175 常翠堅磐(とこみどりかきわ)なる御社主(みやしろぬし)、森羅万象の老魁、大尊老、あるいはハヌハラの眉雪

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 遥か、遥か、遠い昔のこと。


 まだ人間たちが国も町も造らずに、森の中で、山で、あるいは川縁の草原で暮らしていたころの話だ。

 大地には七柱の神があった。


 獣の神、人の神、炎の神、水の神、天の神、土の神、そして樹の神だ。


 これらの原初の神は、現代では『第一期の七柱』、または『ハヌハラの七つ神』と呼ばれている。

 このうち六つの神は早々に滅びたが、樹の神だけは残った──人の記録にはそう残されている。


 厳密には少しだけ、違う。

 神の側であまりにもいろいろなことが重なって、それぞれが役割と責任を全うするために、七つの神は合一を果たしたのだ。


 形だけ見れば、それは今日のクシエリスルとも似ている。

 違うのは、樹の神以外はその姿を消してしまったこと。


 それ以外の神々は、異なるものへと代替わりをした。

 そのうち水の神から生まれたものがペル・ヴィーラとなったほか、『第二期の十六柱』と呼ばれる者たちが多数生まれた。


 結果として神の総数は倍以上にまで増えてしまい、さらにその数十倍の精霊を生み出したが、こちらもまたヴィーラ以外は激しい闘争によって姿を消した。


 そうして今日に至るまでの間に、『第三期の八百万の神々』が生じ、そのうちクシエリスルを受け入れたものと、ただひと柱のタヌマン・クリャを除いて、他の神のすべては滅び去る。


 もしかしたら、神話は第四の時代を迎えているのかもしれない。

 クシエリスルという名を手に入れたひと柱だけが生き残り、それ以外をすべて駆逐してしまうという、そんな時代が訪れるのか。


 誰より古く、永く生き、数多の神の栄滅を見続けてきた老木は思う。


 ──これで最後にするべきだ。


 この大陸では、あまりにも多くの神が消えすぎた。

 そして、これが、最後になるべきだと。




 老人の顔色は悪い。

 その前に立つカーシャ・カーイは、まだ若い。


 盟主のうちでも最も歴史が浅く、それだけに成り上がるための手段を一切選んではこなかった、若輩者であることはカーイ自身よく自覚している。


 だからこそ考えていたのだ。

 目の前の老人の瞳に灯った決意の色が、何を表しているのかをすぐに読み取れるほどの経験を、オオカミはまだ有していなかった。


 しかし今は悠長に相手の腹の探りあいをして遊んでいる時間はない。

 ドドの相手は引き受けるからオヤシシコロのところへ行け、とガエムトを連れたフォレンケには言われたが、彼らがそう長く持つとは思えないからだ。


 アンハナケウに残してきたもののことを考えても、カーイはとにかく早く力を手に入れてドドを潰しに行かなくてはならなかった。


「……もうひとつ条件がある」


 ようやくオヤシシコロが口を開いたかと思うと、そんな言葉が飛び出した。


 この後に及んでまだ何か言いつける気かとカーイは呆れたが、老人は薄く笑みを浮かべて、今やれとは言わんよ、とこちらの心境を見透かしたようなことを続ける。

 そして曰く。


「ドドを潰したあとの話じゃ。パレッタを頼みたい」

「あ? 何だよ藪から棒に……」

「おまえさんが直接面倒を見てやるでも、誰かに話をつけるでもいい……方法は問わん。わしの枝の代わりになるものを、見繕ってやっておくれ。

 それが最後の条件じゃ。呑むか、呑まんか」

「……ジジイてめえ、まさか、てめえの"策"ってのは……」


 それはまるで、この先、もう自分がいないことを予知するような言葉。

 そしてそのとおりにオヤシシコロは頷いて、言った。


「カーシャ・カーイよ……このわしを喰って往け」


 カーイは呆然としてそれを聞いた。


 言わんとしている意味はわかる。

 この世で最も古い神であるオヤシシコロの力をそっくりそのまま得られたら、ドドを潰すことも可能だろう。


 たとえ今の彼自身がクシエリスルに縛られている身であろうと、その外に身を置くカーイの腹に飲み込んでしまえば束縛の効力は失われ、それどころか精霊に堕ちている今のカーイがオヤシシコロの神格を継承して神に返り咲くことも叶う。


