東の国 マヌルド
148 狼藉
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一堂の視線はすべてふた柱の神に注がれている。
すなわちルーディーンと、彼女を見下ろすカーシャ・カーイとに。
まるで世界じゅうの時間が凍り付いてしまったかのように、アンハナケウは今までにないほどの緊迫と、重々しい沈黙に覆われていた。
ある意味ドドの離反などよりも、ルーディーンの放った言葉のほうがずっと衝撃的だったのだ。
──私を食べなさい、カーシャ・カーイ!
誰よりも眼を丸くしてその言葉を聞いたのは、残ったもうひと柱の盟主であるペル・ヴィーラであった。
ルーディーンとは永い付き合いであるし、彼女の性格もよく知っているところ、ついでに他の男神連中がどれほど彼女に入れあげてはすげなくあしらわれて泣いていたかも長年見続けてきた。
そうして振られた神々の唯一の心の慰めは、結局ルーディーンが誰のものにもなっていない事実ひとつなのだ。
それが今、放り投げられようとしている。
他でもないルーディーン自身の投げやりな言葉によって。
もっとも彼女自身の心境はそうではないだろう。カーイの蛮行が見るに堪えないので、少しでも犠牲になる者を減らそうとして咄嗟に出た自己犠牲の言葉のつもりに違いない。
ルーディーンはそういう女だ。
他人の痛みに敏感というよりは、自分の苦痛や恐れに対して異常なほどに鈍い。
古来より、ヒツジは供物として使われる獣だった。
おぞましいほど運命に従順で、死を前にしてもほとんど暴れることがないため、殺す際に他のどの獣よりも手がかからないからだ。
そんな獣の姿を持った、今は人間の形に甘んじている女神は、自らその頸をオオカミに差し出そうとしている。
自己満足でしかない行いだと、ヴィーラはそれを唾棄した。
もしもカーイがルーディーンを群衆の前で喰い殺したりすれば、そのへんの妖精や精霊が同じ目に遭うのとは段違いの絶望と恐怖がこの場に蔓延することになるが、ルーディーンはそこまで頭が回らないのだ。
はっきり言って、この女神のそういうところがヴィーラは気に入らなかった。
一般的にルーディーンは思慮深いとされている。
謙虚で温厚柔和、誰のことも平等に扱う。
もちろんそれも間違いではない。
ヴィーラが思うに、根本的にこの女神に足りないのは矜持なのだ。
生まれつき不可触などと称されるほどの立場にあったくせにおかしな話だが、ルーディーンは自身の客観的な立場や価値についてはほとんど考慮しない。
それを他の神は誰にでも優しいと評するわけだが、優しさだけで治世が務まるほどこの世は易くはできていないし、彼女の信奉者からすれば残酷極まりない態度だ。
上に立つものには矜持がなければならない。
妥協をせず、瑣末事などは他人に任せ、さらに必要なら配下を厳しく律するべきなのだ。
人間の世界では、己を安売りする王は民を守れない。
それは神とて同じことである。とくに今のような状況では、弱いもののために自らを切り捨てようとするルーディーンの甘さなど無用の長物、むしろ害悪と言っても過言ではない。
そんなこともわからないくせに盟主の座に就いているから、ヴィーラは彼女を『面の皮が厚い』と称した。
とにかく身を起こそうとするものの、男性体でいたせいかドドに放られて広場の端に転がされているし、節々が痛む。
脚の震えがひどく、立ち上がったり歩くのはまだ無理そうだ。
水棲人類の娘が地上の男を慕って浜に上がったものの、環境が合わずに何もできないまま息絶えた――という人間の考えた民話があるのだが、今のヴィーラはまるでその娘だ。情けなくて腹が立つ。
裏切り者の話を聞いたとき、たとえ何か異常が起きても盟主の自分ならどうとでも対処できるだろうと考えて、結果として後手に回ってしまってこのありさまである。
