168 窓辺の人影

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 まただ、と、スニエリタは思った。


 身体を起こせば辺りは暗い。だが、水平線の向こうから朝陽がかすかに滲み出しているので、少しすれば夜明けがくるだろう。


 妙な夢を見て、そのまま中途半端な時間に目覚める──これで二日連続になってしまった。

 先日はてっきり寝苦しい環境のせいかと思ったが、今日は柔らかい寝台で眠れたし、寝つき自体は良かったのに。

 体調を崩しているのかと思ったが、自分でどこか具合が悪いように感じるところはない。


 ではこれは、一体何なのだろう。


「……タヌマン・クリャ、近くにいますか?」

『なんだね』

「姿は見せないんですね」

『ここは場所が悪いからねえ。それで、私に何か訊くことでもあるのだろう?』


 そういえばここは寺院だといっていた。

 クシエリスルの影響は受けているようだから、つまりは現在世界を支配している邪悪な神の眼が届く場所ということになる。

 クリャも居場所を知られるのはまずいらしい。


「このごろ、妙な夢を見るんですが、あなたのせいではありませんよね?」

『……は何もしちゃあいない』

「その言いかた、心当たりがあるんですか」

『ララキが近いようだから、私の本体が何か干渉したかもな。しかし今は傀儡と本体が完全に絶たれた状態にあって、私ですら本体が何をしたのかはわからん。

 元が同じだから予想はできるという程度だよ。


 ただ奇妙な点がひとつある。これだけ近づいたのにまだ私は本体の位置が掴めんのだ。

 ララキは何か、結界のようなものの中に閉じ込められているかもしれんな』


 スニエリタはどこにいるのかわからないクリャの代わりに窓を睨んだ。

 陽光が少しずつこの部屋にも差し込んでくる。


 まるでこの傀儡は、クリャの本体がララキと一緒にいるかのような言いかたをする。


 もちろん本体の居場所を探すためにララキを捜索しろというのだから、両者の間に何かしらの繋がりがあることは初めから明白だったが、どうもひっかかるのだ。

 何が、と少し考えて、前の晩にクリャとミルンがしていた会話を思い出した。


 ──本体の隠し場所にまでしておいて。


 そうだ、ミルンは確かにそう言った。

 クリャも否定していなかった。


 それを額面どおりに受け取っていいのなら、ララキの身体の中にクリャの本体が潜んでいるということになる。

 果たしてそんなことが可能なのか、人間であるスニエリタにはわからないけれど、そうなるとララキの身体的な特徴のいくつかに説明がつくような気もする。

 わかりやすいところであの羽毛だ。それから、もうひとつ。


 深い溜息をついて、スニエリタはもう一度横になった。


 結局まだ相談できていない。ここまできて、あまりにも今さらだけれど、ほんとうにララキを探したほうがいいのか。

 真実を伝えて連れ戻すことが、ほんとうに正しいことなのか……。


「おーい、そろそろ起きろよ」


 しばらくしてスニエリタは揺り起こされた。

 ぼんやり顔を開けると、優しい顔をしたミルンが覗き込んでいる。


 そういえば何も考えずに彼と同じ部屋で寝ていたのだ、と寝惚け頭で思い出して、ふわふわした思考のまま手を伸ばす。

 そのままミルンの頬を包んだので、彼はちょっと驚いたようすでこちらを見下ろした。

 顔がちょっと湿っているし、寝癖もいつもより大人しいけど、朝風呂にでも入ってきたのだろうか。


 そのままぼんやり彼を見つめているうちに、気づけばスニエリタの両眼からぽろぽろと涙が零れ落ちていた。


「え、……おい、スニエリタ? どうした? 嫌な夢でも見たか!?」

「夢は、……見たといえば、見ました……」


 でも、そうじゃない。


 スニエリタは起き上がってミルンの胸に顔を埋める。


 わけがわからないだろうに、ミルンはスニエリタを抱きしめ、頭を優しく撫でてくれた。

 恋人というよりは兄妹のような感じではあったが。


 スニエリタは少しずつ、胸に溜まっていた言葉を吐き出すように言う。


 ほんとうにこのままララキを探してもいいのか。

 彼女を取り巻くさまざまな事実を見聞きしてしまった今、自分たちがやろうとしているのは、彼女を絶望の淵へ叩き落すことではないのか。

 今のまま何も知らずにいるほうがララキにとっては幸せなのではないか。


 このごろ見ている夢の話もした。


 真っ白な……上下左右、何もない無機質な空間に、ララキがぽつんとしゃがみ込んでいる夢。