 それはまさに起死回生の一手であり、これ以上ない妙案だ。

 これより有効な手段が他にあるとは思えない。


 しかもカーイはかつて実際にオヤシシコロを喰おうとしたことがある。

 そのときはオヤシシコロも全力で拒絶したため叶わなかったが、今の状態、しかも当人に抵抗の意志がないのなら容易く喰いおおせることだろう。


 だが、カーイは、頷かなかった。


 自分では、自分はちっとも変わっていないと思っていた。

 牙を隠しただけで失くしてはいない、いつか気が熟したらクシエリスルから寝返って、好きなだけ他の神を喰い散らかして自由に生きてやろうと思っていた。

 そのときはオヤシシコロにだって手加減などするつもりはなかったのだ。


 だが、実際に喰えと言われても、かつてあれほど望んだことなのに、どうしても頷けなかった。


「冗談は……笑えるやつだけにしとけよな」

「阿呆か。冗談や酔狂でそんなことを言うもんかね」

「ああ、わかるさ、だから冗談じゃねえっつってんだよ。……冗談じゃ……」


 情なんて持ち合わせていないと思っていた。

 それなら今、カーイの胸を蹴り上げている抵抗の感情はなんなのだろう。


 周りをぜんぶ喰って盟主になった。

 非常時に喰うための眷属を創り、実際にそれを喰った。


 眼を合わせたら喰い殺されると恐れられ、魔物だの悪霊だのという呼ばれかたにも甘んじたし、それを不本意と思ったことさえない。

 自分でもそう思ってきたからだ、血も涙もない怪物なのだと。


 それでも今この場で、こうしてみて、ひとつだけわかったことがある。


 オヤシシコロカムラギこそ、一匹狼のカーシャ・カーイにとっては唯一の理解者だった。

 本心を話せるのは彼にだけだったし、あるいは腹の底で考えていることを、いちいち口にしなくてもこの老人は察することができる。

 捕食者としてのカーイに一切の怯えを見せず、生意気な狗だと笑ってくれるような度量の広さを持っていた。


 つまり彼は友人であり、また時には親でもある、そんな相手だったのだ。

 知らず知らず彼の前では、カーイは安らぎを得ていた──それを今ここで無に帰さなければならない。


 カーイは項垂れ、地面を睨んだ。

 そこを這うように広がっているオヤシシコロの根は、今はどこか乾ききって枯れかけているように見えた。


 しわだらけの老人の手が、犬でも撫でるような仕草でオオカミに触れる。


「なんちゅう顔しとるんじゃ。まさかカーシャ・カーイともあろう者が、獲物を前に躊躇うのか」

「……ハン、んなわけ」


 鼻をぶるりと鳴らして、オオカミは顔を上げる。


 オヤシシコロは穏やかな瞳でカーイを見つめていた。

 その中に情けない顔をした自分が映っていることを知っていたカーイは、半ば無理やりに、にやりと牙をむいて笑う。


「痩せぎすの、よぼよぼで……食いでのねえジジイだって思っただけさ」


 それを聞いたオヤシシコロも、──前から思ってはおったが、おまえさんは嘘が下手じゃなあ、と言って笑った。



 どちらともなく昔話をする。


 いつだったか、カーイにクシエリスルのことを教えてやったのはオヤシシコロだった。

 アニェムイとやり合って引き分けに終わったカーイが、気まぐれにオヤシシコロのところに寄ったので、オヤシシコロはいつものように仕入れた話をオオカミに教えてやったのだ。


 ──南のヌダ・アフラムシカという者が、新しい仕組みを神の世に創ろうとしているそうだよ。


 ──なんだそりゃ。んなくっだらねえ機構なんざ、誰も参加しねえだろ。あれこれ規則なんか決められたら何も出来なくなるじゃねえかよ。


 ──おまえさんはそうじゃろうな。

 ああ、わしは入ろうかと思っとるよ。


 ──ハン、なんでまた?


