176 うそつきは裏切りの始まり

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 ガエムトのようすがおかしい。

 非常事態なのだから当たり前なのかもしれないが、生来落ち着きのないこの怪物は、今はいつも以上に慌しくあたりを見回している。


 これまでと違うのは、それが獲物を求めるためではなく、捕食者を恐れるがゆえの動きである点だろう。


 たぶんガエムトも怯えている。

 今のドドはかつて存在しえなかったほど、相対的な首位にあり、なおかつ絶対的に強大なのだから。

 さすがのガエムトも、初めて己の生命の危機というものを感じているのかもしれない。


 あちこち動き回っている間にフォレンケの扱いも雑になってきた。

 最初は赤子でも抱くみたいに両腕でしっかり抱えてくれていたのが、そのうち片腕だけになり、いまや鷲掴みにされている状態だ。

 まあこちらとしては振り落とされなければそれでいいけれども。


 そして異形の神は地中と地上を行ったりきたりしながら、追ってくる気配が次第に近づいてくるのを感じていた。


 だからこそふたりは戻ってきている。

 乾ききってざらざらの土と、萎びた枯れ草ばかりがわずかに残る、寂寥に満ち満ちた彼らの故郷に。


 どうせ相対するのなら、他の誰かの所領よりもここがいい。


『ヴヴヴヴヴヴ……』


 いつもより低い声で呻り、ガエムトはふいに足を止める。


 棘のついた尾がしなって大地を穿つ。

 すべての神が強制的に人型をとらされている今も、ガエムトの風体は少しも変化していない。


 この神は元から獣ではないからだ。


 しかし人とも言いがたい。

 何にも属さぬ、異形の死神。


「──ずいぶん手間ァとらさせてくれるよな」


 やがて背後から、恐れていた声が聞こえてきた。


 アンハナケウにいたときのような口調ではなく、耳慣れた、品のない下町口調の男がそこに立っている。

 単なる気まぐれか、あるいは当人の意識とは別に、大紋章との距離に関係があるのかもしれない。


 かといって、彼は気のいいヒヒに戻ったわけではない。


 頭部以外は毛の少ない身体に布を纏い、そこから伸びるのは二本きりの脚。

 嗅覚も聴力も衰え、しなやかな尾も失った代わりに、器用な腕をふた振り手に入れた。


 獣であることを忘れたかの神は、眩むようなまばゆい光を従えている。

 立ち姿からすら傲慢さが滲み出ているようだった。


 まるで踏み締めているその大地までまるごと己のものだと思っているかのような、──いや、それが今の事実なのかもしれないけれど。


 フォレンケは認めたくない。

 この不毛で乾ききった憐れな土地は、それでもヴレンデールの民と自分たちのものだ。


「ガエムト、ボクを下ろせ……持ったままじゃやりにくいだろ」

『ヴグ』

「……喰えるか?」

『ヌゥゥ……ガァァアア!』


 当然だ、と言わんばかりの雄叫びを上げ、ガエムトはドドへ向かって突進していく。


「おいおい、おい。誰を喰えるって? 己をか?」

『ドド! ドド、喰うぞ!』

「馬鹿も大概にしとけよなァ」


 次の瞬間、人神の目鼻の先にまで迫ったガエムトの黒爪はしかし、ドドを引き裂くことはできなかった。

 異形の神の肉体は吹き上げられた業火に包まれ、ガエムトの苦痛の咆声だけが広い地平にこだまする。


 しかしその身を焼かれる程度で止まる忌神ではない。

 火達磨のままガエムトは、もがく動きでそのままドドへとかいなを振るう──その頸を叩き落してやろうとする。


 けれども再び、今度は天から振り下ろされた雷がまっすぐに彼の頭蓋を打ち砕いた。


 血飛沫が舞い、聞いたこともないような悲鳴が上がる。


 それはガエムトの声で、同時に、フォレンケの声でもあった。

 巨体がその場に崩れ落ちるのを見て、思わずフォレンケは這いながら彼のもとへ行こうとする。


 しかし目の前に、黒く焼け焦げたガエムトの尾が、それを拒むように放り出された。


 こちらに来るな、と言っているかのようだった。

 尾の先から上がる、腐肉の焼ける嫌な臭いと煙とを、フォレンケは呆然としながら浴びる。


「ガエムト……」


 ふたりを見下ろすドドが、腕を組む。


 ガエムトの身体がわずかに浮くが、それは決して彼が立ち上がろうとしたためではない。

 真下の土が盛り上がっているだけだ。


 土壌は荒れ狂ってそのままガエムトを放り出し、宙に舞ったぼろぼろの身体を風の刃が無情に切り裂く。


 片足と尾が千切れ飛び、角が砕け、そのうえさらに棘だらけのおぞましく太い蔓がその身を戒めるように縛り上げた。

 ガエムトはまだ抵抗の意志を見せているが、彼の身じろぎでは蔓はびくともしない。


 異常だ、とフォレンケは思った。


 ガエムトがこれほど一方的にやられるのも初めて見たが、それにしても、ドドがあらゆる力を己の生まれ持った才能のごとく自在に操ってのけることが、何より異常だった。


 神が有する力や性質はそれぞれ異なり、またその種類は限られている。

 フォレンケが知る限りかつてのドドが扱った力も基本的には一種類だったはずだ。


 それを、他の神の力を吸い上げているとはいえ、一度に複数の力をここまですんなり使いこなせるものなのか。

 まるで元の持ち主に成り代わったかのように。


 ──まさか、だから、人の姿なのか?


