いているかどうかがいずれ大きな差となってくるだろう。


 こちらのドド打倒のための手はどれも妨害されずに進んでいる。

 だが、その順調さがどうにも不気味なのだ。


「ララキか……」


 己が利用しつくしてきた憐れな少女のことを想い、アフラムシカは嘆息した。


 そしてさらに考える。

 なぜドドはララキを離島に放置しただけで、殺しておかなかったのか?


 クシエリスルを乗っ取った時点でドドにとってはもうクリャは不要になったはずで、むしろ生かしておけばこちらの反撃の糸口を残すものになる。

 クリャを始末するにはララキを殺すのが手っ取り早い。

 彼女は最後の信徒にして本体の器だったことも、クリャを相互利用してきたドドは知っていたはずだ。


 それにカーイに化けてアンハナケウに戻ってきたドドは、すでに何者かに傷つけられていた。

 それ自体はほんもののカーイかガエムトの仕業だろうが、世界神ともなった彼がそう簡単にそこまでの負傷をしてしまったのか、アフラムシカにはそのあたりが非常な疑問と思えてならない。


 ……もう必要はないと言わんばかりに、ドドが本来の姿に戻った。ヒヒではなく人の形で。


 単なる気まぐれかもしれない。

 それにクシエリスルを乗っ取った時点でドドに大いなる油断が生まれた可能性もある。


 アフラムシカとカーイの両方がその支配から大なり小なり脱して動けるとは思わず、対策をしていなかっただけかもしれない。


 けれども。


「……楽しいなァ。そうは思わないかね、おふたりさん」


 気味が悪くて仕方がないのだ。

 ドドの、あまりにも余裕に満ち満ちた、いっそ無邪気にも思えるこの笑顔が。


「ドド……おまえは何がしたいんだ。何が欲しくてこんなことをしている?」

「おい、アフラムシカ」


 ドドに語りかけると、再び喰らいつこうと構えていたカーイが苛立ったような声を上げた。

 そんな雑談は必要ないと言いたいのだろう。


 だが、あえてそれを無視して続けた。


 何か裏があるのなら、それを知らずに戦うのは得策ではない。向こうの思う壺だ。


「盟主としてのおまえはよくやっていたと、ヤッティゴが言っていた。

 私もそう思っていた。そして責務に見合っただけの待遇を与えたつもりだった……ドドよ、おまえは何が不満なのだ?」

「ほォ、ヤッティゴが私を誉めたのか。それはいい話を聞けたよ。どうもありがとう」

「質問に答えろ。おまえの目的は──」


 アフラムシカの問いは、しかし最後まで言葉にしている暇を与えられなかった。

 しびれを切らしたカーイがドドに飛びかかり、それを防ぐためにドドが起こした洪水がアフラムシカをも巻き込んだので、跳躍して直撃を免れなければならなかったのだ。


 周辺の樹々は根こそぎ倒れ、開けた森は溢れかえる水で湖のごとくに様変わりし、またさらに瞬間的に凍りついた。


 氷上をこともなげに駆けるオオカミに対し、アフラムシカはわずかに戸惑う。

 南部に生まれ育ったため、このような地形は不慣れなのだ。

 下りなければいいだけだが、浮き足で飛びながらの戦闘はそのぶん踏み込みに難が出る。


 凍らせたのがドドかカーイかわからない状況だが、どちらにしてもアフラムシカを排除するためにこうしたことは明白だった。

 出遅れたライオンを尻目に両者は激しく争っている。


 姿を偽った時点で気づいてはいたが、やはりドドは他者の力を己のものとして行使しているようだ。


 氷雪を司るカーシャ・カーイはその力のみで戦うが、対するドドは多様性に富んだ方法で彼を尽くやり返した。

 炎、雷、水、氷、土、岩、風、樹、光、闇、その他すべてが彼の支配下にある。


 カーイの攻撃は弾き返され、あるいはより強い力で押し返すと同時に彼を飲み込もうとする。

 ただ、カーイも負けてはいない。


 何度目かの激突のさなか、まだ余裕そうなドドが彼に話しかける。笑みさえ浮かべながら。


「すごいな、カーイ。いつにも増して荒っぽいじゃないか」

「こっちにもいろいろあんだよ……。

 それよりドド、てめえ……その汚い手でルーディーンに触んなって、いつも言ってんだろうが。

 ものわかりの悪いエテ公にはいい加減、罰が要るよな?」

「罰……罰ときたか。だが貴様にその権限はないんだなァ」


 ドドの微笑が、ぐにゃりと歪む。

 その表情に嫌な予感が迸り、アフラムシカも急いで加勢しようと飛び出した、次の瞬間。


「──"双刀の断罪者"の名において汝を処すべし」


