159 決闘③ - ウサギがトラを狩る方法

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 結末なんて誰にもわからない。


 トラに挑んだネズミとウサギが勝つか負けるか、やる前から負けると決めつけるなんてしたくない。

 だからがむしゃらに前を向いて、上を睨んで、ここまで走ったつもりだ。


 スニエリタはそうして今、見たくもないものを目の当たりにしている。


 吹き上がる血飛沫が霧のように訓練場の空を舞う。

 紅い靄の中を真っ逆さまに落ちていく、この世でいちばん大切な人の姿。


 悲鳴のような遠吠えが会場に響き渡る中、優雅に空を駆けるヴァルハーレに対し、観客席から拍手が飛び交っている。


 これが当然だ、と言わんばかりの光景だった。

 スニエリタの決断のすべてを否定し、嘲笑い、生まれて初めて心から求めたものを奪い去ろうとしている。


 でも、だから、それが何だ。


 スニエリタは歯を食いしばって立ち上がる。

 まだ痺れの抜けきらない身体ではあったが、動けないわけではない。

 手袋だって奪われていないし、闘志も失われていない。


 まだやれる。まだ、ぜんぶ潰えたわけではない。


 落下してきたミルンをすんでのところでミーが受け止めている。

 一方、気をとられたアルヌがその隙を突かれ、トラに強烈な一撃を喰らってしまった。痛々しい苦悶の声がスニエリタの耳にも届いてくる。


 まだシェンダルは氷上を駆け回っているが、ヴァルハーレが氷壁に向けて炎の術を連発していた。

 すぐに転がり落ちてくることになるだろう。


「っ……ミルンさん……!」


 駆け寄りたい、というのが心底の気持ちだ。

 今すぐ彼のもとへ走りたい。怪我のようすを見て手当てをしてあげたい。


 でも、そんな暇はない。


 戦わなくては。

 ヴァルハーレに対抗するにはスニエリタは弱すぎるけれど、それでもやらなければ。


 彼が空を飛ぶというなら、スニエリタも同じことをする。

 できると信じてやるしかない。


 ヴレンデールで目覚めて以来、一度も描いていなかった紋章を、今。


 ──あの子は何と言ったかしら。

 自分の主として相応しくない、だったような気がする。ほんとうにそのとおりだった。


 そして今でもそう変わりはしないけれど、それでも、あらん限りの声で呼ぶ。


「我が僕は……爛漫なりッ!」


 紋章が輝く。きらきらと、河のせせらぎのように細かな光を散らしている。


 そこから現れてくれるはずの影が見えないことを、スニエリタは認めない。


「出てきて……! お願いだから、わたしと一緒に戦って! 力を貸して!」


 叫び、喚き、滲んだ涙が宙に舞う。……それが、ふいに吹き抜けた風に散る。


 スニエリタの目の前に広がるものがある。

 大きな翼は金糸雀かなりあ色で、美しい光沢がところどころを黄金に魅せている。

 優美な姿とは裏腹に恐ろしく澄んだ冷たい眼差しが、呆然と見上げるスニエリタへと、どこか微笑むような気配を交えて注がれていた。


 なんと挨拶すればいいのだろう、なんてことをふと思った。

 初めまして? 久しぶり? それとも。


『成長したな、我が主。さりとてなお未熟だが』

「応えてくれてありがとう……そして、おかえりなさい、ジャルギーヤ」


 結局スニエリタの口から出てきたのはそんな言葉だった。

 ワシは何も言わず、静かにスニエリタへと頬を寄せる。


 求められるままにジャルギーヤの首筋を撫でながら、初めて触るのにどこか懐かしいような気がした。


 いや、この手はもうこの感触を知っているのだ。マヌルドを出てからヴレンデールで別れるまでずいぶん世話になった。

 厳密にはそのときこの身体を支配していたのはスニエリタではなくクリャだったが、同じことだろう。