 フォレンケの脳裏にそんな考えがよぎった。


 このたびの変事、つまりは世界改変と同時にすべての神が一様に人の姿に変えられているのだ。

 それまで獣の姿しかとったことのない弱い精霊ですら。


 それにも理由があったのか。

 いや、何の理由もなしにそんなことに無駄なエネルギーを消耗することのほうがおかしい。


 たったひと柱でクシエリスルを乗っ取ること自体が想像を絶する大事業であったに違いないのだから、ふつうに考えて、ドドはあらゆる行程を必要最小限の作業と熱量で進めたはずだ。


 もちろん人間も獣の一種には違いない。

 だが、人間には数多の獣の中で唯一といっていい特性がある。


 そのために人の姿を取らざるをえなかった──そして同時にそれ以外の神に対しても、右倣えで同じ加工を施したのなら。


『ヴウ……ぁ……がァ……グウウ……ッ!』


 フォレンケの思考を遮るように、ガエムトの痛々しい呻き声が荒野に響き渡る。


 拘束が眼に見えてきつく締まってゆき、またその表面にある無数の鋭い棘がガエムトの身体を苛んでいるのだ。

 青黒い彼の皮膚を引き裂いて、そこから赤紫色をした血がじわじわと染み出し、砂上にいくつもの染みを作っていく。

 しかも蔦の上には幾度となく青白い稲妻が走るのが見えた。


 それは拷問としか言いようのない行いだった。

 もともと容易く死ぬ身体ではないとはいえ、命を奪うことより苦痛を与えることにこそ重きを置いている。


 そしてそれは、当然ながら、見ているフォレンケを見逃すものではない。


 ガエムトを捕らえている蔦と似たような茨がこちらにも伸びてくる。

 それを避けたり追い払う余裕もないフォレンケは、なされるがままにつるし上げられた。


 棘は自らの重さだけ深々と食い込み、さらにはしなりをつけて飛んできた別の蔓が、容赦なく少年の身体を鞭打った。


 茨の一本は頸にも絡み付いている。

 打たれて痛みにもがくたびに、それが締まって呼吸を奪った。


 意識が飛びそうになりながらもまだ考えている。

 どうしてドドはすぐにとどめを刺そうとせず、こんなふうに甚振るのか。

 彼がこれから手元に置いておこうとしている女神ならまだしも、自分たちはドドにとっては必要性のない男神であるというのに。


 そして、思う。

 しないのではなく、できないのならば、そこに勝機がありはしないか。


 嬲って痛めつけることはできても、命を奪うまでにはいかない理由。

 たとえば彼が我がもの顔で振るっている力が、やはり本来は借りものに過ぎないゆえに、扱える部分に制限があるのではないか。


 もしくは単純に殺すこと自体が都合が悪いのかもしれない。

 生きたまま喰わなければならない理由があり、そのために弱らせようとしてこうした凶行に及ぶのか。


 なんにしろ、理由がわかったところで今のフォレンケに反抗のすべはない。


 だが伝えることはできる。

 他の、もう少しマシに動ける誰かに。


 だから今フォレンケがするべきことはひとつ。


「……なァ、フォレンケよ。おめぇはクシエリスルとかアンハナケウとか、好きだったか?」


 ドドがそう呟いたとき、あれほど激しかった鞭打ちが止んだ。

 フォレンケもガエムトも答える気力がなく、いたずらに血を滴らせながら、ぼんやりとドドの言葉を聞く。


「己はな……案外、嫌いじゃァなかったな。昔は顔を合せりゃ殺しあってた連中が、弱ェもんを虐めるのも止めて、腰を下ろして相手の話に耳を傾ける……そんな時代が来るなんて、思ってもみなかったよ」

「……な、ら……ど……して……」

「どうして裏切ったか? そりゃ簡単なこったよォ。


 己より先にクシエリスルが裏切った。

 アフラムシカのやつが嘘を吐いた。


 あの野郎は誰のことも信用せずに、外にタヌマン・クリャなんて置きやがったんだ。いつか絶対に誰かが裏切るからってなァ……」


 ──だからお望みどおり裏切ってやったんだ。

 どうせ誰も信用ならねェんなら、己以外みんな死ねばいい。


 ドドは悲嘆に暮れるような声音でそう言いながら、顔では笑っていた。

 嘲笑でも哄笑でもなく、クシエリスルの南部の盟主であったころのように、快活で爽やかな笑みだった。


 だからこそフォレンケは恐ろしく思った。

 狂っている。

 ドドは今の状況をほんとうに心の底から正しいと思ってやっている。


 それに、……それならドドこそ。


「う……そ、つき……」


 フォレンケが絞り出したその言葉に、ドドの太い眉がぴくりと歪む。


「聞いたよ……カーイがやった、クシエリスルから抜ける、方法……自分の、後付けの神格を、もとの精霊から切り離すんだって……。

 ……でも、それができるのは、そもそも初めに同盟に参加したとき。

 ドド、おまえも、同じ手を、使ったんだろ。


 つまり初めから、おまえは、裏切り者だったんだ……アフラムシカが先じゃない……!」


 次の瞬間、フォレンケは地面に叩きつけられていた。


 衝撃に薄らいだ意識の中で、茨の拘束がにわかに解けたかのように思えたが、逃げる暇もなく鋼色の雨に打ちのめされる。

 無数の細い刃がフォレンケの身体を余すところなく大地に縫いつけたのだ。


 ほぼ同時にガエムトがひときわ大きな声で喚く。


 彼のほうも何かされたのか、フォレンケは身動きができないどころか両眼まで刺し貫かれており、もう周りのようすを視認すること自体が不可能だった。


 さすがに傷つけられすぎた。

 想像を絶する苦痛と大量の出血で、もはや意識を保っていることも難しい。


 だからせめてこの血が届けばいい。地中深くへ──そこに神へ。


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