147 東へ
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紅蓮の紋章から現れたのは浅黒い肌をした男性だった。
逞しい体躯は大陸南部の装束と思われる腰布に包まれ、赤みがかった艶やかな黒髪の間から、驚くほど静かな眼を覗かせている。
深い知性と気品を感じる、美しい蒼い瞳だ。
一方、
それは顕現するなり、指のついた翼で男性に向かって恭しく一礼してみせた。
ミルンとロディルはいつの間にかひれ伏すような恰好になっていた。
何の言葉もなくとも、そうした身体の感覚だけで理解できる。
この男性と奇妙な獣は神の類で、ことに前者は位が高く、恐らくかつては世界中にその名を知られた存在だったに違いない。
先ほどミルンの口を借りて何者かが唱えた『糾える神盟の主』という言葉は、きっと彼のことを指している。
やがて、顔を上げなさい、という声が聞こえた。
その言葉を聞いた途端、身体がふっと軽くなって自然と上体が起き上がり、ミルンは男性と眼が合った。
その瞬間、前にもこの神に逢ったことがある、と直感的に思った。もちろん顔に見覚えはないけれど。
『タヌマン・クリャ、なぜ私をここに呼んだ? この少年に今の状況を変えるほどの力があるとは思えないが』
男性は獣に向かってそう尋ねた。
どうやらミルンの身体を借りていたのはこの鳥のような神のほうだったらしい。
ミルンはその姿をまじまじ観察して、そういえば古生物の図鑑で似たような獣の想像図を見たことがあったな、と思い出した。
始祖鳥。爬虫類と鳥の中間のような姿は、まさしく目の前の神が表している。
『むろん、彼ひとりではどうにもなりますまい。ですがララキの救出には必要と存じますのでな』
『……私ひとりでも探し出せる。呪いに至っては私でなければ解けないだろう』
『そう急いては事は成せぬでしょう。
いいですか、アフラムシカよ、あなたは大変に力強い神であらせられる。ゆえに目立つのです。このような非常の時なれば、なおのこと闇夜を打ち消す陽光のごとくでしょうな。
当然クシエリスル──否、ドド
『なるほど。つまり、やつの眼を欺くために人の力を借りるべきだということか……たしかにそれくらい慎重に動いたほうがいいかもしれない。不本意ではあるが』
神々はそんな会話をしてから、もう一度ミルンとロディルに向き直った。
タヌマン・クリャが笑うような声音で告げる。
『ミルン・スロヴィリーク。そして、ロディル・スロヴィリークよ。眼を醒ますがよい』
脳天に、電撃が落とされたような衝撃があった。
兄弟はふたたびその場に崩れ落ち、
その後ろから滲むように出てくる、別の記憶──やがてそれは雨後の濁流のように溢れ出し、淀んでいたまやかしを押し流して、彼らがこの二年間にほんとうに体験したできごとが改めて上書きされる。
最初に、ロディルの失踪があった。
次にそれを追ってミルンが家を飛び出した。
ナスタレイハを救うためのロディルの果てしなく長い旅と、ララキと出逢って一変したミルンの道行き。
それぞれが道中で出逢った人や獣、見聞きし知りえたことのすべてが、経験となって降り積もる。
各地に祀られていた神々の姿や名前もはっきりと思い出した。
ロディルは瓶を手に取った。
──これはヴレンデールのサーリ町で苦労して手に入れた秘薬の原液だ。
ミルンは拳を握った。
──どうして今の今まで忘れていたんだろう。
ララキ、ヌダ・アフラムシカやタヌマン・クリャ、そして何より、スニエリタのことを。
「……何が、どうなってるんだ? クシエリスルとか名乗ってるのは一体どこの誰なんだ? 他の神はどこへ消えた?
