167 ラスラ島

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 朝を迎え、ミルンとスニエリタは再びチロタの南下を始めた。


 しかしスニエリタの体調がよろしくなく、というのも彼女は昨夜あまりよく眠れなかったそうで、朝の時点からすでに身体がきつそうだった。

 ただでさえ野宿に慣れていないお嬢さまに草敷きの地面は固すぎたかもしれない。


 そうは言っても遣獣を頼れないこの環境では、何があろうと徒歩で進むしか道はないのだ。


 と、思っていたのだが、スニエリタがあまりにしんどそうなのを見て、クリャがやれやれと声を上げた。

 そして彼が何か古い祝詞のような言葉を口にすると、地面に青紫色の紋章が浮かび、そこから見覚えのある漆黒の獣が這い出てきたのである。


 どう見てもそれはいつかにワクサレアの宿場町を襲っていた獣と同類のものだ。


 色味を反転させたかのような奇妙な黒いトラが、ミルンたちの前でその背を伏せる。

 乗れと言わんばかりに。


「こ……こんなもん呼べるなら昨日のうちに出してくれよ!」

『だから何度も言っておるだろうが、それなりに消耗するのだと。次はないと思え』


 ほんとうに頼りにしていいのかそうでないのかよくわからない神である。


 ともかくトラにはありがたく乗せてもらい、そこからはかなり楽な移動となった。

 もともと人を乗せることに慣れた獣ではないので騎乗は快適とは言いがたいが、荷物をひっかけて手綱代わりにすれば振り落とされることもないし、さすがに速い。

 しかも幻獣の類なのでほんもののトラよりずっと耐久力もあるらしく、何時間かぶっ続けで走り続けてくれた。


 おかげでかなりの距離を稼ぐことができ、夕前には海が見えたほどだ。

 徒歩だったら間違いなく日付を越えなければ辿り着けなかっただろう。


 さすがにそこまで走り抜けると幻獣のトラも力尽き、スニエリタがお礼を言いかけているところで地面に溶けて消えてしまった。


 大陸の南端に、砂浜は少ない。海水が触れるぎりぎりのところまでマングローブが群生している。

 あるいはチロタの側から黒ずんだ泥土が流れ出ているような箇所がたくさんあった。

 その泥の周りは嫌な臭いがして、魚も近づこうとしないらしく、呪われた土地は海からも拒まれているようだ。


 しかしここでならどうにか紋唱術が使えそうだったので、足を海に浸しながら遣獣を呼ぶ。


「──我が友は爛漫なり」


 むろん水上移動が可能な遣獣はいないので、頼りになるのはジャルギーヤだ。


 彼の背に移動してから、もう一度地図を広げつつ、探索の紋唱を行う。

 マヌルドよりずっと距離が縮んでいるので、以前より詳しくララキの位置を調査できるはずだ。


 刃の示した方向にある島に彼女はいる。

 ……はず、なのだが、ここへきて刃がとんでもない方向を向いた。


 確かに海の彼方を指している。

 やはりどこかの島にいることは間違いなさそうだが、しかしその方角に、地図上では名のある島を見つけられないのだ。

 ちょうど適当な島同士の間を指し示しているのである。


 紋唱そのものの手応えからして、不発や失敗という感じではなさそうなのが、またさらに疑問だった。


 念のためスニエリタにも頼んでやってもらったが、やはり彼女の違う種類の探索紋唱でも同じ結果が示された。

 とりあえず紋唱の示した方角に進みながら、ふたりは額を付き合わせて考える。

 これは一体どういう意味なのか。


 ララキがその方角にいることは間違いないとするならば、推論できることは限られている。


「……地図にない島がある、ってことじゃねえかな。考えられないことはない」

「そうですね。チロタに面した海ですから、あまり調査が進んでいない海域なのかもしれませんし……」

「南洋諸島にしても特定の国に属してるわけじゃないらしいし、島ってのは大陸とはそう交流がなくてもどうにかなるもんなのかもしれないな。その島自体に充分資源があるとか、周りの島とやりとりすれば事足りるとか」


