146 嵐のあとに来たる
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その後もペネトカはもう一晩泊まっていくなどと言い張ったり、モロストボリに行きたいとのたまったりしたが、そのつど三女に宥められて最後は無事に東ハーシへと帰っていった。
あまりに言動がめちゃくちゃなため、駅で彼らを見送る頃にはミルンだけでなくスロヴィリーク家の全員がほっとしていたほどだ。
嵐のような少女だった。
どうやらミルンにすげなく断わられたのが逆効果だったらしい。
あのエネルギーを世に役立てるような方向に活かすことができたなら、彼女は歴史に名を刻むような大人物にもなれるかもしれない。
もしかするとそのうちひょっこりモロストボリに現れたりはしないかと、ミルンは不安を禁じえなかった。
住民に危害を加えるということはないだろうが、逆に上手くみんなに取り入って外濠から固めるようなことをされると非常に厄介だ。
噂なんぞ流れようものなら一日で端から端まで伝わるような田舎であり、根も葉もないことでも全員が信じれば真になってしまう。
家に帰ってぐったりと長椅子に沈み込むミルンを見て、アレクトリアも苦笑いしていた。
「すごい人に懐かれちゃったね、ミルシュコ」
「あれは当分しつこそうだな。もういっそのこと相手をしてやったほうが大人しくなるんじゃないか」
「冗談じゃねえよ」
長兄の提案を一秒で却下してまた溜息をつく。
ほんとうに冗談じゃない。同じ国の人間で同じ言語を話しているはずなのに、信じられないくらい会話が通じない相手なのだ、できればもう二度と関わり合いになりたくない。
あれなら気位の高いマヌルド人のほうがまだましだな、とミルンは思った。
思ってから、どうしてそう思ったのか疑問を感じた。マヌルド人となど喋ったこともないはずだ。
このごろそういうことが多い。
ふとした自分の思考が、自分でもよくわからないのだ。
式の前のアレクトリアとの会話もそうだった。
あのとき自分が何を言いかけたのかを未だにミルンは折に触れて考えているのだが、文脈から考えるとどうしても、ミルンには既に心を移した相手がいるということになってしまう。
単に妹に煽られて見栄を張った、ということでないのは自分だからこそよくわかっている。
「ともかく今夜じゅうに荷物をまとめておけよ。明日の朝いちばんの列車で帰るからな」
ヴィトレイにそう言われてのろのろと起き上がった。
案の定というかミルンの使った部屋はペネトカの侵入を受けており、それで物質的な被害は発生していないものの、荒らされたといえば荒らされている。
ちなみに長兄も同じ部屋で寝泊りしたためもれなく同じ目に遭ってしまった。
やはりあの少女はどこかおかしい。
精神か脳の病気なんじゃないかと思う。
部屋に戻ろうと廊下に出たら、ちょうどロディルがナスタレイハの車椅子を押しているところだった。
向きから考えて台所にでも向かっているのだろうか。
ともかくミルンは壁際に寄って彼らの通れる幅を確保した。
「ありがとう。ごめんなさいね、不便をかけて……」
「いえいえ。でもなんで台所?」
「ターリェカが家事をしたいって聞かなくてさ。無理に働こうとしなくていいのに」
「だって、お部屋でひとりで待ってるなんて寂しいもの。それに家事くらいしなくちゃ、結婚した意味がないし」
謙虚だ、とミルンは思った。
式からずっと不条理に振り回されたあとのことだったので、義姉のこうした態度には、もういっそ涙が出そうになるミルンだった。
違いはここから来てるんだと思うぞ、とも思ったが、ペネトカはもういないし教えてやる義理もない。
「……うちの妹が、ずいぶんご迷惑をかけたみたいで。ほんとうにごめんなさいね」
ナスタレイハはそう言って頭を下げてから、ロディルと一緒に廊下の向こうへ去っていった。
そのまま部屋へと向かいながら、ミルンはふと、似たようなことを誰かも言っていたような気がして、それについて考え始めた。
部屋でひとりで待つのは寂しいという義姉の言葉だ。
前にも同じことを誰かに言われたような気がするが、あれは一体誰だったろうか。
女性だった気がする。
アレクトリアだったかなと一瞬思ったが、少し違うようにも思う。
たしかに妹には、紋唱術の練習についてこようとするのを拒み、置いていくなと泣かれることはよくあったが、それではない。
部屋の扉を開いた瞬間、ミルンの脳裏で、一瞬何かが蘇った。
──おふたりがお仕事してる間、わたしだけ宿のお部屋で待ってるなんて……嫌ですっ……。
それは、知らない女の子の声だった。
それが誰で、いつそれを言われたのか、さっぱり思い出せない。
それに、ふたりが、というのはミルンと誰のことだろう? それに仕事をしていたって何のことだ?