 ──まああれじゃ、ほれ、うるさい狗っころにじゃれつかれんで済みそうじゃろ。


 ──噛み殺すぞクソジジイ。誰がいつてめえにじゃれついたよ。


 ──狗っころは否定せんのかい。

 ……まあそれは冗談じゃがの、そろそろ世が落ち着いてもよい頃合じゃ。おまえさんとて、アニェムイに殴られるのは痛かったろうて。


 ──ケッ、こんなもんかすり傷だよ。

 あんにゃろう、普段はヘラヘラしてやがるくせに、とんでもねえ馬鹿力だ。


 ──あの温厚なアニェムイにそこまで本気を出させるのも稀じゃがのう……。


 思い出せる会話はいつもこんな具合だ。

 たいていカーイがオヤシシコロにからかわれる、あまり愉快とはいえないやりとり。


 しかしこの大樹の根元で身を休めると、他で同じようにするよりもずっと傷の回復が早いので、カーイは負傷するたびにここを訪れていた。


 オヤシシコロはそれを咎めるでもなくオオカミの来訪を受け入れ、いろんな話をしてくれた。


 他の地方の神のこと。

 もういなくなった神、そして新たに生まれた神や精霊の話。

 地方ごとに異なる人間の習俗。

 あるいは獣の習性、土壌の性質、東西南北に見る植生の諧調変化(グラデーション)。


 長生きの老人は見識が広く、自慢の情報網からいつでも新しい話題を提供してくれる。


 自然とカーイも世のあれこれに詳しくなり、人の姿を覚えてからは、自分でもあちこちを見て回るのが趣味にもなった。

 そんなわけでカーイが持つ唯一物騒な要素のない二つ名が『旅人の伴』であったりする。


 旅をするのは面白い。

 クシエリスルに入って他所の神を喰えなくなってからは、信仰の姿もよく観察するようになった。

 いろんな場所でそれぞれ異なる人生を歩んできた人間たちが、不思議なことに、神に祈るときだけは似たような顔をすることも、神盟加入後に知った。


 自分に注がれるハーシ人たちの祈りも、それまではほとんど聞き流していた。

 気まぐれにしか応えてやらない冷たい神を、なぜ彼らがずっと変わらず祀ってくれていたのか、そのときになって初めて不思議に思った。


 それとなく、そのことをオヤシシコロに尋ねたことがある。


 先達はこう答えた。

 ──人間にとってはな、おまえさんがること、それ自体が支えになるのじゃよ。


「……パレッタにとってのあんたも似たようなもんだろ。俺はきっと怨まれる」

「おまえさんにとっちゃ、大したことでもなかろう……」

「かもな。むしろ前からこのガキには嫌われてるようだったし、大差ねえか。

 ……なあ、ところであんた、どうしてそんなにパレッタを気にかけてんだ?」

「……かわいいじゃろう」


 根の先を、鮮血が濡らしてぬらぬらと輝いている。


「嵐の日じゃったなあ……わしを知らずに、戦禍を避けようと、に転がり込んできたよ……」


 震える声で思い出を語る老人の眼差しは、傍らで眠る少女に向けられている。


 もしかしたらその頬を撫でてやりたかったのかもしれない。

 だが、彼にはもうそうするための腕がない。


 肉体のすべてを失い、紋章を破壊されるまでは、神は死なない。

 たとえ頭部だけになってもまだ、死ねるわけではない。

 そういう意味では、大陸じゅうのどんな獣より悲しい運命を背負った存在なのかもしれない。


 神だの精霊だのと名のつくものを滅ぼすには相応の時間と、過剰なまでの痛みと暴力を伴う。

 ましてそれが盟主となれば。


 だからだろうと、カーイは思う。


 誰より神を喰らうことに慣れている自分なら、裁量次第で苦しむ時間を最小限にもできるだろう。

 それこそドドに殺されるよりはずっと楽に死なせてやれる、他のどんな盟主や腕自慢の中堅どもよりも。


 そして、きっと……こうも思いたい。

 力をくれてやってもいいと思う程度には、オヤシシコロは自分を認め、信頼してくれたのだと。


「小さく弱い……それでも、必死に生きておる。

 ……小さな翼で……わしの幹を、せっせと洗うのがなぁ……いとけない、というのか……とにかくな、見ておるだけで、魂の濁りが消える……」

「……俺にはよくわかんねえ感覚だな、そいつは」

「いや、いつか、わかる……おまえさんにも、きっとな……カーイ」


 ──パレッタを、頼む。


 それが彼の最期の言葉になった。


 あとはすべてカーイが喰ってしまったから、噛み砕いて、飲み込んで、腹の中に収めて、それで終いだ。

 あとには少しの血痕しか残っていない。


 カーシャ・カーイは口許の汚れを拭い、天を仰いだ。


 大樹の形はまだ残っている。

 だが、そこにもう魂は篭もっていない。紋章もない。近いうちに倒れるだろう。


 そして人間が処理するか、あるいは風に運ばれるかして、いつかは跡形もなくなるのだ。


 ここに樹があったことすら忘れ去られる日が来るかもしれない。

 その樹に掲げられていた名前とともに。


 これまでだってそうだった。


 カーイが喰ってきた神々は、そうやって消えていった。

 今ではもう誰も彼らの名前を思い出せない。

 人間や獣どころか、彼らと直に関わりのあった他の神からすら、忘れられる。


 紋章が消えるというのはそういうことで、例外などひとつもないのだということは、カーイがいちばんよく知っている。


 それでも背を向けた。

 ここに留まっていい理由などひとつもない。


 雪片混じりの風が眠れる少女を包み込み、そのままゆっくりと持ち上げる。

 カーイはその背に彼女を乗せると、もう一度だけ大樹を振り返ってから、意を決したように走り出した。

 やがてその脚は大地を離れて宙を駆け上がる。


 空には雪雲の橋を渡して、行き先は決まっていた。


 今は殺戮と悲劇の地に成り下がった──そしてオヤシシコロカムラギは生涯一度も足を踏み入れることのなかった、神の国へ。


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