「あのね、ジャルギーヤ。あの、コンドルに乗っている人……彼を倒したいの。あなたの力を貸して」

『むろんだ、主の言葉には従おう』

「それともうひとつ。……主人と僕ではなくて、わたしと、お友だちになってくれる?」


 ジャルギーヤはそれを聞くと眼を丸くして、それから、高らかに笑った。


 かくしてスニエリタはワシの背に乗って飛行する。

 翼の付け根に太腿を食い込ませると体幹が安定し、この状態でも両手描きの技法が使えるのだということも、スニエリタの身体は覚えていた。

 飛び上がる間にも幾つか紋章を描いて、発動はさせずに取っておく。


 脳裏にあるのは、かつてロディルが我が身を捨てんばかりの戦法でもぎ取った勝利のこと。

 スニエリタが同じことをしようとしたら怪我では済まないかもしれない。だが、それは自分ひとりだけでやったらの話だ。


「ジャルギーヤ、まずは彼を地面に落としましょう」

『承知した』


 地上には気絶しているらしいミルンが転がっている。

 まず、ヴァルハーレを彼と同じところに落とすことからすべてが始まる。


 他の獣たちはそれぞれスニエリタたちの動向を見守ったり、トラと戦ったりしている。

 シェンダルはすでに落とされてしまったが、まだ動けはするようで、雪雲の紋章も消えていない。

 おかげでオオトカゲの相手だけは誰もしないで済んでいる。


 スニエリタは上を見る。

 上空にはヴァルハーレが、降りしきる雪の中、スニエリタが昇ってくるのを待ち構えている。


 彼の周囲には八つか九つほどの火の玉が浮かんでいて、彼が凍えないように温めているようだった。

 それを消せば少しは動きを鈍らせてくれるだろうか。

 消すことができるだろうか、スニエリタに。


 ともかく彼と同じ高度にまで一気に上がり、スニエリタは紋章を描く。


「対円・翔華の紋!」

「ふうん。……枢嵐すうらんの紋」


 スニエリタの攻撃を、ヴァルハーレは同属性で格上の術を被せることによって押し返してくる。

 例によって手加減されているのと、ある程度はジャルギーヤが避けてくれるので、防御のことはあまり考えずに攻撃を紡ぐ。


 飛びながらジャルギーヤが翼から衝撃波を放つ。もともとは地上にいる相手を想定した攻撃方法だが、角度をつければ空中の敵にも向けられないことはない。

 スニエリタたちが連携して放つ、短いスパンで繰り出される波状攻撃を、ヴァルハーレは涼しい顔で捌いている。


 こちらは両手、向こうは片手だが、それくらいのハンデで追いつける相手ではない。


 やがてこちらの放った風の攻撃をそのまま飲み込むようにして、うねる炎がスニエリタへ向かって吹き上がってきた。


 ヴァルハーレの得意属性なのかもしれない。生きているかのような動きで炎のヘビが宙を舞い、ジャルギーヤの軌道を読んでいるかのごとく正確に追ってくる。

 これはさすがに迎撃しなければならないだろうかと、スニエリタが描く紋章を変えようとしたところで、ジャルギーヤが急にぐんと高度を上げた。


『あれを気にするな、スニエリタ。あの若造を叩き落すことだけに集中するのだ。私はあんなものに落とされたりはせん』

「……ええ、あなたを信じる。翔華の紋、重ねて、割葉の紋!」


 風が吹き荒れる。

 そのさなかにスニエリタはいる。


 ジャルギーヤの翼とともに、自分も風になったような心地がした。


 ヴァルハーレを落とすまでは攻撃の手を止めてはいけない。

 防御なんて考えている暇はない。


 向こうのコンドルはジャルギーヤほど小回りを利かせた飛行はしないようだ。

 背に乗せたヴァルハーレが立ったままの姿勢で騎乗しているせいだろう。

 起立しているのはそのほうが視界が広くなるためだろうが、そもそも攻撃と防御を同時にこなせる腕前の彼からすれば、もともとこの遣獣には飛行能力以外に頼る必要もないのだ。