それならせめてできることは、ドドを打倒するべく動いているアフラムシカやカーイの邪魔をしないぐらいだろう。
なのでヴィーラは痛む身体を無理にでも起こし、立てないまでも膝を衝いて、一言口を挟むのだ。
「たわけたことをぬかすなよ、ルーディーン」
「ヴィーラ……止めないでください。もう覚悟は決めました。あなたには理解していただけないかもしれませんが、少しでも多くの神や精霊が助かるのなら、私はこの身を喜んで差し出します」
「だからそれが馬鹿げておると言うのだろうが、この大馬鹿者め。そちが贄になったところで誰ひとり救われぬぞ」
ルーディーンとヴィーラのやりとりを、カーイは先ほどからずっと無言で眺めている。
彼は何を思うのだろうか。
長年欲してやまなかった女神が自らその身を捧げると言い出して、果たしてその胸中に浮かぶ感情は何だろう。
喜びだろうか。
怒りだろうか。
今は彼も人の姿で、毛に覆われた獣の時分よりずっと表情がわかりやすくなっているのに、未だその心境は表情からは窺えない。
一方のルーディーンは困惑している。ヴィーラに言われた意味がよくわからないのか、あるいはようやく己の言動の不用意さに気がついたか。
しかしながら彼女も神であるならば、一度出してしまった言葉というのは容易に引っ込められるものではないし、たとえ今から撤回したとしてもそれを受け入れるか否かはカーイ次第である。
女神は彼を見る。
ヴィーラからは、彼女の瞳にいろんな感情が渦巻くのがよく見えた。
カーイに対する不安や恐怖、自らの眷属を喰らうという行為への嫌悪感、襲われた者たちへの憐憫、そして何よりヴィーラに指摘されたことで自分の言葉に対する後悔に近い念も感じ取れる。
言われて気づくくらいなら普段からもっとよく考えておけ、とヴィーラは内心で毒づいた。
彼女は皆に慕われ愛されている。
彼女が傷つくことで、同じように傷つき悲しむ者がいる。
彼らを蔑ろにしてはいないか、皆の期待を踏みにじってはいないか、盟主ならいつも胸に留めておくべきなのだから。
「……、ハン」
しばらくの沈黙のあと、カーイは鼻で笑った。
その顔にいつもの軽薄なオオカミの姿が重なって見えるようだった。
やがてカーイはルーディーンに視線を合わせるように、彼女の前まで行って屈み、その頬に手のひらを添えながら囁くように告げた。
優しく、まるで泣いている恋人を宥めるような声音で。
「珍しく俺もヴィーラに賛成だ。ルーディーン、あんたは思慮深いが、ちょっと詰めが甘い。
俺はあんたのそういうところも含めて気に入ってるけどな」
「カーイ……あなたもそう言うのね……。でも、私はあなたが妖精たちを殺すところをこれ以上見たくはない。
お願いです、もう誰も傷つけないと約束してください。そんなことをしてドドを倒しても、今度はあなたが世の敵になってしまうだけですよ」
「ふーん。じゃあ、他にどうやってドドのクソ野郎を止めるんだ? あんたに何か考えはあるのか?」
「それは……」
ルーディーンは眼を伏せ、必死に考える。
他の神は固唾を呑んでそれを見守っている。そしてついにルーディーンが顔を上げると、全員の視線が彼女とカーイに集まった。
女神はじっとカーイを見つめながら、震える声でこう答えた。
「私が……一旦ドドに忠誠を誓います。それで、なんとか彼に取り入って、慈悲を乞いながら……私を経由して皆に力を分ければ、いずれは全員で決起して対抗できるようにはなるかと……」
ある意味それはルーディーンらしい、そして同時に、もっともルーディーンに不向きな提案だった。
極力誰も傷つけない、成功すれば恐らくもっとも平和的に解決する方法には違いないが、問題なのはそれがあまりにも希望的観測に満ちた発想に基づいているという点だろう。
