幸福の国 アンハナケウ
177 凍海の門番
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ほんとうに何もかもが白いんですね、とスニエリタが嘆息して言った。
ここは丘の上、彼女の眼下に広がる街並みは、塗料を流し込んだかのように一様に白い建物に埋め尽くされている。
「ここまでくるとちょっと病的だよな。
こちらはやや溜息混じりにミルンが答えた。
ミルンとスニエリタは今、ハーシ中部のとある町に来ている。
ここは住民がほぼすべて白ハーシ族であり、今はもちろん唯一神クシエリスルを祀っているが、元はシロクマの神・アニェムイの信仰地域の最南端だった場所だ。
町の広場を貫く大通りの向こうに、その社が見える。
白ハーシ族の名は、『何者の支配も受けていない』無染の色としての白のほかに、とにかく白いものを好むところにも由来している。
神として選んだのが白い獣だったこともそうだし、その社はもちろん町の建物の大半も白一色だ。
漆喰やペンキを塗ったものがほとんどだが、ハーシ北部に産する白肌の樹木を用いたものも多い。
そんな白の町に降り立ったふたりは、まっすぐに大通りを進んだ。
もちろんフォレンケからの依頼を果たすためである。
彼から頼まれたのは、ミルンとスニエリタ、そしてロディルとナスタレイハ、この二組の人間たちが手分けして大陸中の目ぼしい神の信仰地域を訪れることだった。
そこでロディルが集めていた各地の紋章を奉納し直してほしいというのだ。
もともと彼を追っていたミルンも同じ紋章をコレクションしていることを、どうやらフォレンケは見抜いていたらしい。
かつてそれは、ロディルがナスタレイハの救済のために集めたものだった。
詳しいところはミルンも直接聞いたわけではないのでわからないが、連絡係を請け負うクリャの傀儡からはそのように教えられている。
結果としてロディルはそれらを彼女のために使うことはなかった。
だが、それがたまたまアフラムシカがミルンに接触するための扉として機能し、さらにはこうしてクシエリスルの異常に対する何らかの策としても使えるというのだから、世の中何がどう転ぶかわかったものではない。
とにかくできるだけ短時間に多くの紋章を納めるため、交通の便や移動距離を重視して訪れる場所を決めなくてはならなかった。
その神の信仰に纏わるもっとも権威ある宗教施設ではなく、たとえばアニェムイならハーシ北部の総本山とされる神社まで行くには時間がかかりすぎるため、もっとも南にあるこの町のさほど大きくない社を選んだのだ。
通りを抜けたふたりは神社の門をくぐり、境内へと進む。
ララキ救出時と同じくクリャの傀儡がずっとくっついてきているが、こうした施設の敷地内には入ってこられないようだった。
クリャの気配が消えたのを感じながらもふたりは奥へと歩いていく。
奉納する、といっても簡単なことではない。
今この社を支配しているのはアニェムイではなくクシエリスルを名乗る別人なのだから。
記憶を書き換えられているここの住民からすれば、今のミルンたちは見知らぬ異教の神の紋章を持ち込もうとする異端者でしかないのだ。
というわけで人目を避け、草木の生い茂る境内をひたすら奥へと歩いていく
できるだけ観光客や参詣者、社に勤める宮司たちなどの眼が届かないところを探していると、そのうちふたりは雑木林に迷い込んでしまった。
一応足元には石畳があるので、ここも参拝のための道ではあるようだ。
しかしかなり奥まで来たためか、周りに他の人間は見えない。
「このあたりでいいか。スニエリタ、一応周りを見張っててくれ」
「わかりました」
ミルンは手帳を取り出し、必要な頁を探す。
旅をしていたときの記憶は書き換えられてなかったことにされていた。
完全に消したわけではなく、封印して上から偽りの記憶を貼り付けられたような状態だったらしい。
それを聞いたフォレンケが、きっとそのことがドドにとって不都合だったからだろう、と言っていた。
世界中の神を訪ねて回るような旅をしていたこと。
各地で神に纏わる儀礼的な紋章の収集を行っていたこと。
そして、呪われた民の末裔にしてタヌマン・クリャの器である少女、ララキと出逢ったこと──その事実を覚えられていることが、世界を乗っ取っている神にとってはまずいらしいのだ。
そしてフォレンケはこうも言った。
神に祈りを捧げることは、人間にしかできないから、と。
まず最初に確認したことは、遣獣たちの記憶の有無だった。
彼らは旅の記憶こそ失われてはいなかったが、世界各地に御座していた土地ごとの神については完全に忘却していた。
それにそもそも、獣だって神に祈らないわけではないかもしれないが、そのために社や神殿を建てたりはしない。
だからこれは人間に相応しい仕事なのだ。
「──"私は深森守の御許よりまかりこしました。
『凍海の門番』に、奇しきご縁にて
教わったとおりの招言詩とともに、手帳にある紋章をその場に描く。
ひと柱の神の名と歴史のすべてを刻み込んだ紋章だ。
そう簡単に描けるほど単純でもなければ小さくもないし、内部の図形の配置など、人間が実用するために開発してきたものとは比べものにならないほど規則がめちゃくちゃだった。
何をどの順で描いていいのかすらわからない。
それでも、やらねばならないのだ。
会ったこともない神のためにではない。
自分のために。
