144 神前誓婚
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翌朝、母と妹は朝から台所に篭もり、残った男連中は家中の掃除を任命された。
互いに親戚も呼ばない、披露宴もしない簡素な式で、神前での誓いの儀式が終わったらこの家に戻って宴会をするらしい。
そういうわけで先方一家が到着するまでに作業を終えなければならないが、さすがに四人もいれば作業も捗る。
とくに約一名、久しぶりに愛娘の手料理が食べられると張り切っている父親がいるので助かった。
もちろん無理でもして今後の仕事に影響が出ては困るのでがんばるのもほどほどに、手分けして床も壁も窓もきれいに磨き、妹が故郷から持ってきたいちばん出来のいいクロスを食卓にかける。
花ハーシ族の刺繍には負けるかもしれないが、水ハーシのそれだって手間暇かけて心を込めて作ったものだ。
糸の一本一本に魂が篭もっているとミルンは思う。
一段落してやれやれと居間でくつろいでいると、玄関の鉦が鳴った。
全員が弾かれたように立ち上がり、台所から母と妹も顔を出す。
誰が行く、と全員で顔を見合わせたあと、長男に肩を叩かれた次男が緊張した面持ちで頷いた。
出迎えに行くロディルに両親も同行し、残った三人はそわそわしながら待った。
「……や、やっぱり私たちも行ったほうがいいかな」
「いや、玄関が狭くなるからやめておこう。必要なら母さんが呼ぶだろうし、そのときでいい」
「うう~なんか急に緊張してきた……」
賑やかな挨拶の声がしばらくしていたが、そのままそれがこちらに近づいてくる。
足音に混じってがたがたと聞きなれない音がするのでミルンは首を傾げたが、先方──コワチ家の人びとが現れたとき、すぐにその意味がわかった。
恐らく妹と思われる人物に車椅子を押されている、見るからに顔色の悪い若い女性。
彼女こそ今日ロディルと結婚するナスタレイハという人だろう。
なるほど病気だとは聞いていたから、そりゃあ自分で歩いてくるはずがない。
彼女は三姉妹の長女のようで、車椅子を引いている少女のほかに、もう一回り小さい女の子が後ろからついてきた。
次女はミルンと同じか少し下、三女はアレクトリアより下だろうか。
といってもアレクトリアは童顔なので外見ではあまり変わらないように見える。
ひとまず家族同士で挨拶を済ませるわけだが、向こうの母親がすでに号泣していて、対応したミルンの母が大変そうだった。
病床の娘と結婚するような奇特な男がいるとは思っていなかったのだろう。
しかもスロヴィリーク家は弱小とはいえ族長の家系なわけで、向こうとしては喜び半分、申し訳なさ半分という雰囲気だった。
まあこちらの母からすれば、おっとりしていて浮いた話ひとつない次男が結婚したいと言い出したことにまず驚き、相手がどういう人かは二の次という感じだったようだけれども。
ナスタレイハは青白い
やつれて生気のない顔だったが、それはどこか儚げな美しさを感じさせた。
もとの顔のつくりがいいのか、あるいは消え果そうな生命をそれでも全うしようとしている、健気な姿勢が見えるからかもしれない。
ロディルも嬉しそうなので、まあ純粋によかったなと思う。
これからの生活はあらゆる意味で楽ではないだろうが、彼自身が選んだことなので、ミルンは何も言うまい。弟として祝福はする。
などとミルンが考えていたところに、車椅子係の次女が近づいてきた。
たしかに喋っている間まで姉にくっついている必要はないし、こちらもろくに挨拶をしていない。
どうも、と言ってとりあえず握手を求めると、彼女もにっこり笑って握り返してきた。
「初めまして、私はペネトカ。あなたはミルンね」
「え、なんで俺の名前」
「ターリェカに聞いたもの、彼の弟も紋唱術師だって。うん、思ってたとおりの人ね」
ペネトカはそう言いながらミルンを頭のてっぺんから爪先までじろじろ眺め、何やらくすくすと笑っている。
正直あまり感じのいい相手ではないなと思ったが、こんなところで揉めるようなことも避けたいので、余計なことは言わないように黙り込む。
思ったとおり、とか言われたが、ロディルは何をどう伝えたのだろう。あとで問い詰めるか。
「あのね、私も少しかじってるのよ、紋唱術。また今度ちょっと見てくれない?」
「いや、俺、そんな大した腕でもないし」
「やーだ謙遜して! もう調べはついてるのよ、エルカヴィッツ紋唱学校を準首席で卒業したんでしょ。充分すごいわ」
「……あいつそんなことまで手紙に書いてんのか」
「ううん、これは私が個人的に調べたの。前からあなたのことは気になってたのよね」
何やら面倒そうな女に眼をつけられたらしい。
ミルンは悪寒を禁じえなかったが、しかし相手は大陸の反対側である東ハーシの花部族の街に住んでいる人間なのだし、いくら義理の兄妹関係になってもそれほど付き合いは発生しないだろう。たぶんきっと。
正直やだなと思っているのが顔に滲み出ていたか、ぺネトカはまたくすくす笑っている。
やがて母親から呼ばれたので、じゃあまたあとでね、と言って彼女は去っていった。