それにスニエリタはまだ結界に閉じ込められたままなのか? もしそうなら……この家で眠ってたはずの身体はどこにいっちまったんだ!?」
「さっきララキを救出するとか言っていたように思うんですが、彼女の身に何かあったんですか?」
急激にいろんなことを思い出したせいか、ミルンとロディルは混乱と興奮に包まれながら口々にそう尋ねた。
神々は頷いて、彼らを軽くなだめてから、ひとつずつ質問に答えた。
クシエリスルを牛耳ってその名を我がものとしているのは、かつて南部で盟主を務めていたヒヒの神ドドである。
彼が元々あった基盤を悪用しているため、アフラムシカなど予め策を講じておいた者以外は、すべてアンハナケウに囚われて力も最小限に留められている。
世界が改変された際、スニエリタはマヌルドの実家へと戻された。
彼女に関してはクリャの印の効果により改変前の記憶を保ったままである。
そして問題はララキであった。
彼女はたしかに一度、アンハナケウへと到達した。
アフラムシカの枷を外すためであり、それこそがドドによってクシエリスルを操作するために必要な手順を兼ねていたとは、多くの者が気づいていなかった。
ドドは事前に自らの大部分をクシエリスルの基盤からこっそりと抜いておき、なおかつアンハナケウに盟主が揃う瞬間を見計らって仕込んでいた細工を起動させたのだ。
それがどんな細工だったのかは、今はどうでもいい。
問題はドドの世界改変と同時にララキがいずこへかと姿を消してしまったことなのだ。
改変後しばらくはドドもアンハナケウに留まっていた。
あくまでクシエリスルは大陸の神々の協定であるから、ララキが大陸の外に放り出された可能性は低いだろう。
しかし、恐らくミルンたちと同様に記憶を操作されるなどして、どこかでまったくの別人として生きているものと思われる。
アフラムシカたちはなんとかしてドドを倒し、世界の修正を行わなくてはならないが、それにはララキの存在がどうしても必要なのだ──そこまで言ってから、アフラムシカはミルンに歩み寄り、その額にくちづけた。
『私はしばらくドドの気を引く陽動役を務めることにする。必要になったら呼びなさい。
ミルン、きみはこれからマヌルドに渡ってスニエリタと合流し、ララキを探す旅に出てほしい。あの子はきみと彼女を深く信頼していた……恐らくきみに任せるのが今は最も堅実だろう。旅の手引きはこのタヌマン・クリャが務める』
「ちょ、……ちょっと待ってくれ。
根に持ってるわけじゃねえけど、一度は気絶させて拒んでおいて、今度は助けてくれってのはさすがに虫が良すぎるんじゃないのか。それにスニエリタまで巻き込む気かよ」
『ああ、きみの言い分はよくわかる。……だがこちらとしては背に腹は変えられないし、時間もない。
どうか我々に力を貸してほしい。このままでは罪のない小神たちが不当に虐げられ、一部は存続の危機にも瀕しているのだ。
ララキの奪還さえ手伝ってくれたらそれでいい。すべてが終わったら、必ず改めてクシエリスル全員できみに謝罪しよう。
そのうえで、きみがアンハナケウに望んだことを検討させてくれ』
ミルンはアフラムシカを睨んだ。
これほど高位の神がここまで腰を低くして人間相手に頼みごとをしているのだ、どう考えても異常な光景だし、それだけ彼らは切羽詰っているのだろう。
ドドという神についてはよく知らないが、他の全員を騙して今の状況を創り上げたのなら、たしかに性質の悪い神なのかもしれない。
その神が大陸全体を支配するのは不味いのだろうとも理解できる。
そして、そんなやつにどこかに攫われたらしいララキのことが、まったく心配ではないと言えば嘘になる。
だが、彼らはなぜララキを救出する必要があるのかを話していない。
頼むにしても唐突だし、なぜミルンでなければならないのか、なぜスニエリタも同行させるのか、不明な部分が多すぎる。
しばらく睨みあっていたが、アフラムシカは口を割らなかった。視線の攻防ではやはり分があるのは神のほうだ。
やがてミルンは不承不承といったようすで、わかった、と答えた。
ロディルがぱっと自分を見たのに気づいたが、ミルンはあくまで視線はアフラムシカに向けたままで、続ける。
「スニエリタも連れて行くなら、謝罪や詫びは彼女にも保証してくれ。それが条件だ」
『もちろんだ』
アフラムシカは頷き、そして次の瞬間、ろうそくの火が消えるようにふっとその姿が見えなくなった。
残されたタヌマン・クリャがロディルを見る。
弟の決断を無言で見守っていた兄は、自分の番が回ってきたことを察し、慌てることなくじっと神の言葉を待った。