ちゃんと旅を終わらせて、そして、手に入れたいものを掴み取るために。
いつ人が来て妨害されてしまうか、あるいは描き損じてしまわないかと焦りつつも、なんとかその紋章を描きあげる。
若干の歪みはあるにしろ、練習なしの一発でこれなら上手くできた部類に入るだろう。
今はこれでいいはず。
ミルンは手袋をすばやく脱ぎ、拍手を打つように両手を合わせる。
神前の作法はハーシ国内では共通だ。こうして瞑目し、心の中で静かに祈る。
この社のほんとうの主である、白ハーシ族の神、アニェムイに捧げる。
願わくばその力を取り戻し、再びこの地に戻ってこられるように。
祈りを終えて眼を開ける。
紋章はまだぼんやりと薄桃色の光を放っているが、それ以上の変化はない。
一度描いたものはそのままにしておけとの指示だったので、とくに消したりせず、ミルンは手袋を着けなおしながら雑木林を飛び出した。
「終わった! 次に行くぞ!」
「はい、準備はできてます!」
林の外の開けたところにスニエリタがジャルギーヤを連れて待っていた。
すばやく彼の背に乗り込み、次の行き先を告げる。
「今度は南下してワクサレアだ。とはいってもルーディーン以西はジーニャの担当だから、直接東部のルイラって町に行ってくれ」
「そこは何という神が祀られていたんですか?」
「俺らをあのキノコまみれの森に閉じ込めてたタヌキの女神、ラグランネだ」
「ああ……」
スニエリタは懐かしそうにそう言った。
あれからいろいろありすぎて、キノコの森の試験も遠い昔のように思えるし、今となってはそれもいい思い出かもしれないとミルンも思う。
当時は二度と出られないのかと真剣に悩んだものだった。
それにあの試験に関しては、それだけではない。
呟くような声でスニエリタが尋ねてくる──たしかラグランネは、運命や縁を司る女神なんですよね。
「結果的に、ですけど……わたしたちの縁も、彼女が取り持ってくださったようなものかも……なんて、ちょっと思ってしまいました」
「そうだな」
あの試験がなければ、ミルンとスニエリタの距離は以前のまま進まなかっただろう。
少なくともミルンはスニエリタに対する想いを封じたままでいたはずだ。
両想いだったことにも気づかず、そしてヴァルハーレに決闘を申し込むこともなく、スニエリタは今ごろ彼と結婚してしまっていたかもしれない。
その架空の未来を想像するとどうにも腹が立つので、ミルンはもともとスニエリタの腰に回していた手で、そのまま彼女の胴を抱き込んだ。
ちなみにジャルギーヤの背の上なので彼女のほうが手前に座っている。これが定位置なのだ。
小柄なスニエリタはミルンの顎の下にすっぽりと収まり、驚いたふうにこちらを見上げる。
そしてこちらの表情を見て何かを察したのか、何も言わず、ミルンの首筋へと頬を摺り寄せてきた。
幸せだと思う。
ミルンのままならないことも多かった人生で、今がいちばん幸福で満たされている。
これをくれたのがあの女神なら、あの当時はいろいろ思うところもあったけれど、水に流してお礼参りをするのも悪くない。
そして願わくば、ふたりの運命がこれからも離れてしまうことのないようにしてもらいたいものだ。
「ジャルギーヤ、急げるか?」
『構わんぞ。日没までか? それとも日の高いうちに渡りたいか?』
「いちばんの全速力でお願い。代わりに明日、よく休んでね」
『承知した』
ワシは一段と力強く翼をはためかせ、ふたりを乗せて空の彼方へと飛んでいった。
: * : * :
ふたたび訪れたその場所には、言葉を失う光景が広がっていた。
見渡すかぎり一面に、不自然な体勢で無造作に転がっている神々の姿がある。
みな表情は苦悶に歪むか虚ろ、あるいは意識のない状態だ。
そのうちの何人かは乾いた血に塗れ、その中にひときわ紅に塗りつぶされてどす黒く変色しているのは、もはや生きものの形さえ留めてはいなかった。
どろどろの肉塊を抱き締めて、女神がひとり呆然としている。
彼女の両眼からは絶えず涙が滴り落ちて腕の中の誰かを濡らしている。
幸福の国どころか、そこはまさに地獄だった。
ようやくそこに戻ってきたヌダ・アフラムシカの姿を見ても、誰も何も言わない。
何人かが弱弱しく顔を上げて、くちびるをかすかに震わせただけで、誰も言葉を発する気力すらないようだった。
あまりの光景にララキは息を呑む。
以前来たとき勢ぞろいした神々の威圧感に押し潰されそうだったのが嘘か幻のようだ。
いつかはあんなにお喋りだったクシエリスルの神々が、あんなに仲が良さそうだった彼らが、今は冷たい静寂に身を浸しながら今にも死にそうな顔をして横たわっている。
あの日、ともすれば自分が殺されかねなかったことも忘れて、ララキの胸がぎりぎりと痛んだ。
「シッカ……どうして、こんなことになっちゃったんだろう……」
思わずそう尋ねると、ライオンの神は悲しそうな瞳で答える。
「私が、采配を誤ってしまったせいだろう」
「どういうこと?」
「ドドの気質を知っていながら盟主の地位を預けてしまった。もしかしたら、そうした立場を持たせることで彼に変化があるのではないか、という期待があったんだ。結果としてそれは誤りだった……」
「──違うよ、アフラムシカ……」
ふたりの問答に口を挟んできたのは、ちょうど足元に転がっていた少年だった。
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