 そんな話をしながら飛ぶこと一時間弱、いや、もう少し経っていただろうか。

 もう水平線に太陽が近づいているころだったが、海上に浮かぶ島が見えた。


 しかも想像していたよりもずっと大きく、周りに小さな島を幾つも従えている。

 遠目からもそれなりに栄えている町があるのが見えるほどだ。

 地図にないくらいだから無人島なのではないかと思っていたミルンには、かなり拍子抜けする光景だった。


 ともかくいちばん大きな島の海岸にふたりは下りる。

 消えかかっていた探索紋唱を再び唱えると、かなり近いところに反応が示された。この島に間違いなさそうだ。


 あとはララキを探して大陸に連れ帰るだけだが、どうやらふたりの旅人は相当目立つらしい。


 近くで漁をしていたらしい島民と思しき男性が近づいてきた。

 余所者が珍しいようだが、あまり歓迎されている気配ではないのが少し気にかかる。

 ミルンは自然とスニエリタを背後にやって男性と向き合った。


「……なんだい、あんたら。見かけん顔だな。それに、けったいな術を使うじゃねえか」

「大陸から来たんだ。ここじゃ紋唱術は珍しいのか?」

「ああ、クシエリスル人か」


 男性はそう言って、ふうと息を吐いた。

 どうやら大陸の人間をこの島ではそう称しているらしい。


「このラスラ島じゃ、紋唱術ってのは島主とうしゅさまのもんだからな。わしらみたいな者には見る機会も滅多にねえよ」


 どうやら表情が険しいだけで、そこまで拒絶されているわけではないらしい。

 質問にもすんなり答えてくれるので、ミルンはしばらくこの男性と話をして、この島の情報を集めることができた。


 島の名称はラスラ島。周りの小さな島々には人は住んでおらず、島ごとに役割を持った施設があるだけらしい。

 どうやらここの住民は元を辿ればイキエス人やヴレンデール人であるようだ、というのは男性の外見からの判断だが、地理的にもそれが自然だろう。

 言葉も問題なく通じるようだし、彼らがこちらに渡ったのはそれほど昔でもなさそうだ。


 そしてラスラ島には『島主』と呼ばれる一族がいて、島民のほとんどは漁師や農家だが、島主の一族は政治や経済といった町の主要機関を運営しているそうだ。


 ちなみにラスラ島には町はたったひとつだけ。

 そこに紋唱術の学校などなく、そうした技術は島主一族内でのみ継承されているようだ。


 話を聞いている間にもどんどん日が落ちていく。

 もう今日はララキを探している暇はなさそうだと見て、ミルンは最後にこう尋ねた。


「ところでこの島に宿はあるのか?」


 なにせ大陸で手に入る地図には載っていない島だ。旅人なんてほとんど来ないだろう。


 そしてミルンの考えは杞憂には終わらず、そんなものはないよ、と男性に一蹴されてしまった。


「……では、今日も野宿になりますね」

「ああ……いや、昨日よりゃ相当マシな環境だろ、大丈夫だよ。俺がなんとかする」

「寝床が要るんなら源命院げんめいいんに行きゃええぞ」


 青ざめたスニエリタを見て、男性がぱっと丘のほうを指差す。

 海岸の向こう、芝に覆われたそちらには町が広がっているのが見えるが、どうも彼はその中の建物を示しているらしい。


 聞けばそれはこの島で唯一の寺院、なおかつ医療施設であり、たまに事故などで漂流してきた大陸や他の島の人間を保護することもあるのだという。


 ミルンたちはこれといって負傷してはいないし、紋唱術が使えるので保護を必要としてはいない。

 しかしスニエリタに二日連続で野宿を強いるのは酷に思えたこと、そして唯一の宗教施設という点が気になったので、島民の提案どおりそこを訪れることにした。


 男性に礼を言って別れ、さっそく源命院とやらを目指す。


 本来ならそこは、クシエリスルの内にあった誰かを祀っていたのかもしれない。

 今となっては確かめる術もないが、ともかく淡い色のタイル張りを施した清潔感あふれる建物を、ふたりは訪ねた。


 外見はあまり寺院らしいところはなく、病院だと言われるほうがそれらしい。

 扉を叩いてしばらく待つといかにも修道女という風体の若い女性が顔を出した。


 長い頭巾とゆったりした衣服の女性はシウリと名乗り、どう見ても二十歳そこそこという若齢ながらこの寺院の責任者であるらしい。


 ミルンたちは『本来なら違う島に着くはずだった旅人』という設定で自己紹介をした。

 嘘を吐く必要性はあまりないかもしれないが、わざわざ大陸の人間が地図にも載っていない島に来た理由について、あまり詳しく説明するような場面になることを避けたかったのだ。