何も思い出せない。
やっぱり、おかしいのだ。あの日眼を醒ましてからずっと。
学校を出てからの二年間の記憶が曖昧になっている。
どこで何をしていたのか思い出せない。
もしかしたらその間に、ミルンはふたりの人間と行動をともにしていたのかもしれない。
そのうちのひとりに泣きつかれたことがあったのではないのか。
では、なぜその記憶が今の今まで消えていて、しかも未だにその言葉以外の何も思い出せないのだ。
それに兄の急な結婚も妙といえば妙だ。
直前まで知らなかったなんてありえないし、そもそもマヌルドの学校で知り合った彼女と、なぜ二年も経ってから結婚を決めたのか。
どちらも誰かが反対して揉めたというふうでもないし、それなのに結婚式当日に互いの家族が顔合わせなんてしている。
あと、そうだ──この世界はいつから一神教になったんだ?
少し前まではそうじゃなかった気がするのに、少なくともハーシでは完全に国民の生活に馴染んでいる。
それに前はどんな神を信仰していたのかも思い出せない。
ぞっとして部屋を飛び出し、ハーシの家の玄関に必ずある神棚を見にいったが、そこにはクシエリスルという神以外を祀っていた痕跡などどこにもなかった。
人の形をした小さな神像が、嘲笑うようにミルンを見下ろしている。
おかしい。前は絶対にこんな神じゃなかった。
よくわからないが、なぜかミルンはそう確信していた。
しかしだからといってどうすることもできないし、あの日泣いていた誰かのことを、どうやってもう一度探し出せばいいのかもわからない。
逢えば何かわかるような気がするのに。今すぐ逢いに行きたいような気がするのに。
──さようなら……。
脳裏にそんな言葉がよぎった。きっとそれも、涙と一緒に言われたのだろう。
「……ミルシュコ? こんなところで何して──」
肩を叩いたロディルが、振り向いたミルンの顔を見て絶句した。
たぶん相当ひどい顔をしていたのだろう。兄は心配そうな顔をしながら、ちょっとこっちにおいで、と言った。
弟の尋常ならざるようすに驚いたロディルは、とりあえず彼を自分の部屋に連れていった。
ちなみにナスタレイハはひとりにしてほしいと言うので台所に残してきている。
もちろんそれで何かあっては困るので、少ししたらようすを見にいくつもりだった。
ミルンは悄然としながら、思い出せない、と呟いている。
何が、と尋ねると、ぜんぶ、という答えが返ってきた。
何かものすごく疲れているようだった。
コワチ家の次女がかなり強烈な性格をしていて、しかも彼女はなぜかミルンにご執心のようだったので、その相手で疲労困憊なのは間違いない。
しかしそれだけではないのは、少し前にまだ元気そうな顔を見ているから知っている。
とりあえずどういう状態で困っているのか、根気よく尋ねてみたが、どうも腑に落ちない内容だった。
卒業してからの二年間のことがよく思い出せない。
どうしても逢いたい相手がいるような気がするのに、それが誰なのかわからない。
それにこの世界、いや、ここハーシの人間が代々祀ってきたほんとうの神が何だったかもわからない。
弟の言動は、完全に精神を病んでいる者のそれだ。
ひとりだけ違う世界を見て話しているかのような状態になってしまっている。
しかしロディルには、だからといって弟を見捨てるどころか、精神病者だと思うことすらできなかった。
単に親愛の情からそう考えたのではない。
弟の言葉の中に、ロディルにも同意できる点がひとつあったからだ。
二年間の記憶が曖昧になっている。
それはロディル自身も薄々感じながら、できるだけ考えないようにしていたことだった。
しかもまずいことに、手元には物的な証拠もあった。つまりは自分が知らないうちに遠いどこかを旅していたという記録、そしてその場所で手に入れたらしい品物である。