 スニエリタはいつもララキから少し離れたところにいて、なぜかどうしてもその隣に行くことができない。

 必死で呼びかけていると、そのうちララキがこちらを向く。


 その顔が、いつも、ひどく歪んでいる。


 夢の中のララキは見たことがないようないびつな笑みを浮かべて、同時に血の涙を流しているのだ。


 スニエリタにはそれが予言のように思えてならなかった。

 これから自分たちがララキにつきつける真実が、彼女にそのような顔をさせることになるのだと。


 それが恐ろしいと、泣きじゃくるように吐露するスニエリタを、ミルンは黙ったまま聞いていた。

 そしてスニエリタが少し落ち着くのを待ってから、顔を上げさせて、こう答えた。


「おまえの気持ちはよくわかる。確かに、どれをとってもララキにはきつい話だし、あいつも今のおまえ以上に泣くことになるだろうな……。

 俺だって思うよ。もし今あいつがどっかで平和に暮らしてんなら、放っておいたほうがいいのかもしれない」

「ミルン、さん」

「でも、それでも、探さねえと。ララキが見つからんことには世の中全体が狂ったままだ。

 それがどれだけやばいのかなんて俺にはわかんねえけど、あのシッカが俺に頭を下げてものを頼むくらいだぜ。


 それにさ……俺たちだけいろいろ知ってるなんて公平じゃあねえだろ。あいつに悪いよな」


 その考えはなかったが、そうかもしれない、とスニエリタは思った。


 確かにこちらばかり知りすぎてしまった気がする。

 ララキ自身が知りたいと思うかどうかは別として、彼女は当事者としてすべてを知る権利があるはずだ。

 その権利を奪う資格などスニエリタにはない。


 ミルンは続けてこうも言った。

 ──あいつがどうしても辛ければ、俺たちで支えてやればいい。


 ほんとうに温かい声で、そう言ったのだ。

 この人はどうしてそうなんだろうと、スニエリタは彼を見上げながら、胸の内がぎゅうと詰まるのを感じた。


 どうしてそんな言葉が言えるのだろう。

 どうしてこんなにも温かいのだろう。


 でも、だからこそ、好きになった。


 スニエリタはただ、ミルンに頷きを返す。

 この人と一緒なら、きっと大丈夫だと思える。


 ふたりは立ち上がった。迷いがもうなくなったのを感じたからだ。


 そのまま手早く支度を済ませ、紋章を片手にラスラの町へと繰り出した。


 ここの島民は紋唱術に慣れていない。あまり目立って不審がられるとあとで困るかもしれないからと、探索の紋唱を交互に行いながら、自分の番でないときは周囲に気を配るようにした。

 できるだけ物陰で紋唱を行い、懐に隠して進むのだ。


 そうして気がつけば、ふたりは町の中心部にほど近い大通りまで来ていた。


 道の向かいにはひときわ大きく瀟洒な建物がずらずらと並び、その周囲を背の高い柵や塀が覆っている。

 あれが島主の邸宅だろう。正面の門には衛兵らしい服装の人物が構えている。


 まるでアウレアシノンの城壁のような構造だなとスニエリタは思った。

 あれも都市の中心部に特権階級だけが暮らす区域を造り、ぐるりと壁で囲っている。


「……おい、あっち指してないか、これ」


 隣でミルンが囁くように言う。

 その声音に不穏なものを感じながら振り向くと、彼が街灯の陰で描いた紋唱の刃が、島主の敷地がある方角を指し示していた。


 しかしもちろん町の反対側ということもある。

 いそいそと道を渡り、今度はスニエリタが花壇の陰で紋唱を行った。


 すると紋章から生えた茨が、ぐんと天を指したのだ。


 ふたりは顔を見合わせ、とりあえず茨を追って真上を仰いだところ、出窓があった。

 むろん建物は島主の邸宅のひとつだ。


 窓が開いているのか、そこからカーテンがひらひらと揺れているのが見える。

 その奥に、誰かいる。


 窓辺に花がたくさん飾られているのと、部屋が薄暗いのでよく見えないが、髪が風に靡いている。

 腰に届きそうなほど長い髪だ。

 衣服の感じからしても女性のように思える。


 まさか、とふたりが思ったそのときだった。


 その人の髪がひと筋、吹き込んだ風に煽られてカーテンの陰からちらりと覗いた。


 そこにありえないものを見た。


 あっと思った瞬間、窓が閉められた。

 カーテンもそのついでにきっちり閉じられたが、窓際にゆらめく人影はふたつあり、どうやらもうひとりいたらしい。


 やがて彼らは部屋の奥へと引っ込んでしまったのか、すぐに消えて見えなくなった。


 ただミルンとスニエリタだけは、その場を動けずにいた。


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