クリャはくちばしのない口を開き、男とも女ともつかない奇妙な声で話し始める。
『ロディル、おまえにはある場所に行ってもらおうかねえ。おまえの能力ならさほど困難ではないだろう』
「……でもターリェカを置いていくわけには……」
『おまえは何のために薬を作ったのか思い出したんだろう?』
クリャはずいと顔を近づけ、鼻の頭に噛みつきそうなほどの距離で続けた。
『あれを飲めばおまえの妻は充分に回復するよ。それでも不安だと言うなら私が少しばかり手助けをしてやってもいい、どのみちクシエリスルは無視していい身分だからねえ』
「そもそも、外の神であるあなたを信用していいのかがわからない。ヌダ・アフラムシカはそうではないようですが」
『それならそれでいい。私は信用ならずとも、アフラムシカの言葉なら聞けよう? 私のしたことで何か不都合があれば、あとでアフラムシカに言え。あれは人間風に表現するなら私の"上司"にあたるからねえ』
「……どのみち話を呑まなければ離してくれなさそうですね」
『わかっているじゃあないか!』
そこでクリャはげらげら笑った。
嘲笑にしか聞こえないそれはかなり耳障りなものだったが、ロディルは溜息混じりに頷いた。
というのも、そのときロディルの喉にはクリャの尾羽が一枚巻きついていたのだ。
羽根の形をした彼の力の一部分が触れているのは、言ってみれば首筋に刃を当てているのと同じで、交渉ぶった口調とは裏腹にやっていることは脅迫以外の何ものでもなかった。
断わろうものなら他の家族にも被害が及びかねないとロディルは判断したのである。
実際それも間違いではないだろう。クシエリスルに縛られないこの神は、いくらでも人質をとっていいし殺してもいいのだから。
しかしどんな形でも、このふたりの兄弟が神との契約を交したのは事実。
ロディルも額にクリャのくちづけを受け、ふたりはすぐに旅に出るための支度を始めた。
とはいえ実家ではなく両親の住まう別宅で、しかも式に出るために出てきたので、普段着や身の回りのものは最低限しかない。
足りないものは行った先で揃えるしかなさそうだ。
準備を整えて玄関まで出たミルンを見て、ロディルが言う。
「僕はターリェカに薬を飲ませてくるから、おまえは先に行きなさい。ララキとスニエリタによろしく伝えておいてくれ」
「ああ。お互い無事に戻れるといいな」
「まったくだ。ああ、それから──我が友は
ロディルが描いた紋章は鈍色に輝き、そこから同じ色をした大きなフクロウが現れた。
身体の色は暗いのに眼差しだけが鮮やかな橙色で、大きな瞳にぎょろりと睨まれたので、ミルンはちょっと顔をひきつらせる。いや、単に目つきが悪いだけでひるんだのではなかった。
嫌な予感がしたのだ。まさか、と言いかけたミルンを遮って、ロディルは続けた。
「彼はウルムハルト。ワクサレアまでくらいなら充分飛べるだろうから、乗っていくといい。おまえの手持ちに移動向きのはいないだろ」
「そうだけど、いや、でもさ……ジーニャはどうすんだよ」
「僕は他にもいるから気にしなくていい」
ミルンが気にしたいのはそこではなかったが、かといって空を飛ぶものは苦手だと表明するのも癪なので、諦めてありがたく借り受けることにした。
飛び上がる瞬間と着地する数秒間だけ耐えればいい。耐えるしかない。
扉を開ける。
途端に流れ込んでくる冷たい空気と、獣の鳴き声のような風の音。
空はじっとりと銀色に曇っていて、まるでミルンの新たな旅の行く末を憂えているようだった。
ミルンはウルムハルトの背を撫でながら、よろしくな、と言った。
先ほどから一言も話さないもの静かなフクロウは、ちょっと振り返っただけで何も言わずに翼を広げる。
そこに乗れというのだろう。
何度か乗ったジャルギーヤよりも狭い背に、頼りがいのない細い身体で、ほんとうにミルンをワクサレアまで運べるのか不思議なくらいだった。
しかしそれを言えば、ジャルギーヤなどこれよりひと回り大きいだけの身体で一度に三人も乗せて飛べたのだ。
ミルンはウルムハルトの背に身を預けながら、ちょっと思いついたので訊いてみた。
「おまえらみたいな鳥の遣獣って、乗せてる相手の体重に干渉するような術が使えるのか?」
『……当然です』
それ以降、ミルンは黙った。
口を開けなかったと言ってもいい。
フクロウは何の警告もなしにいきなり飛び上がり、ミルンを絶句させたまま、想像以上の速さで風を裂いていった。
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