180 『死』は如何にして『世界』に抗ったか

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 あのとき、絶体絶命かと思われたフォレンケを救ったのは、誰あろうガエムトだった。

 すでに充分すぎるほど傷ついて痛めつけられていた挙句、棘だらけの蔦に縛り上げられて拷問されていたのにも関わらず。


 フォレンケを無数の刃が貫いたのを見て、ガエムトは猛々しい咆哮とともに束縛を力ずくで引き裂いて脱した。

 両眼が傷つけられたフォレンケはそれを直接見てはいないが、そうとしか考えられない。


 そして恐らくその勢いのまま、ガエムトはようやくドドに攻撃を加えられたのだろう。


 ものすごい悲鳴が聞こえ、同時にそれまで場を圧していたドドの覇気が急に弱まる。

 その後も両者の怒号や争う音がしばらく響いていたが、ガエムトの興奮が治まるようすは一向にないのに対し、そのうちドドの気配はふっつりと消えた。


 ガエムトが悔しそうに呻っているのを聞きながら、フォレンケは獣のときほど鋭くない嗅覚でどうにかあたりを探る。

 そして地上に撒き散らされた自分たちの血痕に混じって、別の誰か、すなわちドドの血の臭いを見つけたのだ。


 ガエムトの反撃をくらい、ドドは傷ついて撤退した──その証拠だった。


 信じがたいが、しかし他に可能性はない。

 恐る恐るガエムトの名前を呼ぶと、足を引き摺っているらしい音がして、フォレンケはもう一度地面から持ち上げられた。


 フォレンケを抱える腕は痛みか疲労で痙攣していたが、落としそうなようすはない。


「……ガエ、ムト……無理、しなくて、いいよ、下ろしな……」

「ウゥ~……」


 力の抜けた返事とともに、ガエムトは崩れ落ちるように腰を下ろす。

 それでもフォレンケを離すことはなかった。


 ガエムトはぜいぜいと胸を激しく上下させており、肌はどこも血でぬめっているし、かなりの負傷であることは見えなくてもわかる。


 先にあれだけ甚振られて、その上で戦ったのだ。

 それも世界神と化したドドを相手にしていたことを思えば、まだ生きているほうが不思議なくらいだろう。


 ほんとうに、ガエムトとは一体何者なのだろう。


 枷と化したクシエリスルの内にあって、フォレンケたちと同じようにその力をドドに吸い上げられているはずなのに、それでもドドをやり返して追い払うほどの力が出せるのだ。

 他にそんな芸当ができる神はいやしないし、仮にいたところでその代償は安くても己の死だろう。

 ガエムトは未だかつてないほどの満身創痍だが、それでもまだ死に遠い。


 それどころかこうして座っているだけで、だんだんガエムトは落ち着いている。

 少しずつ痙攣が治まり、呼吸が穏やかになっていく。わずかずつでも回復しているのだ。


 死を司る神の死というのも妙な話だが、神とて紋章を失えばこの世から消滅し、それが神や精霊にとっての死に相当する。


 逆に言えば肉体を失おうが魂が抉れようが、紋章さえあれば存在はできる。

 それを利用して己の紋章を安全な形で保管していたのがタヌマン・クリャだ。


 しかしガエムトはそんな小細工などしていない。

 クシエリスルに入ったときも、フォレンケと一緒にアンハナケウに行って、まだ基盤を組んでいる途中の大紋章に、きちんと己の紋章を差し出した。

 フォレンケはそのあと基盤創りにも参加しているから、そのあたりで不備などはなかったと断言できる。


 ドドやカーイのように、紋章から神格を切り離すなどという力技もしていない。

 そもそもガエムトは生まれついての神だからそれは不可能だ。


 そういえば、とフォレンケは今さら疑問を増やす。


 ガエムトが生まれついての神であることを、なぜ自分は知っているのだろう。

 自分のほうがあとに生まれたのに。

 もちろん先達らから話を聞いてもいたが、思い返してみると、誰に言われなくても初めから知っていた気がするのだ。


 ヴレンデールのハールザでようやくフォレンケが形を成したとき、ガエムトはもうそこにいた。

 手当たり次第になんでも喰ってしまうので、すでに他の神々からは恐怖の対象とされていたが、フォレンケは一度もガエムトを怖いと思ったことがない。


 なぜなら食べられると思ったことがないからだ。

 自分に対しては一切の害意を示さず、こちらの言うことにはいつも素直に従うものを恐れる理由はどこにもない。


 なぜ指示に従うのかは不思議だったけれど、その理由を積極的に解明しようともしなかった。

 興味もなかった。


「……フーッ!」


 急にガエムトが鼻息を荒くした。


 緊張でまた腕が痙攣を始める。

 もうドドが戻ってきたのかと身を固くしたフォレンケだったが、鼻腔に届いた臭いはまったく別人のものだった。


「カーイ……? ほんとうに、あなたは、カーイ?」


 思わずそう尋ねたのは、眼が見えなかったからではない。

 現れたカーシャ・カーイらしき者から、以前はなかったような力の奔流を感じたからだ。


 いつだって彼からは冬の寂しい枯葉の森の匂いがしたけれど、今はそれよりずっと深い、どこか優しい緑の気配すら薫るようだった。


 そして同時に、その身体からは突き刺さるような激しい感情が迸っているのもわかった。

 そこにいるだけで空気がびりびりと震えている。


 彼はゆっくり近づきながら、答えた。