 足元の氷盤がにわかに隆起し、そこから無数の白刃が飛び出した。

 浮き足でいたアフラムシカでも両の前脚をずたずたに切り裂かれ、直足で駆けていたカーイは胸や腹にまで刃が届き、獣たちの悲鳴がアンハナケウにこだまする。


 下方からの斬撃を逃れるべく飛び上がったアフラムシカを、今度は一条の光が貫く。


 曰く。



「"精霊の王"によりて浄光は下される──"葉衣姫"は異縁を紡ぎ、"星読の丘の女主人"は私に語る。


 罪人は伏せよ、与刑の場においては"彷徨える魂の運び屋"に命じ、我が栄誉を以て導くものなり。


 地に降りては"虹の眼"を翳し、"ひねもす泰らけき密林の侯"の元に縛せよ」



 ドドが口にしているのは、クシエリスルの内にある神々の異名だった。

 彼がそれを詩として詠えば、まるでそこに本人がいるかのようにその力がおこる──それらが尽くアフラムシカとカーイを屠っていく。


 光の槍に射落とされたアフラムシカは、すでに地に這っていたカーイとともに太い茨で縛り上げられ、降り注ぐ岩石に全身を打ち据えられた挙句、濁流によって森のはずれにある岸壁へと叩きつけられた。

 そこで凶悪なほど眩い光に全身を炙られたうえで、粘つく樹液を浴びせかけられる。


 液はすぐさまばきばきと耳障りな音を立てて硬化した。卵の形をした琥珀の檻に、アフラムシカとカーイは閉じ込められてしまったのだ。


 アフラムシカほどの神がこれほどの短時間で多くの苦痛を叩き込まれる経験というのも稀で、しばしまともに眼も開けていられないありさまだった。

 嬲られた身体がひどく痛み、堪えようと思っても呻き声が漏れる。


 皮膚が裂け、肉が潰れて焼け爛れ、さらに骨は砕かれていた。


 檻を壊して外に出るには、まず肉体を修復しなければならないが、ドドはそんな暇を簡単に与えはしないだろう。

 どうにか時間を稼ぐ方法はないか、檻の内側からドドのようすを伺おうと無理やりに眼を抉じ開ける。


 ドドはゆったりとした足取りで、ふたつの檻の元へと向かってきているところだった。


 その態度には余裕が満ちている。

 また、当初ドドが負っていた傷は、いつの間にか跡形もなく治癒していた。


 異常なほどの回復力の持ち主といえばオヤシシコロカムラギだが、その彼の力を借りることはできない──アフラムシカの想像が正しければ、それは今はカーイのものになった──とすれば、そもそも負傷していたこと自体が演技だったか。


 誰かの反撃を受けて負傷し、アンハナケウに戻ったところで、さらに他の反撃者の攻撃に遭う……もしもそこまでがドドの計算で、目論みで、予定として組まれていたことなのだとしたら。


「ッおまえの……目的は、まさか……」


 ドドは答えない。満足そうに笑いながら、自らの腕でカーイの檻を叩き潰した。


 黄金色の破片があたり一面に舞い上がり、ドドを褒め称えるように彼の周囲できらきらと輝いている。

 何もかもが彼の思いどおりだと言わんばかりに。


 潰れた卵はそのまま血の桶になった。

 そこに浸かったオオカミは、虚ろな眼を空に向けながら、何かぶつぶつと呟いている。

 ドドはそれを気にも留めず、彼の頸を掴んで引きずり出した。


「……を……れ……」

「"葉衣姫"は織り結ぶ──討ち滅ぼされし"牙の将"は、一片のつぶてとなりて路傍に在れかし」


 その詩によって、カーイの肉体が変貌していく。

 融けるようにゆるゆると縮み、崩れ、まさしくどこにでも転がっていそうな石へと変わったのだ。

 大きさは元のカーイの頭部と同じほどしかなくなっており、ドドはそれをひょいと持ち上げてそのあたりへ放った。


 カーイだった石が地表を覆う氷を砕き、それをきっかけに氷がどんどん消滅していく。


 そして次に、アフラムシカにも鉄槌が振り下ろされた。

 ドドの豪腕が身体のどこを破壊したのか、もう自分では判断ができないほど身体の感覚が薄れ、もはや意識がこの身から離れていこうとしている。


 血に染まった真っ赤な視界に揺らめくその男は、やはり笑っているように見えた。

 ほんとうに、嬉しそうに。

 心の底から楽しそうに。


「いや、いや……ありがとう、アフラムシカ、見事だった……そして悲しいかな、ここでお別れだ……。

 永い間、ほんとうにありがとう……」


 最後にドドは微笑んで、まるで慈悲深く憐れな罪人を許すかのような声音で、こう詠った。


「──"渓谷の賢者"は記す……」


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