179 深きオルヴァルの哲学者
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アンハナケウに緊迫した空気が漂う。
まだ鮮やかな血の臭いを纏ったカーシャ・カーイと、彼に敵意を露わにしているアフラムシカの間には、這いつくばった恰好でそれを見上げるルーディーンがいた。
確かに違和感はあった、と女神は思う。
はっきりとはわからないけれど、何かがわずかに、ほんの少しだけ、いつもと違うような気はしたのだ。
もっとも今のルーディーンは、カーイに対して冷静であるとは到底言えない精神状態なので、その感覚が正しかったとも断言はできないけれど。
こんなときに顔を見るのも気まずいだなんてどうかしている。
けれどもそれは、あんなことをしたカーイのせいだ。
ともかくルーディーンが違和感への確信なり正体なりを見つけるよりも先にこのような事態になってしまって、今は一触即発の気配を呆然と見上げているしかできなかった。
さきほどかすかに聞こえたラグランネの警告の声。
そしてこの、剣呑なアフラムシカの態度。
アフラムシカはカーイに、なぜかパレッタ・パレッタ・パレッタのことを聞いた。
そしてカーイはその問いに答えるようすはない。
かなり苛立ってはいるようだが、口が達者な彼にしては珍しく、黙ってアフラムシカを睨んでいる。
そこからふたりは沈黙を保ったままだ。
アフラムシカはあくまでカーイの出方を伺っているらしい。
緊迫の最中にいながら、どうすることもできないルーディーンの脚に、ふいに誰かが触れた。
「誰……」
ハッとして振り向くと色鮮やかな獣が翼を差し伸べている。
その先端には一応、小さいながらも指らしいものがあった。
見慣れぬ姿、しかもこの状況で獣の姿をしていられる神など、他に考えようもない。
「タヌマン・クリャ……あなたですか……」
「そんなところに転がっていると巻き込まれるぞ、青原の女神よ。下がったほうがいい。手を貸そう」
「……どうして、ここにあなたがいて、しかも私に手助けなど」
「前者はアフラムシカの要請を受けたまでのこと。後者はそうしろとララキがうるさいのでな」
思わぬ名前を聞き、ルーディーンは眼を見開いた。
世界改変と同時にアンハナケウから消えたあの少女だ。
クリャにとっては最後の民、しかし彼女はアフラムシカのためにと世界を回る旅をしていて、ルーディーンにもその最中に語りかけてきた。
今となっては不思議と懐かしいような気がするその少女は、確かにクリャの中に気配を感じられる。
そこに至るまでの経緯がどれほどまでに複雑なものであったか、少女の数奇な運命を思うとルーディーンは憂わずにはいられないが、クリャの手を通して感じるララキの紋章には少しも悲しんでいるようすがなかった。
それどころか前よりも力強いものがある。
少なくとも、後悔はしていない。
ともかくクリャの手を借りて、ルーディーンはひとまずアフラムシカの後方数メートルまで下がった。
しかし自分の身の安全をわずかばかり確保しただけで、事態は少しも好転してはいない。
未だに睨み合っているアフラムシカとカーイを見つめながら、とりあえずクリャに、他の神もできるだけ彼らから遠ざけてほしいと頼んだ。
我が身が思うように動かないのが今はもどかしい。
だが、なぜ。
なぜどちらも口を開かないのだ。
追及しているはずのアフラムシカでさえ、こんなにいつまでもカーイの回答を待ち続けるのはもはや不自然なくらいだというのに、どちらも一歩も動かない。
──もしかして、動けない?