「ああ、俺だ。カーシャ・カーイだ。……ひでえありさまだが、そのようすじゃ生きてるな」

「なんとかね……。

 あのね、カーイ……ガエムトは、なぜかドドに反撃できた……だから、今ドドは、負傷してる……きっと、アンハナケウに……戻るよ。

 少しでも、早く……回復、するために、誰かを喰べる……」

「そうか。……だがアフラムシカが先に着いてる。奴が食い止めはするだろうが」

「止めきれ、ないかも……カーイ。彼に、伝えて……ドドは……全員の力を、使える……でも」


 それはきっと、人の姿をとることで可能にしている。


 人間はそれ単体では属性を持たない。

 代わりに他の紋章と共鳴でき、それゆえあらゆる属性の力を擬似的に行使することが可能という、他の獣にはない唯一無二の特性を持つ。


 ドドは恐らく今、それと近いことをしているのだと思う。


 そのために世界神クシエリスルは、人の姿でなければならなかった。


 すべての神の力を得るためではない。

 すべての神の力を合一させるために必要だったのだ。


 恐らく以前の段階からすでに、クシエリスルという空の神格にはそのような記述があったに違いない。

 それを被るには己の姿をも変えなければならなかったのだろう。


 ヒヒのままではクシエリスルに成り代わることができなかったのだ。


 そしてドドは慎重を期した。

 自分以外の全員も人型にさせることで、自分が変身したことを悟られまいとしたのだとすれば、すなわちそれこそが世界神としてのドドの弱点。


 ──以上の自分の考えを、フォレンケは必死でカーイに伝えた。


 ガエムトはもうしばらく戦力としては使えない。

 フォレンケたちにできることはここで終わりだ。


 ならばせめて、あとはアフラムシカとカーイが万全の状態でドドを破れるように、持てる情報と知識をすべて託すのみ。


 カーイは静かにそれを聞いて、それからフォレンケの顔に手を翳した。

 見えないがそんな気配があった。


「……わかった。ご苦労さん。

 俺はアンハナケウに行くが、ちょっと荷物があるんで預かっといてもらえるか」

「荷物?」

「オヤシシコロからパレッタを押し付けられてよ。これから戦闘すんには邪魔だからな。

 ……しかしガエムトの腕、血と脂できったねぇな……まあ仕方ねえか……」

「構わ、ないけど、どうして……オヤシシコロの……ところに、いさせた、ほうが……安全じゃ……?」

「……そういうわけにはいかねえんだ」


 そう答えたときのカーイのようすはおかしかった。

 そもそもパレッタを預かっている理由も不透明で、説明を省くのは前から彼にありがちな悪い癖ではあったけれど、それでも聞けばたいがいのことは面倒くさそうに教えてくれるものだった。


 それが、今は、聞くなと言われている気がするのだ。

 あるいは、答えたくないと言われている。


 だからフォレンケはそれ以上は何も言わず、ただパレッタを受け取るようガエムトに指示を出した。


 最初にカーイから緑の匂いがしたのはパレッタを連れていたせいだったからだろう、と無理やり自分を納得させて、それ以上の推察をすることもやめた。

 それさえカーイに拒まれているような気がしたから。


 パレッタを預けてすぐ、カーイは彼方へと去っていった。


 彼が到着したらアンハナケウは本格的な地獄と化すかもしれない。

 アフラムシカなどと違って、カーイは恐らく戦闘に周りを巻き込んでしまうことをあまり躊躇しないだろう。

 運悪くそこに転がっていたのが悪いと切り捨てる可能性さえある。


 そしてそこに今のフォレンケたちが向かっても、何もできそうにないことはわかっている。


 それでもフォレンケはガエムトに言った。

 ──ボクらもアンハナケウに行こうか。


「見届け……なきゃね……神の、国の……歴史を……その民の、ひとり、としてさ……」

「……フォレンケ」

「うん?」

「痛むか? 眼、痛むか?」

「……珍しいな、ボクの心配、なんて、するんだ……というか、ガエムトのほうが、重傷でしょ」

「喰えるぞ」


 ガエムトはそう言って、ふらつきながらも立ち上がる。

 喰える、というのは彼の場合、大丈夫だ、という意味だ。


「フォレンケ、生きてる。……ガエムト、喰える」

「ふ……それだと、ボクを食べるように、聞こえるよ……」

「アググ」


 いつまで経っても言葉が覚束ないガエムトは、もどかしそうに小さく呻ってから、歩き出した。

 アンハナケウに向かってゆっくりと。


 揺られながらフォレンケは、ぼんやりと思っていた。


 フォレンケが生きている、だからガエムトは大丈夫……その言葉には、情緒的な意味はない。

 ガエムトにそんな知性や感覚はないからだ。

 だから文字どおり、フォレンケの生存がガエムトのそれにも関わってくるのだと、少なくともガエムトが本能的にそう感じているのだと解釈するほかない。


 いつだってガエムトはフォレンケの近くにいた。

 生まれたときからそこにいて、一緒だった。


 そういうことなのだろうと、今ごろになって理解する。


 そして、それなら、もうひとり。

 伝えるべき相手が、いるかもしれない。


 すべきことが、できることが見つかったかもしれないと、あの神に。


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