またあとで、はともかく、また今度、というのは当分来ないでほしい。と正直思うミルンだった。
まだほんの少ししか話していないのにこんな気分にさせられるのも珍しい。
姉の車椅子を押している姿はごくふつうのお嬢さんなのに、どうもぺネトカという少女にはこちらに苦手だと思わせる何かがある。
コワチ一家は近くの宿に泊まっており、一旦そちらに戻って着替えてくるらしい。
やがてアレクトリアが横にやってきて、どうだった、と聞いてきた。
何がだよと返せば、妹は袖を引っ張ってくる。耳を貸せと言いたいらしい。
「あのね、せっかくだからミルシュコも作ったらどうかなって、彼女」
「……おっまえなぁ……余計なお世話だよ! だいたい俺はもう……」
そこで言葉が途切れ、妹が不思議そうな顔をしてミルンを見上げる。
今、なんと言おうとしたのだろう。
俺はもう、に続くべき言葉を、ミルンは見つけられなかった。たしかに何か言おうとしたはずだったのに。
もちろん恋人どころか好意を寄せる相手すら今はいない。
「もう、何? ……まあいいや、とにかく私たちも礼装に着替えなきゃ、時間ないし」
妹がぱたぱたと出て行くのを眺めながら、ミルンはまだ呆然としていた。
ハーシ人の結婚式はたいてい神社で行われる。
細かい作法は部族ごとに異なるらしいが、基本的には同じ神を信仰する者同士なら似たような形式で進めるものだ。
それでもって現在この大陸には神はひとつしか存在しないので、昔のように他宗派同士での婚姻にあれこれ外野からケチをつけられることもなく、挙式を行う社も自由に選べる。
内内で済ませる小さな式なので、会場の飾りつけも簡素なものだった。
神社の境内にある儀礼場に借りもののテーブルと椅子を並べ、そこにクロスをかけて花を飾っただけの、一見するとホームパーティーくらいのささやかさだ。
その中心で、色鮮やかな婚礼衣装に身を包んだ花嫁は、ほんとうに幸せそうに笑っている。
車椅子の彼女に合わせるため、花婿も椅子に座っている。
ふたりの前には儀礼装に身を包んだ神官が立っており、ゆっくりと祝福の
済んだ音があたりに響き渡り、その場の全員が音に合わせて一礼する。
次に新郎と新婦が誓文を読み上げる。神の前で、死ぬまで一緒にいることを誓うのだ。
喜びと緊張がない交ぜになった震えた声で、彼らは短いかもしれない結婚生活について明るく肯定した。
新婦側の親族席からはすすり泣く声がする。つられたのかミルンの隣で妹もちょっと涙ぐんでいる。
その後も式は滞りなく執り行われ、賑やかな拍手とともに終了した。
神官にお礼を言ってから一旦別れ、再び礼装を脱ぎ、相手に失礼のない程度の普段着に戻って宴会の準備をする。
女性陣は用意していた食事を温めたり最後の仕上げを施し、男性陣は酒の用意やら会場の最終確認といった具合だ。
ロディルだけはナスタレイハとともに神社に残り、新郎新婦だけが受ける禊を済ませてから帰ってくるが、ナスタレイハにはもう宴会に参加できるほどの体力はないだろう。
やがて全員がふたたびスロヴィリーク別邸に集結し、酒の力もあいまってすぐにどんちゃん騒ぎになった。
一般的にハーシ人は酒に強いと言われており、ミルンの両親もそうだが、コワチ家も例外ではなかったらしい。
普段はあまり飲まないヴィトレイなども今日ばかりは上機嫌に杯を傾けている。
しかし普段なら賑やかな場も嫌いではないミルンだったが、残念ながら今日はあまり楽しめそうになかった。
宴席に主賓である新郎新婦はいない。
だが、みんなが問題なく杯を交しているとおり、それが原因というわけでは決してない。
つまり──終始ぺネトカがくっついているせいである。
「ねえねえ、ミルンはどういう術科が得意なの? 単元素攻撃系?」
宴会が始まるなり即座にミルンの隣の席を確保した彼女は、さっきからこの手の質問を矢継ぎ早にしてくるのだ。
それこそ回答するミルンがまともに食事ができないほどの速度と頻度である。
こちらの紋唱術師としての手腕や力量を知りたいらしいのだが、気になるのは、質問にいちいち高度な紋唱理論に関する用語が含まれているところだった。
ミルンが卒業したのは首都にあって国立ではない、いってみればそれほどレベルの高くない学校なのだが、それを知っているわりにこのような訊きかたを繰り返されると、遠回しに馬鹿にされているような気分になってくる。
ミルンもそれなりに勉強はしっかりしたので、回答に困ることはない。
だが彼女の質問のしつこさは、いつかどこかでミルンが答え損ねるのを待っているようでもあり、やはり気分のいいものではないのだ。
「よく使ってるのは水系複合元素攻撃系かな」
「さすが、期待どおりの回答ね! ますます思ってたとおりの人みたい」
彼女は一滴も
そしてふいにミルンの手を掴んだかと思うと、その姉と同じく整った顔をぐいと近づけて、囁くようにこう言った。
「ねえ、ふたりで外にいきましょ? もう我慢できないわ」
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