166 結界跡

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 スニエリタとミルンは打ち崩された瓦礫の丘で野営をすることにした。


 どうも元は何かの建造物だったような場所だが、もはや原型を留めないほどにめちゃくちゃに破壊されており、本来はどのような姿だったのかを想像することもできないありさまだった。

 岩の表面にはところどころ紋章に似た紋様がある。

 どれも原始的で簡素な図形ばかりで、手袋をした手で触れても何も起こらないので、ただの模様と言ってもさしつかえない代物だ。


 ただ、スニエリタはその一部に既視感を覚えていた。

 鏡越しに一度だけしか見ていないので断言はできないが、自分自身の背につけられたクリャの印が、これに少し似ていたように思うのだ。

 しかしまさか見比べてくださいとミルンに言うわけにもいかないので黙っておく。


 それにここが呪われた民の国チロタである以上、彼に関する装飾があるのは何ら不自然ではない。


 それでもどこか奇妙に思えるのは、このような模様を今まで別の場所では見かけなかったからだろう。

 丸一日をチロタの縦断に費やしてきたし、その間に幾つもの集落や人工物の跡地を通ってきたが、そこに図形や文字のようなものは一切残っていなかった。


 そのほうがおかしいじゃないかと、今さらになって思うのだ。


 大陸にある他のどんな遺跡でも、それがどんな建物であったかを表す言葉だとか、関わりのある神を示す紋章が刻まれている。

 紋唱術が発達していなかった時代のものですら、詩や壁画で建材を飾り立てているのがふつうだ。


 チロタの民は文字を持たなかったのだろうか。だとしても、絵くらいは描かなかったのか。

 あるいは、そうしない理由があったのか。


『……何を考えている、スニエリタ』


 建物の壁だったと思われる大きな一枚岩が転がっているのを見下ろして、スニエリタがぼんやり考えごとをしていると、ふいにクリャが話しかけてきた。


 神なら人間の考えていることくらい見透かせそうなものなのに、と思いながら、別にそれほど真剣に知りたいわけでもなかったのに、なんとなく模様ことを尋ねてみる。

 なぜここにだけこれほど鮮やかな模様が残っているのか、他の場所にはこういうものがないのか。


 するとクリャは倒れていた岩の上にふわりと舞い降りた。

 彼が翼の先で軽く撫ぜると、模様はうっすらと紅い光を浮かべる。


『最盛期にはチロタの全域にこうした祭殿があったよ。だが、ここ以外はクシエリスルの侵攻を受けて跡形もなく吹き飛んでしまった。

 そのとき紋章も消えたのさ』

「では、かつてのチロタ人は紋唱術を?」

『おまえたちが想像するような代物とはまるで違うがねえ。


 この世のすべての生命が紋章を持つのだから、チロタの民も紋唱術に近い技術の発明はしたよ。

 ただ、大陸の大半と分断されていたものだから、ほとんど育たずに潰えてしまった。


 クシエリスルはチロタの何もかもを破壊した。この土地は、言ってみればとうの昔に殺されている……おまえたちがここでは術を使えないのも、大地や空気から世界に繋がる手段を得られないせいだろう。