いくら女神には甘いといっても、クシエリスルのほぼ全員を見事に欺いてのけたドドが、裏で力を横流しするなどといった間諜を見過ごすはずがない。
第一それを実行するのがルーディーンである点に無理がある。
もちろんカーイもそれをすぐに看破したのだろう、もう一度鼻で笑ってから、ルーディーンに顔を近づけて言った。
「そんなことしやがったら殺す」
「えっ……──!?」
ルーディーンはその不穏な返答に驚いている暇もなく、カーシャ・カーイにくちびるを奪われた。
何をされたのか彼女自身すぐにはわからなかっただろうが、見ていたヴィーラたちにも、何が起きたのか一瞬わからなかった。
それくらい唐突なできごとだった。
カーイはルーディーンの腰を抱き寄せ、頭の後ろに手を入れて、完全に彼女の逃げ場をなくしている。
「ン、んぅッ! ……っカーイ、やめ──んっ……んーッ……!」
周囲の神々が呆然として、動けぬ身体でそれを見守るしかできないでいる間、誰にも妨害されることなく狼藉は続いた。
ルーディーンは必死でカーイの胸や肩を押して抵抗しようとしていたが、もちろんカーイはびくともしない。
そのうちルーディーンは脱力してその場に崩れ落ちたが、カーイはそのまま彼女を押し倒して、その上に覆いかぶさってまで女神のくちびるを貪り続けた。
見るに堪えない光景とおぞましい音に、悲鳴に近いか細い声を上げる者もいる。
ヴィーラも当然、怒りを込めてカーイに呼びかけたが、カーイはそれをまったく無視した。
やがてルーディーンが完全に動かなくなり、ようやくカーイが顔を上げる。
なぜだかカーイ自身もひどく困ったような表情をしていた。
彼は気絶しているらしいルーディーンを見下ろして、まだ肩を忙しく上下させながら、勘弁してくれ、というようなことを呟いた。
「おい、カーイ! 正気か貴様!」
「うるっせぇな残念ながらいたってまともだ! あー……クソ、これぐらいで気絶すんなら色仕掛けとか言い出すんじゃねえよ……」
カーイは立ち上がって周囲を見回す。方法はともかくルーディーンを黙らせたのだから、また妖精や精霊を摘み食いしようというのだろう。
ルーディーンの制止はまったくの徒労に終わったわけだ。
もちろんヴィーラは止めない。他に方法がないのだから、今はこの神にできるだけ力をつけさせたほうがいい。
是非など問うている時ではないし、妖精たちにしても遅かれ早かれ喰われることは避けられないのは、本人たちがいちばんよくわかっているだろう。
喰うのがドドかカーイか、意識のあるうちかそうでないか、それだけの差だ。
そしてカーイの言うとおり、必要になったらまた作ればいい。
それをいちいち残酷だなどと言えるのは平常時だけだ。
しかし、ヴィーラの予想に反し、カーイはなかなか動かなかった。
口吻で力を吸い尽くされたせいで気を失ってしまったルーディーンを今さら気遣っている、というふうでもない。
彼の視線は下に向いているが、見つめているのは彼女の顔ではなく己の足元だった。
皮製のブーツに覆われた脚に何かが絡み付いている。
蔦、いや、根だ。植物の根がその脚を絡めとって離さないのだ。
カーイは脚を引こうとするが、根はびくとも動かない。それどころか彼を反対に引っ張っているように見える。
やがて一瞬の間に地中から、同じ樹木のものと思われる節ばった根がカーイに向かって大量に生え伸びた。
根はたちまちカーイの全身を包むと、一気に彼を地中へと引き込んだ。
意外なことにカーイはまったく抵抗するようすを見せず、諦めたように根に呑まれて消える瞬間、彼の口が小さく動いたのが見えた。
「……性悪ジジイめ」
ヴィーラには、カーイの呟きはそのように聞こえた。
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