そんな考えがルーディーンの脳裏によぎる。
負傷しているカーイが下手にアフラムシカを刺激したくないのは当然として、アフラムシカもまた、これ以上のカーイへの詰問を躊躇っているようなのだ。
もちろん彼の生来の気質としては好戦的ではなかったが、彼は不正などには厳しく対処する神でもあった。
攻撃の意思を見せた時点で、カーイの落ち度をアフラムシカは確信しているはずなのだ。
それなのに手を出さないその理由は。
「……いつまで睨んでんだよ。パレッタが何だって? 俺には関係ねえ話さ」
ようやくカーイが口を開く。
悪びれないその態度、それ自体は彼らしいと言えるけれども、アフラムシカはそうは思わなかったらしかった。
「オヤシシコロカムラギに会っただろう。彼から預からなかったのか」
「いーや。てめえの邪魔をするな、としか言われてねえよ。大紋章の書き換えをすんだろ? 作業に戻れよ」
「……そうだな。思い違いをしたようだ、すまなかった」
短い謝罪の言葉とともにアフラムシカがカーイに背を向けた。
そこで一旦、事態は治まったように見えた。
だが、ルーディーンにはまだ納得がいかないでいた。
違和感があったのは事実なのだ。それで今も、また傍に来て自分に伸ばされているカーイの手をとることを、躊躇っている。
それにアフラムシカは最後、カーイを見てはいなかった。
広場の周りに転がった有象無象の神々のほうへと視線をやっていたようだが、具体的に誰を見ていたのかまではわからない。
けれど方角からおおよその見当はつく。
ラグランネだ。
肉体の大半を失って血まみれのアルヴェムハルトを抱え、ひとり女神の群れから外れて広場の端に倒れている。
彼女が発した警告の言葉は、確かに自分に向けられていた。
逃げて、と言ったのは、アフラムシカに対してのことなのかとその瞬間は思ったが、もしかすると。
ルーディーンは顔を上げ、カーイの顔を見る。
高い鼻筋と血のように紅い瞳、不敵な笑みをたたえたくちびるの端から覗く、鋭い八重歯。
月の色をした頭髪。
人の姿をとる際のカーイのお決まりの外見となんら相違はない。
世界改変以前から、彼はこの姿で
どこからどう見ても、いつものカーイだ。
「……どうした、ルーディーン? そんなに俺を見つめて」
「いえ、別に……」
ああ、そしてこの軽薄な言動。
やはりこの人はカーシャ・カーイに間違いない。
だいいち他の神の姿になりすますだなんて芸当は、そうそうできることではないのだ。
姿を写すということは紋章まで偽るということなのだから。
生まれ持った才としてそういうことができる神もいるが、そのアルヴェムハルトは今や瀕死の重傷であるし、彼の他に似たような能力を備えた神はいない。
恐らくアフラムシカも先ほどは今のルーディーンと同じことを考え、そしてありえないと結論づけたのだろう。
さすがに彼は頭の回転が速い。
パレッタ・パレッタ・パレッタについての質問の意図は、ルーディーンには未だ測りかねているけれども。
とにかく杞憂なのだ。
ルーディーンはそう思い、ようやくカーイの手に自分のそれを伸ばした。
きっとカーイに言ったら笑われるだろう、このカーイが、もしかしたら偽者なのではないか、なんて思っただなんてことは──。
けれど。
ルーディーンの手は、何も掴まなかった。
一瞬だ。
まばたきほどの暇もない。
目の前からカーイの姿が消えている。
後に残ったのは刃のように尖った氷柱が十数本、カーイの居たあたりに林立して青白く輝いていた。
ルーディーンは呆然として大地の音を聞く。
地母神の耳と両足に、轟き震える大地の怒号がすぐさま届いた。
──
そうだ。それがカーイを襲って、カーイは辛うじて避けた。
血痕が散ってはいるが、それはもともと彼が流していたものであって、今傷ついたわけではないだろう。
周辺の神々が呆然と、一様に同じ方角へ視線を向けている。
ルーディーンもそちらを見ると、広場を囲んでいた樹々が痛ましいほどに抉り倒され、森の奥へとそれが延々続いていた。
そして今もそちらから、絶えず激しい攻防の気配が聞こえている。
確かめなくてはいけない、と半ば強迫的な、使命感めいた感情がルーディーンの内に湧いた。
不自由な身体でも、それでも他の神よりはずっと動ける。
しかし這いつくばって森に空いた大穴を目指す女神を、周りの誰もが止めようとした。
「ルーディーン、止せ……あんなものに巻き込まれたら、貴女とて命を落としかねない」
「でも、何が起きているのか、私には見えなかった。
ゲルメストラ、あなたには見えましたか? 一体誰がカーイを襲っているのか」
「……いいや、我が盟主……逆だ。彼はたった今、
そう、だな? ラグランネ」
ゲルメストラが弱弱しい声で同意を求めた先には、大粒の涙を零しながら森を見つめる女神の姿がある。
彼女は一瞬だけこちらに顔を向けて、頷いた。
そのまますぐに視線は大穴へと戻される。
その向こうで起きていることまでは見えるのだろうか、ルーディーンからは、めちゃくちゃに積み重なった樹々の陰になって少しも伺うことはできない。