 呪われている、というのはそういう意味だ』


 紋章を光らせているので、離れたところで野営の準備をしていたミルンもこちらのようすが気になったらしい。何を話しているのかと近づいてきた。

 とりあえずスニエリタは、ここが祭殿の跡だったらしいことを彼に伝える。


 紋唱術師としては興味があるらしく、ミルンはメモ帳を取り出した。

 先ほどまでは暗くてよく見えなかったが、今は光っているので、模様の形が正確に読み取れる。


『ここが最後に残された祭殿で、私の命綱──ララキを千年以上も閉じ込めておいた場所だったのだよ』

「せん……」

『私はそのころ、チロタじゅうに似たような生贄を作った。

 ひとつずつクシエリスルの連中に破壊され、殺されながら、最後まで守り通したのがここだ。

 もちろんヌダ・アフラムシカもここが襲われないように裏で手を回したようだがね。


 ……とはいえ千年もすれば囮が狩りつくされて、最後にここが残ってしまう。

 しかたなく、アフラムシカ自身が名乗り出てこの祭殿を破壊した。そうしてララキを保護したわけだ』

「……どうしてそんなことをしたんです!?」


 スニエリタは思わず声を上げた。


 納得のいかないことが多すぎる話だったからだ。

 ララキを千年も閉じ込めていた事実もそうだが、アフラムシカによる彼女の救出にそんな裏の事情があったことも。

 ララキはそんなことは露知らず今でも彼を純に慕っているのか、もし知ったらどんなに傷つくだろうかと思うと、やりきれない。


 それに、そもそも、クリャが生き延びるためとはいえララキのような生贄を大勢犠牲にしてきたことも、スニエリタの感覚からすると許し難いものがある。


 クシエリスル側の人間を傷つけるのとはまた話が違う。

 なぜなら彼らは、クリャ自身の護るべき民であったはずなのに。


 こちらの怒りを感じてか、クリャは肩を竦めるような仕草をしてみせた。そして静かに答えた。


『……どのみち私の民は滅ぼされた。

 クシエリスルの連中が土地を破壊し尽して、まともに作物も育たない荒地にしてしまった。水は腐って毒になり、樹が枯れ、地面はぬかるんで沼のようになった。

 とても人間は暮らせないし、獣だって生き延びるのは難しい。


 人間たちは泣きながら私に助けを乞うたよ。

 しかしクシエリスルに背いた私がしてやれることといえば、結界に連れ去ってやることだけだ。そしてそれにも限りはある』


 ──その神は言った。


“それは女がいい、その身に新たな命を孕むことができるから。

 それは若い者がいい、それだけ永く生きることができるから。

 我はそのための結界を設けよう。人間よ、未来ある幼子を我が元に差し出せ”


 そうしてチロタじゅうで幼い少女が祭殿に送られた。

 結界の中で永い時を生き延びて、いつか土地の呪いが解かれたときに、もう一度この国を立て直すことができるように──クリャは人間にそう伝えた。

 それが半ば嘘でもあるとクリャ自身が思いながら。


 呪いが解かれる日というのは、クリャがクシエリスルに与することを意味するが、そんな日は来ない。

 たとえクリャが望んだとしてもクシエリスル側にその用意がない。


 もしかしたら気が遠くなるほどの永い時間をかけて和解が成立するかもしれないが、そのときまでに一体いくつの祭殿が破壊を免れるだろうか。


 あるいは人間たちもそんな神の欺瞞に気づいていたかもしれない。

 だが、もはや滅亡に向かうしかないとわかっていて、他にとれる手段もない彼らには、子どもたちを送り出すしか道がなかったのだ。


 ──というような話を、どこか懐かしむようにクリャは語った。


 あまりに悲惨な内容だったので、スニエリタの激情はみるみるうちに萎んでしまった。

 なんだかクリャの話を聞いているとクシエリスルの神々がろくでもない存在に思えてくるような気もする。

 彼らにしても、クリャがアフラムシカの指示で同盟から離反したことを知らなかったのだし、それぞれが自分たちの領地や民を護るので必死だったのだろうけれども。


 ただ、自分の領域を護るためにそうでない者たちを虐げるというのが、スニエリタにはあまりにも気分の悪い話だった。


『まあ、おまえたちが聞いても詮のない話だ。明日に備えて今日はもうお休み』


 クリャはそこで岩の上から飛び去った。彼の翼が離れると、ぼんやり光っていた模様から輝きが失われ、あたりをゆっくりと薄闇が包んでいく。


 外から来た人間たちは無言で植物を集め、それを地面に敷いて今晩の寝床とすることにした。

 朽ちかけの蔦や葉をいくら並べても寝心地はよくならないが、贅沢を言える環境ではないことは、今のふたりにはよくわかっている。

 味気のない食事にも、誰も一言も文句を言わない。


 スニエリタが横になると、ミルンが自分の上着をかけてきた。

 少し戸惑ったが、北国人の彼からすればこの国は温かすぎるくらいなのだろうし、厚意はありがたく受け取ることにして、眼を瞑る。


 でも、とても眠れそうになかった。硬くて冷たい地面の上で、しかもあんな話を聞いたあとで。


 けれど明日もたくさん歩かなければならないのだ。

 遣獣を呼べない以上、自分たちの足だけでチロタを踏破しなければならない。

 地図で見るとチロタは他の国よりずっと小さいが、それでも徒歩で縦断するとなれば、一日二日では済まないだろう。


 眼を閉じたまま静かに息をした。

 眠らなければと、それだけを考えて。


 まる一日歩いた疲労もあってか、スニエリタはしばらくするとまどろみ始めた。

 そして、浅い眠りの中でほんの少しだけ夢を見た。


 真っ白な空間だった。

 その真ん中に、ララキが座り込んでいる。


 俯いていて表情は伺えない。

 スニエリタは急いで彼女に駆け寄ろうとするけれど、なんだか足がもつれて上手く進めず、なかなかララキのところに辿り着けないのだ。

 それに地面がずるずる滑っているような気もする。


 ──ララキさん! ララキさん!