特別な産地でしか手に入らないものも含まれているため、ハーシとマヌルドにしか在住したことがないはずのロディルが、本来なら手にすることなどありえない。
ロディルはだから、一旦立ち上がって壁にかかっていた自分の鞄をとった。
その中にすべてが入っている。
封印したものかどうか悩んでいた、謎めいた異国の品物たちが。
それは硝子瓶に入った正体不明の液体と、大量の紙だ。
後者はロディル自身の筆跡で世界各地の神跡の紋唱について書かれている。
そこにあった紋章の図匠と意味、対応するであろう招言詩に至るまで、明らかに現地に行って調べなければわからないほど詳細な情報が書き連ねられているのだ。
液体の詳細はまだわからない。それに関する記述が見つからないのだ。
ミルンの前でメモのほうを拡げる。
それらの内容や性質はばらばらで、一見なんの繋がりもないように思える。
だが、同じ大きさの紙に描き写して並べると、ぜんぶが繋がってひとつの大きな紋章を形成するらしい、ということはわかっている。
ただ、招言詩に何を唱えたらいいのかはわからない。
ミルンは黙ってそれを見下ろしている。
「おまえの言いたいことは、なんとなくわかったよ。
僕らはどうやら旅をしていた。それぞれが別の旅路を通っていたかもしれないが、なぜかお互いにそのときの記憶を失っている」
「ジーニャ、……これは何の紋章なんだ? ずいぶん多いけど」
「それを僕も知りたいんだよ。あの瓶の中身といい、僕は二年間かけて大陸じゅうの紋章を集めて何がしたかったのか……その間ターリェカを放っておいたなんてありえないけど、もしかすると、彼女にも関係があったのか」
「……やっぱりそうなんだな。俺たちはずっとモロストボリに引っ込んでたわけじゃねえんだ。でなきゃ、この中のどこの何だったかもわからん紋章に、俺が見覚えを感じるわけがない」
ミルンは睨むように紋章の集合体を見つめる。
この謎を解ければ前に進めるのだろうか。
忘れてしまった何かを思い出して、逢いたいはずの誰かを探しに行くこともできるのだろうか。
なぜミルンは旅をしていたのか。
彼女は、そしてもうひとりの仲間がいるのならその人は、それぞれ一体どこの誰で、どうやって出逢ったのか。
ミルンと彼女はどのような関係だったのか。
もしかすると、それが妹に言いかけた言葉の続きなのではないか。
いや、きっとそうだ、そうに違いないとミルンは思う。
根拠などどこにもないが、しいていえば己の魂がそう叫んでいるような気がする。
でなければ、たった一言の別れの台詞を思い出しただけで、こんなふうに胸が締め付けられるはずがない。
──きっと俺は、あの子のことが好きだった。
いや、今でもきっと、好きなんだ。
それを心の奥底で認めた瞬間、何かがミルンの喉を掴んだ。
何が起きたのかわからなかった。
目の前の兄も異変に気づいてはいない。
ミルンは喉元に降ってきたその奇妙な感覚が、次第に自分の身体全体に及んでいくのを感じたが、もはや声を出すこともできなければ、手足も自由にはならなかった。
誰かがミルンの内に入り込んでいる。
そいつがミルンの口を借りて、ミルンの声で何かを告げようとする。
「……ぁ……
ロディルが顔を上げる。
彼の静かだった眼差しは、今は大きく見開かれていた。
「ここに降りますは……盟の外なる
途端に、紙が──その上に描かれた紋章が燃え上がった。
いや、そう思うほどの眩い光を散らした。
兄弟は絶句してそれを見つめていたが、彼らはそのうち見えざる力に弾かれて、互いに後ろに手を衝くような恰好でよろめいた。
ふたりの上空にはふたつの紋章が浮かんでいる。
ひとつは炎のように紅蓮に燃え、もうひとつは青紫色の闇を纏って不気味に煌いていた。
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