視線を逸らさずに、ラグランネが答えた。
──カーイがやっと、帰ってきたの。
「さっき、ルーディーンに話しかけてたのは……ドド……方法はわかんないけど……クシエリスル全員の力を、吸い上げてるなら、他人の力も使えるのかもね……」
「でも、なぜそんなことをする必要があったのでしょうか。
……怪我のせい? でも、誰がドドを傷つけられたというの……?」
「──ガエムト、だよ……」
新たな声が聞こえ、ルーディーンたちははっとしてそちらを見る。
大穴が開いているのとは反対側の森から、傷だらけのガエムトが顔を覗かせていた。
その両腕には同じくぼろぼろのフォレンケと、負傷しているかはわからないが同じくらい汚れたパレッタが抱えられている。
ガエムトはふらふらと覚束ない足取りでルーディーンの前まで来て、精魂尽き果てたようにそこで膝を衝いた。
どちらも満身創痍だった。
ガエムトは手足がもげかけ、角や尾が砕けて無残なことになっている。
フォレンケは両眼が血溜まりになっているし、身体じゅう刺し傷と打撲に覆われていた。
「フォレンケ! ああ……あなたは外に居たのですね……ガエムトもこんなに傷ついて……そこで一体何が……」
「オヤシシコロに……会って、あと……アフラムシカと、クリャと、人間たちで……作戦を、立ててた……ボクはガエムトと……時間稼ぎ、して……このざまだよ……。
ガエムト……パレッタを、下ろして……ルーディーン、彼女を、お願いします。カーイに、頼まれたから……」
「カーイに? オヤシシコロはどうしたのです?」
「……ボクは、知らない……聞けなかった……」
フォレンケはどこか泣きそうな声でそう言って、そこで意識を失ってしまった。
: * : * :
森に空いた大穴を見て、クリャは溜息をついた。
こんなに落ち着き払っているのはこの場ではクリャただひとりだろう。
しかし彼は今、困っていた。
カーシャ・カーイの帰還により、姿を欺いていたドドがその襲撃を受けた。それはいい。
幸いにも勢いがあったお陰でこの広場からは離れてくれたので、創りかけの大紋章の
初めから創り直すのは少々難だし、何より時間が無駄になる。
問題は、カーイとともにアフラムシカもドドとの戦いに趣いてしまったことだった。
クリャはずっとクシエリスルの外にいた神だ。
大紋章の創造にも立ち会っておらず、アフラムシカ抜きで改訂の準備を進めることは不可能だった。
クリャはあくまで基盤を無理やり操作するために介入する役割なのであって、おおよそすべての作業は誰かクシエリスルの内の者が行わなければ意味がない。
辺りを見回し、適任そうな者を探す。
アフラムシカの代理であれば相応の地位の者が相応しい。
「ペル・ヴィーラよ! 手を貸したまえ!」
クリャの呼びかけに、東の盟主は不愉快そうな面持ちを見せる。
彼ほど高貴な神であろうと、今は他の有象無象とともに広場の隅で蹲っていて、ある意味ドドは平等だなと苦笑を禁じえないクリャであった。
しいて言うなら意外な点がひとつある。
ヴィーラの性別だ。
本人の気性から基本的には男の姿をしているが、気分その他で女になることもできる。
大陸に他にそのような体質の神はいないが、ある意味それも生まれ持った才能というか、たまたま獣としての姿が少しばかり原始的な生物であったことや、いろいろな偶然の重なった結果であるらしい。
あの女好きのドドがヴィーラを放っておいているのは何故だろうか。
どうせクシエリスルのすべてを好き勝手にできる身分になったのだから、ヴィーラを女に固定するぐらいのことはしているかと思っていたが、見たところ『彼』は『男神』としてハーレムからは除外されている。
まあだからといって、クリャには何ら関係のない話だが。
ともかく呼びかけに反応を見せたヴィーラが、青白い顔にまとわりつく濡羽色の髪をかき上げることすら億劫そうに──事実今の彼は不自由な身の上に堕されているわけだが──溜息混じりの声で答える。
「……なんだ外神、この吾を名指すとは……しばし見ぬうちに随分偉くなったものだの」
「滅相もない。大紋章の改訂は私ひとりの手には負えぬが、アフラムシカが不在となれば、この場で適任であるのはオヤシシコロに次いで古参の貴殿しかおられませんのでな。
それにご尊老からは言付もございます」
「ふむ、もっともよな。……そちの胡散臭い弁舌はちと気に障るが、まあよい。では、吾は動けぬゆえ手を貸せ。
あとは……ゲルメストラ、そちも来よ。これの構造は詳しかろう」
「……いくらかは存じておりますが」
あまり余計な力は使いたくないのだが、と思いながらもクリャは風を使ってヴィーラを運ぶ。
見た目は細身でいかにも軽そうだが、元の神としての力が強いだけ紐付いた紋章が重いため、とても始祖鳥の細腕では運べない。
一方、自力で這ってくることを要求されたゲルメストラが、恨めしげにこちらを見つめていた。
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