 そして必要ならスニエリタの体調が悪いことにでもしようかと思っていたが、そうするまでもなくシウリはにこやかにふたりを招き入れた。


 幸い今はあまり病人などもおらず、空いている部屋があるのだという。

 ふたりはありがたく一室を借り受け、無償というのもどうかと思ったので、シウリに尋ねながらあれこれお礼代わりの労働をして回った。


 一般人に紋唱術師がいないという環境のため仕事はたくさんあるようだ。


 ミルンは片っ端から修繕や掃除をして周り、スニエリタは不慣れながら厨房の手伝いをした。

 そもそも人手不足なのだろうか、源命院にはシウリのほかに住み込みで働いている人間はいないらしく、一息ついての夕食の席にはミルンたちのほかに誰もいない。

 これでは若い女性が責任者を務めるのも無理はない。恐らく他になり手がいないのだ。


 ミルンも料理を運ぶのを手伝い、ようやく三人は席に着く。


 そして、奇妙な感じだなと、向かいに腰掛ける女性を見て思った。

 これまでならその位置には間違いなくララキがいた。


 修道女に習って食卓上の恵みへと感謝の祈りを捧げ、木製のカトラリーを手に取る。


「これらはすべてこの島の郷土料理です。お口に合いますかしら?」

「はい、美味しいです」

「それはよかった。……ところで、ひとつ、不躾な質問をしてもよろしいでしょうか」


 食べながらの雑談で、シウリが真面目な顔でそう尋ねてきた。


 とくにここまで不審がられるような素振りは見せていないはずだし、構える必要もないだろうが、ミルンはスニエリタに目配せをした。

 ここは自分が答える。


 頷いて続きを促したところで、修道女はちょっと頬をほころばせて言う。


「おふたりさまは、もしかすると駆け落ちの途中でいらっしゃるのではありませんか?」


 思わぬ言葉にミルンはパンのようなものを喉に詰まらせ、スニエリタは箸を取りこぼす。


 ふたりのわかりやすい反応にシウリはくすくす笑いながら、やっぱりそうなんですねえと、ずいぶん楽しそうに続けた。

 合っていなくもないが違う、と言い返したいミルンだったが、それどころではなく水をあおる。


 一気に器の半分ほどまで飲み干し、テーブルに戻した衝撃で浮かべてあった果物がぱしゃんと跳ねた。


「なんッ……ですか、いきなり!」

「すみません。でも、おふたりさまは大変に親しいご関係のようですし……失礼ながらこちらのお嬢さま、お台所にあまり慣れていらっしゃらないごようすなので、きっとほんとうは高貴なご身分の方だとお見受けしました。かといって殿方は従者というふうでもございませんし」

「まあ否定はしませんけど……確かに傍から見るとそうなるよな……」

「不手際が多くてすみません……」


 スニエリタはまったく別の意味で落ち込んでいるようだった。

 あれだけ大きな家に生まれ育っているのだから、実家では台所に立った経験などほとんどないだろうし、ヴレンデールのときのようにそれを知るロンショットがいたわけでもない。

 どうやら手伝いでもそれなりに大変だったようだ。


 まあ見たところ卓上の料理はどれもまともな外見をしているし、口をつけたものに関しては味も申し分ない。

 そのあたりはシウリの手腕によるものか。


 ともかく初っ端の会話がこんなものだったので、その後も和気藹々とした雰囲気で食事が進んだ。


 シウリからもラスラ島についてできるだけ話を聞く。

 町のおおむねの構造や、中心部には島主の一族が暮らす区域があり、その周囲はぐるりと柵で囲われていることなど。

 ちなみに最長老である『現島主』とその長男一家からなる本家と、それ以外の親族であるいくつかの分家があるらしい。


 島民の島主一族に対する心象は良いらしく、シウリは笑顔で彼らの話をしてくれた。


 この源命院は分家のひとつであるウルバヤ家の管轄にあり、何か困ったことがあればウルバヤ家のオトマという人物に相談している、いつも熱心にこちらの話を聞いてくれるよい人だ、と。


 他にも何名か島主一族の名前を聞いたが、さすがに一度に覚えきれるものではない。

 こっそりざっとメモを取ったが果たして必要になるだろうか。


 終わりごろ、ミルンはできるだけ自然な流れを装って、こんな質問を投げかけてみた。


「よその人間がこの島に来ることって珍しいのかな? 俺たち以外にも最近島外から来た人っていましたか?」

「どうでしょう。たいていは島民の方がこちらに案内してくださいますけど……私が知る限りではおふたりさまが二年ぶりくらいのお客さまですよ」


 シウリは微笑んでそう答えた。その言葉に偽りはなさそうだった。


 食事を終え、借りた部屋で休みながら、ミルンたちはシウリに聞いた話を整理する。

 手元には探索の紋章を描いて。


 この島のどこかにララキがいることは間違いない。

 だが、余所者が来るのは二年ぶりだとシウリは言う。


 たまたま源命院の世話にならずにどこかの島民の家で保護されているだけかもしれないが、シウリの口ぶりからするとそれは稀なことのようだし、最初に会った島民のようすからして余所者に対してそれほど友好的だとは思えない。

 拒絶されてはいないが、怖がられているというか……少し距離を置かれているように感じたのだ。

 まあララキは外見的にはこの島の住民と近い民族なので、ミルンたちより受け入れられやすかった可能性は充分にあるが。


 なんにせよララキの居所についての新しい情報は得られなかった。

 これは自分たちの足で探すしかなさそうだ、とミルンは早々に就寝の準備を始める。


 一方、スニエリタは窓辺に立っていた。


「……スニエリタ、何かあんのか?」

「いえ……」


 気になって声をかけてみたが、スニエリタの返事はどこかぼんやりとしたものだった。


 しかしミルンはそれ以上追及することはしなかった。というのも彼女がすぐに、お風呂に行ってきますと告げて部屋を出て行ったからだ。


 余計なことは考えるまいと思っても、その単語にはもやもやとした雑念が浮かんでは消える。

 一度うっかり覗いてしまった記憶も未だ鮮明に残っている。

 そのとき目撃した彼女の身体のすべてをはっきりと思い出すことができるうえ、つい最近抱き締めたときの感触もしっかり覚えている。


 これはよくないと判断したミルンは、そのまま無言で布団に潜り込んだ。

 今日は寝る。


 というかむしろ、できるなら部屋をふたつ借りるべきだったのではないかと、今さらながらに思ったのだった。


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