 転びそうになりながら彼女の名前を叫ぶようにして呼ぶと、ララキがふっと顔を上げた。

 でもスニエリタには背を向けている。


 ゆっくりと、肩越しに彼女が振り返る。


 その顔は。


 ……。


 それだけ。

 数秒ほどしかない、短くて内容などあってないような夢だった。


 しかもスニエリタはそこでぼんやりと眼を醒ましてしまった。


 けれどもあたりはまだ暗く、空には僅かに星灯りがちらついていて、とても朝など来そうな気配はない。

 起きたところで仕方がないので、もう一度なんとかして眠ろうと眼を瞑りなおす。


 そこで暗闇の中から、誰かの声がするのに気づいた。


「……なあ、どうしてララキなんだ?」


 ミルンだ。もちろん話し相手はクリャだろう。

 スニエリタは眼を閉じたまま、何の気なしに彼らの会話に耳を澄ませる。


『それはどの意味でだ? 生贄のうち生き残ったのが、ということなら』

「その前だよ。そもそもシッカがここだけは破壊されないように手を回した、とかどうとか言ってたろ、さっき。

 つまりララキは他の生贄とは初めから違う扱いだったってことだろ?」

『……いやはや、よく聞いているねえ』


 クリャはどうやら近くの樹上にいるらしい。

 彼の声は少し高いところから聞こえてくるし、ときどき枝の軋みや葉擦れの音が混ざっている。


 それ以外では、この密林は静かだ。生きものの気配がほとんど感じられない。


『神と人間との間にも相性というものがある。

 巫女や呪術師の中でも、私の言葉をもっともよく聴いた者がいてね……ララキはその巫女の娘だった。ただそれだけさ』

「それだけ……か。生贄にして千年も閉じ込めた挙句、本体の隠し場所にまでしておいて、理由は適当というか理不尽なもんだな」

『人間から見ればそう映るかもしれんなァ』


 どこか自嘲めいた口調でクリャがそう返して、そこでふたりの会話は途切れた。


 かすかに物音もする。

 たぶんミルンが寝転んだのだろう、上着をスニエリタに貸してしまっているから、きっと彼のシャツは汚れてしまう。


 スニエリタはうまく眠れないまま、しばらくぼんやりとミルンたちの会話を反芻していた。


 内容そのものより、ミルンがクリャにララキのことを尋ねていたこと自体が、少しだけ気になったせいだ。

 やはり彼も旅の仲間としてララキのことを大切にしているのだろう。


 それはスニエリタだって同じはずなのに、なぜか胸の奥がもやもやと淀んでいる。

 愛の告白の上に求婚まで受けておいて、まさか今さらミルンの気持ちを疑うつもりは毛頭ないのに、どうしてこんな気分になっているのだろう。


 情けなくて溜息が出た。相変わらず恋情はスニエリタを嫌な女にしてしまっている。


 なおさらむしろ、早くララキに会いたい、という気持ちも募ってくる。

 彼女から祝福の言葉を受けないことには前に進めない気がするし、きっと彼女に会えばこんな不愉快な感情は吹き飛んでしまうと思えるからだ。


 しかしその一方で、ララキに会えたらどんな顔をして、どんな言葉で世界の異常を伝えたらいいのかと悩むスニエリタもいる。


 ララキが今どのような状況に置かれているかはわからないし、もしかしたら記憶も失っているかもしれない。

 しかしミルンがそうであったように、クリャが手を加えれば思い出すことはできる。

 そうしたら、きっとクリャがスニエリタたちに同行していることを疑問に思うだろうし、その理由を説明しようとすれば、どうしたってシッカとクリャがほんとうは手を組んでいたことを伝えなくてはならなくなる。


 このまま旅を続けていいのだろうか。

 ララキを探し出すことで、彼女を不幸にするのではないのか。


 記憶を失っているのなら、そのまま何も知らずに別人として生きたほうが、ララキにとっては幸せなのではないか。

 ……そんな考えが脳裏をよぎる。


 そっと眼を開けた。


 岩をひとつ挟んだ向こうに寝ているミルンをこっそり窺うと、彼は穏やかな寝息を立てている。

 今は相談できそうもない。

 それよりスニエリタももっときちんと休まなくては。


 努めてしっかりと眼を瞑り直し、もう一度まどろみが近づくまで、あるいは朝が来るのを、スニエリタはじっと待ち続けた。


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