 炎のヘビだけでは足りないと察し、ヴァルハーレが手数を増やした。

 獣の形をしたさまざまな事象がスニエリタを、いや、ジャルギーヤを喰らわんと襲ってくる。


 水、氷、風、雷、土、岩、ありとあらゆる属性をヴァルハーレは見事に操ってみせた。


 サメの形をした水流をかわし、氷が象った雄牛の角を避け、風の龍を切り刻み、ジャルギーヤは飛び続ける。


 ほんとうに強いワシだと思う。

 スニエリタを乗っ取ったタヌマン・クリャが、家を出ていちばん最初に手に入れた従者だけはある。

 この長時間の飛行に耐える屈強な身体はどうやって形成されたものなのだろう。


 スニエリタの受け取った記憶の中には、どこかの岩山で彼らが交わしている会話だけがある。

 スニエリタの口を借りたクリャが、そこで暮らしていたらしいジャルギーヤを伏せて契約を結ばせた──それ以前のジャルギーヤのことは未だにわからない。

 そもそも性別がどちらなのかも曖昧だ。


 これからそれを知っていきたいと思う。

 友として付き合っていきながら、少しずつ。


 そうしてそんな未来に想いを馳せるとき、スニエリタは心から、その場景の中にミルンがいてほしいと願う。

 彼の遣獣たちとももっと仲良くしたい。

 自分の遣獣たちとミルンにも親しくなってほしいと思う。


 思い、想って、望み、こいねがう。

 それはいつしか神への一筋の祈りに変わる。


 ──わたしの神はペル・ヴィーラ。

 でもその方に今は聞き遂げる力がないのなら、今日だけは異国の友の神たるタヌマン・クリャへ。


 あなたの命に尽くす代わりに、ただひとつのわたしの想いを、どうか叶えてください──。


「……ジャルギーヤ、いい? 今からわたしの言うとおりに」

『ふむ?』


 これからスニエリタがしようとしていること、そのためにジャルギーヤにしてほしい動きを伝えると、ワシは笑いながら頷いた。


『よい度胸だ、うむ、いいだろう! しかし我が友よ、決してしくじるな』

「もちろんです。では……」


 雷を纏った鳥とオオカミの形をした土くれを上手い具合に避け、両者を衝突させて粉々にしたあと、ジャルギーヤは岩石をつぎはぎにして拵えたイノシシに向き合った。


 いつだったか、同じような場面があったことをふたりとも覚えている。

 フィナナの地下で二度目にミルンと戦ったあの日のこと。


 飛び出してきたアルヌを上手くかわしきれず、スニエリタは落下した。


 同じだと思う。きっと今日これからもう一度あの失態を演じる。

 一瞬の間にイノシシの牙が目前に迫ってきたのを、ろくに防御を張りもせず見つめている自分は、傍からはきっともう諦めたように見えるだろう。


 イノシシのすぐ背後からヴァルハーレも追ってきている。

 スニエリタはそちらをじっと見つめていたから、そのうち彼と目線がかち合った。


 ヴァルハーレは笑う。

 そろそろ諦めて自分のものになってくれるかな、という顔だ。


 スニエリタも微笑んだ。


 微笑んで、詠った。


「──多重円の散開、嵐華の紋」


 その瞬間、スニエリタを運んでいたジャルギーヤの姿が紋章の内へと消える。

 宙に放り出されたスニエリタの身体は、今しがた発動させた無数の紋唱によって包まれ、そこから生じた上昇気流によって遥か高くへと舞い上がった。


 標的を見失ったイノシシは地へと落ちてゆき、もとの高度には驚いたようすのヴァルハーレが残される。


 しかし軍人にはそれほどの動揺はない。

 逃げ切れないと悟って自棄になったか、と彼は薄く笑って、数秒後には落下し始めたスニエリタの真下へと進み出た。


 空いている手を広げて待ち構えるヴァルハーレの胸へと、スニエリタは真っ逆さまに落ちていく。


「……そうすると思いました。あなたは決して、わたしをそのまま落下させることはない……」


 スニエリタはまるで彼の手をとろうとしているかのように腕を伸ばす。


 その手のひらを見てヴァルハーレの眉間が歪む。それと同時にスニエリタは叫んだ。


「多重円、割葉の紋!」


 このために、飛翔した瞬間から描き溜めていた。

 どんな術を使うにしろ、ヴァルハーレを相手に効果を持たせるには紋章がひとつやふたつでは足りない。

 嵐華も割葉も膝の上に溜めておけるかぎり描き続けていた。


 もちろんそうと悟られないよう合間に別の術を描いて放つので、溜めるのには時間がかかってしまう。


 そしてもうひとつ、理由がある。

 手を尽くしてヴァルハーレを落とすのはいいとして、そのあと地上で彼を仕留めるための手は、スニエリタひとりでは用意しきれない。


 だから、待っていた。


 ──わたしはひとりじゃない。だから絶対に諦めたりしないの。


 スニエリタはヴァルハーレをコンドルから突き落とし、そのまま抱き締める。

 少しでも彼の動きを邪魔するために。


 ほんとうに慕うたったひとりのために、愛してもいない男にこんなに近づくことができてしまうのだから、やはり恋は女を醜くするのかもしれない。


 けれども構うものか。誰になんと言われようと、ミルンにさえ受け入れられるのなら、スニエリタは生きていける。


「くっ……苔床たいしょうの紋──」


 地面はあのときと同じように雪が積もっている。

 このまま落ちても積雪が緩衝材になって大きな怪我は免れるだろう。


 しかしヴァルハーレは無様な落下を避けようと、落ちながらでも紋唱を続ける。

 それに彼のコンドルも主人を拾いなおそうと近づいてきていた。


 スニエリタはその手首をぐいと引っ張り、ヴァルハーレの放った術の矛先をコンドルへと向けさせる。


 地面に使うはずだった樹の紋唱をくらってコンドルは仰け反り、その間にもスニエリタたちは落ちていく。


「なんてことをするんだ、このままじゃふたりとも落ちるぞ!」

「一緒に落ちてくださらないんですか?」

「冗談じゃない!」


 そんなやりとりをしているうちに間近に地面が迫る。


 ぶつかる、と思った瞬間、雪原を割ってヴァルハーレのトラが飛び出した。


 鮮やかな毛皮を雪まみれにした獣は大口を開いて待ち構える。

 スニエリタをここに放り投げろと言っているのだ。喰うためではなく捕縛するために。


 ヴァルハーレはそれを見て頷き、スニエリタの腰を掴んだ。

 小柄なスニエリタは今度こそ引き剥がされ、軍人の腕で軽々と放り出される。トラがそこへ躍り出る。


 それを、横から飛び出した茶色の獣が弾き飛ばした。


 すんでのところでスニエリタを奪還したミーが、駆け寄ってきたアルヌの背に彼女を放る。

 そのまま走り去るイノシシを尻目にクマは紋章へと消えた。

 獣たちの連携プレーの間に、荷物を失ったヴァルハーレは無事にどこも打ち付けることなく着地をしたが、すぐさま足元の違和感に気がつく。


 彼は飛び上がって、地表に向けて紋唱を描いた。

 その爪先を捕らえようと雪の下から蔓草が伸びるのを、ヴァルハーレの描いた炎がたちまち焼き潰すが、しかし──。


「……まさか」


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